人生に勝ちも負けも無いと言うのが持論です。
しかし、スポーツの世界は残酷と言えば、残酷。必ず勝敗の決着がつく。
冬季オリンピックも中盤を過ぎつつあるが、日本選手にも陰影を残しつつある。
大好きな沙羅ちゃんも、国内の「絶対に金」と期待する声の重圧につぶされてしまったように思える。
健気にも不利の追い風をも言い訳一つせずに、涙をぬぐう姿が可哀そうでたまらなかった。
日に日に、何時も淡々としている沙羅ちゃんの表情に険しさが現れて、心配した事が現実なってしまった。
さて、今大会で金メダル一号になった羽生弓弦も重圧につぶされそうになりつつも持ちこたえて結果を出した。
失敗を重ね、何十回ともなく転倒を繰り返し血を流すような練習の成果の延長にも失敗はある。
皮肉な事だが、フリーの最初の四回転で失敗した事が、逆説的にいえば幸運をもたらせたようにも思える。
ショートプログラムで一位になった羽生の失敗を見て、二番手に付けたパトリック・チャンは何を思っただろうか。
「やった、これで金メダルのチャンスが巡って来た」そんな気持ちが脳裏を掠めたのではなかろうか。
しかし、その気持ちは普段の力を発揮する事を阻む、一種の固さとなって現れた。
結果として、名手チャンにしても二度のジャンプに失敗し、手を着くと言う失敗となって現れて金メダルを逃した。
オリンピックには魔物が棲むと何回も言われている。
でも、魔物が棲むのはオリンピックと言う大会でも、ソチと言う会場でも無く選手自身の心の中に潜むのでは無いか。
「平常心」と文字で書くのも、口にするのも簡単だけれど、その心境に至るのは至難の事だとつくづく思う。
さて、この一枚の写真は『札幌オリンピック』の距離コースを走る若き日のスベルべママ。
国体女子継走で何回もの優勝経験をしたスベルべママもオリンピックの出場は果たせなかった。
前年に行われたプレオリンピックに出場し、そのノルディックコースを走る事だけは叶ったのです。
これは、ノルディック全日本選手権での光景と思われる。
スベルべママは短い競技人生の中で、インターハイ、国体、全日本選手権と出場の機会に恵まれた。
これはインターハイでの一幕でしょう。
高校生で有ったスベルべママは倶知安で行われた国体の女子継走に選手として選ばれた。
女子の監督は三人のメンバーで行われるリレーの三番手、最終走者として経験の浅いスベルべママを指名した。
第一、第二走者がきっと、レースをリードしてトップで帰って来るだろうと予想した監督は、
第三走者アンカーのスベルべママが、抜かれてもなんとか、入賞圏内で逃げてくるだろう。
そんな考えで抜擢したようだった。
しかし、勝敗よりもなんとかゴールを目指そうと、トップで引き継いだスベルべママは逃げに逃げた。
大方の予想を覆し、最初にゴールに入って来たのは、名前も知られていないスベルべママだったのです。
結果は、監督は元よりも新潟県の選手団長の予想をも覆す、優勝と言う結果になった。
私も、競技も、そしてその大会のレベルとしても問題ないほど低い職域の大会だが同じような経験をしている。
30歳を越えてから取り組んだバドミントンで支社大会の40歳代ダブルスのチャンピオンになれた。
中学校、高校のクラブ活動で実績のある選手の中でタイトルなど無縁の選手だった。
しかし、40歳を過ぎて週に二回の練習を欠かさず、職場の昼休みにも階段登りなどに取り組んだ結果が実を結ぶ。
徐々にではあるが確実に自分の力にも手ごたえを感じつつ有った。
そして、その年は来た。しかし、準決勝で思わぬ伏兵とも言うべきペアに苦戦する事になる。
パートナーの粘りにも助けられてなんとか相手を振りきり逆転勝ちで決勝に進出できたのだった。
もう、その時点で満足し、優勝なんて夢にも思わずに臨んだ決勝戦だった。
ほぼ無心とも言える気持ちで臨んだ決勝。
結果として勝利の女神が微笑んでくれたのは、実力では叶わないと思っていた私たちのペアだった。
実力が上と思われた相手ペアは、初優勝を意識して普段のプレーが出なかったのです。
結果はあっけないほどの私たちペアの圧勝という形で終わってしまったのでした。
自分自身を鍛え、努力を怠らぬ事は勿論チャンピオンの最低の条件ではある。
しかし、それだけではチャンピオンの座に着く事は叶わない事なのではないか。
決して諦めない心と、幸運と、そんなことが実力に重なってこそ手に入れられるものではないかと思うのです。
まだまだオリンピックは続きます。
沙羅ちゃんにも、羽生君にもまだまだ将来が有ります。
二人の前に、勝利の女神がほほ笑んでくれる日が再び訪れる事を信じて。