落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

愛すれど心さびしく

2008年02月19日 | book
『心は孤独な旅人』 カーソン・マッカラーズ著 河野一郎訳

に読んだ『夏の黄昏(結婚式の参列者)』と『悲しき酒場の唄』の著者マッカラーズが22歳のとき発表したデビュー作。
簡単に経歴を紹介しておく。
1917年、ジョージア州コロンバス生まれ。父親は時計屋兼宝石商でどちらかといえば家庭は裕福な方だったらしい。幼いころからたいへんな読書家でピアノの才能もあり、1935年単身ニューヨークに出て、働きながらコロンビア大学の夜間部で創作を学ぶ。
1937年、郷里で出会った男性と恋に堕ち結婚。あい前後して書いた『心は孤独な旅人』がホートン・ミフリン社から1940年に刊行され各方面で絶賛を浴びた。同年離婚。
その後、体調を崩しながらも文学賞や奨学金に恵まれて創作活動を続け、1945年前夫と再婚。しかし彼はアルコールやドラッグに溺れ、ついには自殺してしまう。マッカラーズ本人の健康も蝕まれ、1961年に10年以上の時間をかけて上梓した『針のない時計』はかつてのような好評を得られないまま翌年には寝たきりの状態となり、1967年に50歳で世を去った。
寡作な小説家だが作品の多くは舞台化/映画化されており、中でも『結婚式の参列者』はこれまでに4度にわたって映像化されていて、アメリカでは今も人気の作家といっていいのではないだろうか。日本では『悲しき酒場のバラード』『愛すれど心さびしく(原作:心は孤独な旅人)』『禁じられた情事の森(原作:黄金の眼に映るもの)』が公開されている。

『心は孤独な旅人』は前述の通りマッカラーズにとって初めての長篇小説にあたる。この作品が書かれた当時、彼女はまだ20歳になるやならずの少女だった。出版時はその若さが評判にもなったというが、そういうところもやはり南部出身で10代のうちから注目されたカポーティに通じるものがある。みずみずしくほとばしるような才気のきらめきと、暴力的なほどに研ぎすまされた感覚の映し出すゴシックな暗黒。もろに、天才のデビュー作らしい小説といえる。
そういった意味では以前に読んだ『夏の黄昏』と『悲しき酒場の唄』などとは全体のトーンにかなりの落差がある。かんたんにいえば、最初の『〜旅人』を書いたとき、彼女はまだ一介の無名のアマチュア作家だった。年齢的にもまだ子どもだった。しかし一度世に出てしまえば、プロの作家として社会の荒波を乗り越えていかなくてはならない。そうした重圧や文学界の現実、結婚の失敗などといった大人としての経験の中で、彼女自身の考え方や価値観に大きな変転があっただろうことは誰にでも想像がつく。『〜旅人』も胸が締めつけられるようなペシミズムに満ちた作品だが、『〜黄昏』と『〜唄』の悲愴感に比べればリアリティの面では到底及ばない。

『〜旅人』の映画の日本公開時の邦題は『愛すれど心さびしく』。
ぐりは未見なのだが、聾唖の青年を演じたアラン・アーキンが高く評価されたなかなかの名作であるらしいが、この原題とまったく違う邦題が、この本を読むと原題よりも内容に似合っているように感じられる。映画の物語は原作とかなり違ってるらしいけど。
小説の舞台はおそらく1930年代、マッカラーズの故郷と似たような南部の田舎町。主人公はこの街に住む聾唖のシンガー青年、終夜営業のカフェの店主ビフ、流れ者でコミュニストのブラウント、13歳の少女ミック、黒人医師のコープランドの5人である。ビフとブラウントとミックとコープランドは耳の聞こえないシンガーに対してそれぞれに強い信頼を寄せ、思いのたけを語りかける。彼らはそれぞれに、シンガーだけが自分を理解し受け入れてくれると信じている。だがシンガーがほんとうに理解し受け入れようとしていたのは彼らではなく、同じく聾唖で今は精神病院に入院している元ルームメイトの青年だけだった。
つまりシンガーは登場人物たちの決して報われない愛の象徴のような存在でもあるわけで、ここに愛の不条理とせつなさがこれでもかと強烈なあざやかさで残酷に描写されている。人は誰でも、誰かを愛したり愛されたりしたいという欲求を当り前にもっている。親として、子として、友人として、伴侶として、恋人として、誰もが大切に思い、いつくしむ相手を求めている。しかしこの小説の登場人物たちの愛はどこへも辿り着かない。なぜなら、彼らは愛に多くを求め過ぎているからだ。理解と愛は違うものだということを彼らは知らない。

