畑に吹く風

 春の雪消えから、初雪が降るまで夫婦二人で自然豊かな山の畑へと通います。

勝敗を分けたものは

2014-02-18 04:15:47 | 暮らし

 人生に勝ちも負けも無いと言うのが持論です。
しかし、スポーツの世界は残酷と言えば、残酷。必ず勝敗の決着がつく。

 冬季オリンピックも中盤を過ぎつつあるが、日本選手にも陰影を残しつつある。
大好きな沙羅ちゃんも、国内の「絶対に金」と期待する声の重圧につぶされてしまったように思える。

 健気にも不利の追い風をも言い訳一つせずに、涙をぬぐう姿が可哀そうでたまらなかった。
日に日に、何時も淡々としている沙羅ちゃんの表情に険しさが現れて、心配した事が現実なってしまった。

 さて、今大会で金メダル一号になった羽生弓弦も重圧につぶされそうになりつつも持ちこたえて結果を出した。
失敗を重ね、何十回ともなく転倒を繰り返し血を流すような練習の成果の延長にも失敗はある。
皮肉な事だが、フリーの最初の四回転で失敗した事が、逆説的にいえば幸運をもたらせたようにも思える。

 ショートプログラムで一位になった羽生の失敗を見て、二番手に付けたパトリック・チャンは何を思っただろうか。
「やった、これで金メダルのチャンスが巡って来た」そんな気持ちが脳裏を掠めたのではなかろうか。

 しかし、その気持ちは普段の力を発揮する事を阻む、一種の固さとなって現れた。
結果として、名手チャンにしても二度のジャンプに失敗し、手を着くと言う失敗となって現れて金メダルを逃した。

 オリンピックには魔物が棲むと何回も言われている。
でも、魔物が棲むのはオリンピックと言う大会でも、ソチと言う会場でも無く選手自身の心の中に潜むのでは無いか。
「平常心」と文字で書くのも、口にするのも簡単だけれど、その心境に至るのは至難の事だとつくづく思う。

 さて、この一枚の写真は『札幌オリンピック』の距離コースを走る若き日のスベルべママ。
国体女子継走で何回もの優勝経験をしたスベルべママもオリンピックの出場は果たせなかった。
前年に行われたプレオリンピックに出場し、そのノルディックコースを走る事だけは叶ったのです。




 これは、ノルディック全日本選手権での光景と思われる。
スベルべママは短い競技人生の中で、インターハイ、国体、全日本選手権と出場の機会に恵まれた。




 これはインターハイでの一幕でしょう。

 高校生で有ったスベルべママは倶知安で行われた国体の女子継走に選手として選ばれた。
女子の監督は三人のメンバーで行われるリレーの三番手、最終走者として経験の浅いスベルべママを指名した。

 第一、第二走者がきっと、レースをリードしてトップで帰って来るだろうと予想した監督は、
第三走者アンカーのスベルべママが、抜かれてもなんとか、入賞圏内で逃げてくるだろう。
そんな考えで抜擢したようだった。

 しかし、勝敗よりもなんとかゴールを目指そうと、トップで引き継いだスベルべママは逃げに逃げた。
大方の予想を覆し、最初にゴールに入って来たのは、名前も知られていないスベルべママだったのです。
結果は、監督は元よりも新潟県の選手団長の予想をも覆す、優勝と言う結果になった。



 私も、競技も、そしてその大会のレベルとしても問題ないほど低い職域の大会だが同じような経験をしている。
30歳を越えてから取り組んだバドミントンで支社大会の40歳代ダブルスのチャンピオンになれた。

 中学校、高校のクラブ活動で実績のある選手の中でタイトルなど無縁の選手だった。
しかし、40歳を過ぎて週に二回の練習を欠かさず、職場の昼休みにも階段登りなどに取り組んだ結果が実を結ぶ。

 徐々にではあるが確実に自分の力にも手ごたえを感じつつ有った。
そして、その年は来た。しかし、準決勝で思わぬ伏兵とも言うべきペアに苦戦する事になる。
パートナーの粘りにも助けられてなんとか相手を振りきり逆転勝ちで決勝に進出できたのだった。

 もう、その時点で満足し、優勝なんて夢にも思わずに臨んだ決勝戦だった。
ほぼ無心とも言える気持ちで臨んだ決勝。

 結果として勝利の女神が微笑んでくれたのは、実力では叶わないと思っていた私たちのペアだった。
実力が上と思われた相手ペアは、初優勝を意識して普段のプレーが出なかったのです。
結果はあっけないほどの私たちペアの圧勝という形で終わってしまったのでした。

