今回の地方新聞「越南タイムズ」は水害の特集です。
3月11日には東日本大震災が発生。冬は大雪であり、大変な2011年でした。
今年は例年よりも早く梅雨明けしましたが、線状雷雲などの発生も懸念されます。
「治に居て乱を忘れず」です。振り返り、対策をもう一度考えましょう。
下流側の隣村の住人撮影による洪水状況。右上に我が家も見えます。
「新潟・福島豪雨」その時を振り返る(その1)
我が家は魚沼市を流れる魚野川の最下流となる地域になる。
北堀之内駅の約70メートルあたりに位置する。10年前の水害では、辺り一面が水没し大きな被害が出た。
湯治書き留めていた文書や記憶を元に、その時の様子をお伝えします。災害、水害対策の一助になったら幸いです。
平成23年7月28日だった。雨が降り続き、夕方には魚野川の支流、大沢川の氾濫が始まった。旧大沢川から新大沢川に堤防を潜って抜けるヒューム管が細く、溜まった水が排水しきれずに水位が上がり、我が家の地下まで浸水しそうになった。
他の小河川も氾濫し、山の畑へと続く農道も沢から流れ出た土砂で埋もれるほどだった。
その年は村の役員をしていたのだが、その水害の後始末について夜に、役員が招集されて会議をしていた。22時頃に終わって帰る途中、大沢川が再び氾濫し、民家に迫る勢いとなっていたが、住人に聞くと水は引き始めたと言う。
その話を聞き、安心して帰宅したのだった。しかし、雨は降り続き、水位は下がりそうにも無い。
23時を回ったころにはとうとう高床式の玄関の階段にまで濁流は押し寄せて来た。それでも、午前0時を過ぎるころには水はその水位を下げ初め一安心。元来楽天的な性格の私は間も無く引き始めることと信じ、心配する妻をよそに布団に入ったのだった。
2時少し前にどうも水位が上がり続けている。このままでは床上まで上がりそうだと緊迫した妻の声で起こされた。それまで妻は心配で眠られずにいたようだった。妻に促されてテレビ、温風ヒーターなどを外して二階に上げる。呑気な私に言っても、支度など素直に応じないと考えた妻は、気狂いを固定するネジ類を全部外して準備していたのだ。そして、座敷などの畳もはがして高いところに上げようと言う。
いくら何でも、そこまで水位は上がるまいと多寡をくくって低い和室用テーブルの上に畳を積み重ねたが、なおもじわじわと水位を増す状況に、畳みも二階へと上げることになった。
(続く)