でも愛なんて結局はそんなものかもしれない。
一生を振り返って、自分の愛は報われた、愛するものをすべて理解し受け入れてやれたと満足できる人間がいったいどのくらいいるだろう。
それよりは、決して報われない愛に苦悩し、暗闇の中で迷路を辿るかのように愛に迷い続けながら死ぬ人間の方がずっと多いのではないだろうか。
だから愛は哀しいし、ラブストーリーはいつもせつないのだろう。
この小説はいわゆる恋愛小説ではないけど、恋愛とは違った形で愛の深淵を描いたラブストーリーとはいえるかもしれない。

ところでブラウントの台詞にちょっと気になった部分があったので、少し長いが引用する。
(前略)北部の会社が、南部全体の4分の3を握ってるんだ。おいぼれ牝牛はどこでも草をはむ、っていうがな─南でも西でも北でも東?ナも。だが、乳をしぼられるのはただ一ヶ所だけなんだ。乳が張ると、乳房の揺れるのもたった一ヶ所でだ。草はどこでもはむが、乳をしぼら?黷驍フはニューヨークなんだ(後略)(374p)」
なんだかこの話、すごく聞いたことありますね?そう、近年とみに社会問題化している格差ってやつです。
この物語の舞台は1930年代。70年以上経っても、世の中って大して進化しないもんなのかなあ?それとも、アメリカ社会が退化(爆)してるってこと?もしや?

参考:7つのメカニズム
作中でヒロイン・ミックが働きに出るチェーンストア・ウールワースについての解説。1933年当時の店員の週給と、創業者の21歳の孫娘の小遣いのギャップがスゴイ。

オレの話を聞け〜

2008年02月18日 | book
『地球最後の男』 リチャード・マシスン著 田中小実昌訳
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現在公開中のウィル・スミス主演映画『アイ・アム・レジェンド』の原作本。原題は『I am Legend』。
初出は1954年。その後3度映画化され、日本で公開されるたびにそれぞれ違ったタイトルで新訳が出ている。最初の邦訳タイトルは『吸血鬼』(1958年)、1964年に原作にほぼ忠実な映画『地球最後の男』がつくられた後、2度めの映画化となったチャールトン・ヘストン主演作『地球最後の男オメガマン』の公開にあわせて1971年に刊行された『地球最後の男<人類SOS>』、そして昨年映画タイトルにあわせて『アイ・アム・レジェンド』と改題した新訳が刊行されている。
今回ぐりが読んだのは71年バージョンの文庫版だが、大雑把に整理するとひとつの小説とその映画化作品に『吸血鬼』『地球最後の男』『アイ・アム・レジェンド』に3パターンのタイトルがついていることになる。ややこしい。
しかも71年の『オメガマン』と去年の『レジェンド』はストーリーも途中からは原作からかなり離れ、“レジェンド=伝説”の意味がまったくべつものになってしまっている。実をいうとぐりはどの映画化作品も観たことはないのだが(爆)、観てみたいものをどれか選ぶとすれば、やはり原作に忠実な『地球最後の男』を挙げるだろう。

小説の舞台は1976年から79年のロサンゼルス。書かれた年代よりも20年余り先、つまり近未来を題材にしている。36歳のロバートは疫病の流行で妻や娘ばかりか隣人も友人も亡くし、たったひとりで、夜になると襲ってくる吸血鬼たちと戦いながら暮している。昼間は誰もいない街へ出て食糧や生活必需品をかき集め、家の周りの防御を整え、眠っている吸血鬼たちを殺してまわる。夜は家の中に閉じこもり、外で騒ぎたてる吸血鬼たちの声や物音におびえ、孤独に苛まれながら眠る。
疫病に感染した死者がよみがえって生き血を求めて人を襲うところまでは既存の“吸血鬼伝説”に似ているのだが、ロバートがその疫病がどのように人から人へ感染し、なぜ彼らがニンニクや十字架や日光を嫌うのかを必死で研究するところがスリラーではなくSF小説らしいところである。