 自分自身を鍛え、努力を怠らぬ事は勿論チャンピオンの最低の条件ではある。
しかし、それだけではチャンピオンの座に着く事は叶わない事なのではないか。
決して諦めない心と、幸運と、そんなことが実力に重なってこそ手に入れられるものではないかと思うのです。

 まだまだオリンピックは続きます。
沙羅ちゃんにも、羽生君にもまだまだ将来が有ります。
二人の前に、勝利の女神がほほ笑んでくれる日が再び訪れる事を信じて。
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『酒かす豆乳グラタン』

2014-02-17 04:16:17 | 食べ物

 冬は時間が自由でのんびりと過ごせるが、特に今年は雪も少なく楽をしている。
夫婦で交互に美味しいものを作ったりしていられるのも忙しい春が来るまでの楽しみ。

 今回は地方紙に載ったグラタンをスベルべママが作ったくれた。
正式には『カブと長ネギの酒かす豆乳グラタン』で寒い夜には最高のの熱々料理。


 カブ、長ネギ、ブロッコリーは勿論我が家の畑で出来た物。
茹で卵なんて、「オデン」の鍋の中の余り物を転用したものです。


 北海道のスベルべママの姉夫婦から送って頂いた「ニシン」を焼いて食べました。
何匹ものニシンは、焼いて食べ、煮て食べ、そして天麩羅にして食べています。(天麩羅は後日紹介)


 この夜は頂き物の『ホッケの飯鮓』もテーブルに。
一つずつ、笹の葉に巻いて漬け込むと言う、手の込んだ美味しい一品で酒が進みます。


 時々こんな『卯の花炒め』も食べたくなりますね。
「豆腐のオカラ」通称『オカラ』なんて当地では呼ぶけれど安くて、健康にも良い一品。


 それで、一杯はと言うと「赤ワイン」と言いたいところだけれども『山ブドウ焼酎のお湯割り』。
それだけでは勿体ないので、右後ろの焼酎を入れて割って頂いています。

 赤色は勿論アントシアニンの色ですね。
アントシアニンは眼に良いって言うけれどどうやらその通り。

 食事が終わると効き目が出て来て、上瞼と下瞼が仲良くなってきて大変。
きっとパソコンで疲れた目を保護する薬効も有るのでしょう(大笑)。
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「サヨナラ」ダケガ人生ダ

2014-02-16 15:09:33 | 暮らし


 『勧酒』
勧君金屈酒
満酌不須辞
花発多風雨
人生足別離


コノサカヅキヲ受ケテクレ  ドウゾナミナミツガセテオクレ

ハナニアラシノタトヘモアルゾ  「サヨナラ」ダケガ人世ダ  


 干武陵の詩です。
井伏鱒二の「厄除け詩集」にある漢詩の井伏流の訳です。
今の私の気持ちでも有ります。

 一昨日の朝に逝った友は左で頭を櫛で梳いている。
真ん中の友も、随分早くに逝ってしまった。右が18歳の私だ。

 この三人に共通な事は、工業高校に入学し機械関係を学ぶ身に有ったにも関わらず、
文章、文芸が好きだった事。

 実業系の学校での国語、英語なんて頭に実用なんて名前が付く、程度の低い内容のもの。
そう、「実用国語」「実用英語」なんて、名前の進学なんて考えない中学校の焼き直し程度のものなのでした。

 そんな中で、漢詩、古文、日本文化に親しみ、漢詩をそらんじ、啄木をそらんじ、
そして、谷崎、川端どちらがノーベル文学賞に相応しいかなんて論争していた。

 今日は彼の奥さん宛てに弔電の文を考えながら涙が出て困った。
明日が葬式と言うけれど、別れを告げには行かない。

 少し経ったらひっそりとお悔みに行く事にする。
そんな私の姿、そんな方法でのお悔みが彼との別れには相応しいのだ。

 


 
およそ50年前の母校の姿。
今は、周りに水田が有ったなんて、誰も信用しないほどの街並になった。

 一番左の新校舎と呼ばれた出来たばかりの木造教室で共に学んだ。
この教室での授業中に「新潟地震」に遭遇したのだった。
 
 彼に「オイ、スベルべ豚カツ食べに行くか」なんて誘われた事が有った。
就いていくと、一軒の洋食屋で頼んだ昼食は長岡名物でもある、「洋カツ」『洋風カツドン』。

 なんと、大きな皿に大きな豚カツ。そして脇には皿のご飯。
ナプキンに置かれた、ナイフとフォークに度肝を抜かされた。

 田舎の純朴な少年スベルべは、ナイフとフォークなんて家にも無い道具だったのです。
どうやって食べたのか、どんな味がしたのかも思い出せないほどの経験だった。
家に帰って、母親に早速フォークとナイフのセットをせがんだっけなー。