しかしこの小説が単なるSFでないところは、やはりその凄まじいほどリアルで緻密なディテールの表現と、まさに衝撃的なエンディングにつきるだろう。
原題の“I am Legend”とは主人公の最後の言葉なのだが、彼はそのことに気づくまで、自分のしていることの正否にほとんど一顧だにしない。昼間眠り、人の生き血をすする吸血鬼たちにも彼らなりの価値観があるなどということは、まるで想像もしないのだ。客観的にみれば、彼の行為は犯罪以上のテロリズムともいえてしまうのだが、相手側の言葉を聞くまで、彼はその事実にいっさい気づかない。
これまでにも指摘されている通り、この小説のモチーフには冷戦の狂気が想定されているのは疑いようもない。この小説が発表されたのは前述の通り1954年、アメリカでは赤狩りの嵐が終局に向かい始めたころということになる。映画『グッドナイト&グッドラック』に描かれたマッカーシー上院議員とジャーナリストのエド・マロウとの批判合戦はこの年の出来事である。当時、西側の世論は社会主義は共産主義、=悪、恐怖としてしかみなそうとはしていなかった。後になって考えれば狂っているとしか思えない考え方だが、そのころはそれが当り前だったのだ。
小説ではその「相手側の言葉」は終盤になるまで登場せず、前半〜中盤はひたすらめんめんとロバートの孤独な生活が描写されつづける。社会機能が停止し、電気や食糧の供給もなくなり、通信手段もない、ひとりぼっちの都会生活者がいかに現実をサバイブしていくかが、じつにあらゆる表現方法で描かれている。このあたりは次作『縮みゆく人間』と共通する部分も多いが、おそらく当時のアメリカ社会全体の近代化にともなう潜在的な恐怖を表現しているのだろう。電気や電話やクルマやスーパーマーケットなしにどうやって暮していくのかを、現代の人間のうちどのくらいの人がうまく想像できるだろう。

去年の映画化作品もこの原作に忠実なら観たかったけど、途中で大幅な撮り直しが行われたそうで物語自体破綻しているとも聞く。それでもアメリカではめちゃくちゃヒットしたっちゅーから、よくわかんないもんです。

海辺のふたり

2008年02月17日 | book
『ジョゼフとその恋人』 クリストファー・デイヴィス著 福田廣司訳
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先日読んだ『ぼくと彼が幸せだった頃』の著者クリストファー・デイヴィスによる前作。
舞台はおそらく70年代半ば頃のファイヤーアイランド。ファイヤーアイランドとはロングアイランドの南側に位置する東西に細長い島で、シティからフェリーで15〜20分ほどという気軽な距離もあって、毎年ニューヨーカーが避暑にやってくるビーチリゾートとして人気のスポットだそうだ。この島には『ぼくと〜』や『フロント・ランナー』シリーズにも描かれる通り、70年代当時から大勢のゲイが集まるコミュニティもあるらしい。

主人公はタイトルにも名のあるジョーという歴史学の教師と、パートナーのオズワルドという人気小説家。ふたりは大学で師弟として知りあい、ジョーと肉親との関係が壊れて以来10年間にわたって養父・養子として、生涯の伴侶として、穏やかに静かに愛を育んで来た。毎日いっしょに朝のコーヒーを飲んだり、同じ部屋で仕事をしたり、海岸を散歩したり、泳いだり、食事しながら知的な議論を戦わせたり、そんな健康的で平和な生活が淡々と丁寧に綴られる。
ジョーはまだ若く(おそらく20代後半〜30歳くらい)、オズワルドは70歳前後、ふたりの間には40歳もの年齢差があった。つまりそれは、さほど遠くない将来、いやでもふたりが離ればなれになることを意味している。それだからこそ、ふたりはいっしょにいられる時間を大切に大切に慈しんでいたのだ。
しかし終わりは唐突にやってくる。まだ少し先、まだ遺された時間に余裕はあると互いに考えていただろうその矢先に、運命が永久に彼らを引き裂いてしまう。

読んでいて気持ちの良い、よく描けた作品だとは思うけど、『ぼくと〜』を読んだ後では、題材のせいもあっていささかふわふわとセンチメンタルすぎる感じもする。
娯楽小説なんだからそれはそれでいいかもしれないけど、ぐり的にはやっぱな〜ものたりないっ。人間っぽい生々しさがもーちょっと、ほしーなー。
ゲイの小説家がゲイ向けに書いた作品ですから、そーでないヒトが読んでもねー、とかいわれてしまうとミもフタもないけど、個人的にそーゆージャンル分けってあんまし意味ないよーな気もするし。
欲をいえば、もちょっとジョーのキャラクターがリアルに描かれてるとよかったかも。これだとなんかあまりに美しすぎて、現実感なさすぎるんで。
逆に人物描写以外のディテールはものすごくリアルで、たとえばオズワルドをよく知らないはずの若者がいちばん彼の悲嘆を端的に理解していたり、愛する者を失った人間の感情が心の中で変化して形になっていくまでの過程の表現なんかは、読んでて素直にわかるなあという気持ちにはなりましたです。

今日のごはんは何ですか

2008年02月16日 | movie
『ファーストフード・ネイション』

ひじょーにおもしろかったです。噂に違わず。
先日観た『ヒトラーの贋札』もそうだけど、ノンフィクションを原作にフィクションとして映画化するってのはなかなかいいアイデアだよね。社会派映画をみんなドキュメンタリーでつくんなきゃいけないきまりはないし、どーせならフィクションでつくった方がより多くの観客に観てもらえる。
そういう意味では、この作品も社会派ブラックコメディとして非常によくできている。おもしろいしわかりやすいし、しかも笑える。描かれてる題材は笑えないけどね。日本だって今ちょうど食の安全で大揺れじゃないですか。安い賃金で食品加工に従事してるのはアメリカでは密入国のメキシコ人だけど、日本の場合は海を超えた近隣のアジア諸国で同じことが起こってる。われわれの口に入るものをつくってる人たちとの間に、国境があるのとないのとは問題じゃない。

ストーリーのテンポもいいし、メジャーなハリウッドスターがぽんぽんぽんぽん出てくるのもアクセントとして効いてるし、楽しんで観られるいい啓発映画だとは思う。
ただし!やっぱ映画としてはんんー?なところも多少ある。グレッグ・キニアやポール・ダノやパトリシア・アークエットはナイスキャスティングだけど、アヴリル・ラヴィーンとかブルース・ウィリスはちょーーっと、浮いてませんでしたかー?あとメキシコ人たちが「ビンボーでクソみたいに扱われてる」ってことになってたけど、カタリーナ・サンディノ・モレノやアナ・クラウディア・タランコンの住居はどーみても「ビンボーでクソみたいに扱われてる」ヒトの暮らし向きにはみえませんでしたし。
最後の最後、モレノがぽろっと流す涙はカンペキ!に蛇足だったよね。ホント、あっちゃ〜ってカンジでした。泣いちゃダメでしょー。そこ。

けどまあこういう俗な表現もそれはそれでアリだと思う。
なにより、いいたいことは非常によく伝わる。いちばん大事なのはそこだもんね。
観て楽しい映画であることは間違いないし、観てソンはないです。ハイ。


とおりゃんせ

2008年02月16日 | movie
『ボーフォート ─レバノンからの撤退─』
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2007年度のアカデミー賞外国語映画賞部門にノミネートされ、本選でも最有力候補と目される注目作。
日本ではDVDが来月発売されるのだがもともと公開の予定はなく、今回のノミネートで急遽短期間だけ劇場公開されることになったらしい。
これねえ、スゴイよ。もしかしてスゴイ映画観ちゃったかも。観た方がいいですよ、コレ。マジで。
題材は副題の通り2000年のイスラエル軍のレバノン撤退。舞台は12世紀に十字軍が築いたという歴史的要塞ボーフォート。映画では、この要塞で任務に着く若い兵士たちの撤退までの数日間を描いている。
それだけなのだ。ほんとうにほんとうに、たったそれだけ。

カメラは要塞の外へはほとんど出ない。登場人物もほぼ全員が要塞の兵士たちだけ。すべてがその要塞の中の出来事だけで構成されている。
つまり、戦争のしっぽの端っこの、そのまた毛の一本を、ものすごく丁寧に緻密にリアルに表現している。誇張もなくドラマもなく、ひたすら淡々と。
なんのために?一体なんのためにそんな映画をつくらにゃならんのか?
この映画は戦争映画だ。だが戦闘シーンはまったくない。ひっきりなしにヒズボラらしき敵からの爆撃はある。地雷も仕掛けられる。ひとり、またひとりと兵士が命を落とす。仲間の目の前で、虫けらのように呆気なく死ぬ若者。だが自動小銃を肩にかけたイスラエル兵たちは反撃はしない。彼らの任務は反撃ではないからだ。また敵の姿も画面にはいっさい出てこない。爆弾が無情に、ひゅーーーーーーーーーー・・・っと飛んでくるだけ。
だからこの戦争映画には正義も勇気も涙も感動もない。もちろん英雄もなし。信仰もなければ民族の誇りも政治信条も平和への願いもなし。
ここに表現されているのは、たったこれだけの撤退がこんなにもこんなにも難しい、一度始めた戦争をやめることの困難さの現実なのだ。それだけで、つくり手が何を表現しようとしているのかが、痛いほど伝わる。

登場する兵士はみたところ全員が20代。すごく若い。ぐりの目からみても、まるで子ども、少年のようだ。
ジョークや将来の夢、家族や恋人の思い出話に盛り上がり、うちに帰る日を指折り数える少年たち。でもそこはサマーキャンプじゃない。見えない敵に取り囲まれた砦だ。
そこにいる誰もが、いつ死ぬかわからない恐怖に怯え、同時に怯えまいと必死に自己を抑えている。
そんなぱっつぱっつにつっぱらかった心理描写が、とにかくもうもうメチャクチャにリアル。観ているこっちもオシッコちびりそうなくらい、生々しい。怖い。
けど戦争ってそういうことだ。死と隣りあわせの恐怖。逃げ場はない。
ぐりはもともと戦争映画ってあんましスキくなくて本数も観てないけど、これまでに観たなかでは間違いなくトップ3に入る傑作ではないかと思われ。