 度胸の良い彼は、大きな買い物をする際に、絶対に必要な存在。
高校生にも似会わない、交渉上手で必ず、店員を説き伏せ割引させてくれたのです。
割り引いた金額は、食事代に化けたけれども、先の「洋カツ」もそんな流れからだったかもしれない。

 早熟で度胸の良い彼は、男子ばかりの我がクラスと同じ市内の女子高のクラスとの、
集団、合同ハイキングを目論見、実現することに成功した。
勿論、担任の先生も同行した、それは清らかなお付き合いでは有りましたけれどもね。
(残念ながら、なんの関係で行けなかったのか、その楽しいハイキングに同行できなかったのだか。)

 もう、彼との間には尽きせぬ思い出が有る。いや有り過ぎる。
居酒屋で、二人で鍋を囲んで酒を酌み交わし、話に夢中になって鍋の中身が燃え、
火災報知機が広い店内に響き渡り、大騒動になったっけなー。

 彼が体調不良を訴えてからは忙しさを理由にあまり訪ねて上げられなかったなー。
もっと、もっと一緒に昔話で酌み交わしたかったなー。
いや、何年先になるか分からないけれど、きっとあっちの世界でも会おうぜ。
「誰だっけ?」なんて冗談にも言わせないから、覚悟して待っていてくれよな。
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『雪』

2014-02-16 04:15:26 | 暮らし


  『雪』

  太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降り積む。

 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降り積む。



 大好きな三好達治の詩です。
雪国に生まれ、雪国で育っても、雪の降るさまを見ると思わず口を突く。

 雪は、白く降り積もり悲しみも、そして苦しみの全ても覆い隠す。
雪国で生まれた者は、何時もこうして毎日を過ごします。

 決して諦める事も無く、春を待つのです。
朝の来ない夜は無い、春の来ない冬は無い。
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友よ、良く頑張ったな

2014-02-15 06:32:03 | 暮らし

 昨夜遅く、同級生の奥さんから訃報が入った。彼は朝方、息を引き取ったと言う事です。
これは、もう一人の友人と三人連れで、東北一周貧乏旅行をしたときの一枚の写真。

 高校二年から三年になる間の春休み、17歳の春の事でした。
真ん中が若き日のスベルべで左が亡くなってしまった友人。

 鈍行列車乗り継ぎの三泊、いや四泊だったかの旅はスリルに満ちたものだった。
今では考えられない事だけれども、平泉の毛越寺がユースホステルを兼ねていて泊まったっけ。

 そうだ、最初の宿泊地会津若松では、彼の出稼ぎ中の友人が仕事先の酒蔵の酒を持って会いに来た。
17歳で酒盛りだったから、結構悪だったかな。車中でウィスキーも呑んだなー。

 眼鏡で秀才型に見える彼も実際は中々のつわもので、共学とは言えほぼ男子校の態の高校で、
応援団の副団長と言う、難しい仕事もこなす度胸の良さが売り物でも有ったなー。


 これは、彼が写っていないから彼の手に拠る一枚で有ろう。
男子ばかりの修学旅行で、彼が四国高松の夜でいわゆる「ナンパ」してきた女性との記念。

 四国の高松が最初の夜だったような気がする。
その後、ほぼ同じルートを回る彼女たちとは、コースのポイントポイントで合流。
走り寄っては互いに歓声を上げ、一緒に行動したものだった。50年、半世紀前の思い出だ。

 三年前かなー、胃ガンを患ったと痩せた姿で顔を見せてくれた。
「知らなくて悪かったな」と声を掛け、見舞いに「マムシ焼酎」なんて進呈したっけ。
身体のためと思ったのだろう、嬉しそうに貰ってくれた笑顔も忘れられない。

 昨年は二回、同級生たちに連れられて農天市場を訪問してくれた。
でも、二回目は友達に気遣って無理をしたのか、友人たちの肩を借りて自動車を降りて来たのだった。

 そして、農天市場の営業を終え仕事が一段落した時に病院に彼を見舞いに訪れた。
しかし、かれはもうほぼ昏睡状態で、握った手を握り返す意思も、力も無くなっていた。

 それからほぼ二カ月、彼は精一杯に生きたのだろう。
奥さんの声も、無事に看った気持ちからか落ち着いて居られ、救われた気持ちで眠りに入った。
お悔みに行き、別れを告げて来ようと思う。

 君は永遠に私の中で生き続けて光るだろう。
快男子、剛毅、豪胆の君よさようなら、面白くてそして充実した青春の思い出を有り難う。


 

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