『心は孤独な旅人』 カーソン・マッカラーズ著 河野一郎訳
前に読んだ『夏の黄昏(結婚式の参列者)』と『悲しき酒場の唄』の著者マッカラーズが22歳のとき発表したデビュー作。
簡単に経歴を紹介しておく。
1917年、ジョージア州コロンバス生まれ。父親は時計屋兼宝石商でどちらかといえば家庭は裕福な方だったらしい。幼いころからたいへんな読書家でピアノの才能もあり、1935年単身ニューヨークに出て、働きながらコロンビア大学の夜間部で創作を学ぶ。
1937年、郷里で出会った男性と恋に堕ち結婚。あい前後して書いた『心は孤独な旅人』がホートン・ミフリン社から1940年に刊行され各方面で絶賛を浴びた。同年離婚。
その後、体調を崩しながらも文学賞や奨学金に恵まれて創作活動を続け、1945年前夫と再婚。しかし彼はアルコールやドラッグに溺れ、ついには自殺してしまう。マッカラーズ本人の健康も蝕まれ、1961年に10年以上の時間をかけて上梓した『針のない時計』はかつてのような好評を得られないまま翌年には寝たきりの状態となり、1967年に50歳で世を去った。
寡作な小説家だが作品の多くは舞台化/映画化されており、中でも『結婚式の参列者』はこれまでに4度にわたって映像化されていて、アメリカでは今も人気の作家といっていいのではないだろうか。日本では『悲しき酒場のバラード』『愛すれど心さびしく(原作:心は孤独な旅人)』『禁じられた情事の森(原作:黄金の眼に映るもの)』が公開されている。
『心は孤独な旅人』は前述の通りマッカラーズにとって初めての長篇小説にあたる。この作品が書かれた当時、彼女はまだ20歳になるやならずの少女だった。出版時はその若さが評判にもなったというが、そういうところもやはり南部出身で10代のうちから注目されたカポーティに通じるものがある。みずみずしくほとばしるような才気のきらめきと、暴力的なほどに研ぎすまされた感覚の映し出すゴシックな暗黒。もろに、天才のデビュー作らしい小説といえる。
そういった意味では以前に読んだ『夏の黄昏』と『悲しき酒場の唄』などとは全体のトーンにかなりの落差がある。かんたんにいえば、最初の『〜旅人』を書いたとき、彼女はまだ一介の無名のアマチュア作家だった。年齢的にもまだ子どもだった。しかし一度世に出てしまえば、プロの作家として社会の荒波を乗り越えていかなくてはならない。そうした重圧や文学界の現実、結婚の失敗などといった大人としての経験の中で、彼女自身の考え方や価値観に大きな変転があっただろうことは誰にでも想像がつく。『〜旅人』も胸が締めつけられるようなペシミズムに満ちた作品だが、『〜黄昏』と『〜唄』の悲愴感に比べればリアリティの面では到底及ばない。
『〜旅人』の映画の日本公開時の邦題は『愛すれど心さびしく』。
ぐりは未見なのだが、聾唖の青年を演じたアラン・アーキンが高く評価されたなかなかの名作であるらしいが、この原題とまったく違う邦題が、この本を読むと原題よりも内容に似合っているように感じられる。映画の物語は原作とかなり違ってるらしいけど。
小説の舞台はおそらく1930年代、マッカラーズの故郷と似たような南部の田舎町。主人公はこの街に住む聾唖のシンガー青年、終夜営業のカフェの店主ビフ、流れ者でコミュニストのブラウント、13歳の少女ミック、黒人医師のコープランドの5人である。ビフとブラウントとミックとコープランドは耳の聞こえないシンガーに対してそれぞれに強い信頼を寄せ、思いのたけを語りかける。彼らはそれぞれに、シンガーだけが自分を理解し受け入れてくれると信じている。だがシンガーがほんとうに理解し受け入れようとしていたのは彼らではなく、同じく聾唖で今は精神病院に入院している元ルームメイトの青年だけだった。
つまりシンガーは登場人物たちの決して報われない愛の象徴のような存在でもあるわけで、ここに愛の不条理とせつなさがこれでもかと強烈なあざやかさで残酷に描写されている。人は誰でも、誰かを愛したり愛されたりしたいという欲求を当り前にもっている。親として、子として、友人として、伴侶として、恋人として、誰もが大切に思い、いつくしむ相手を求めている。しかしこの小説の登場人物たちの愛はどこへも辿り着かない。なぜなら、彼らは愛に多くを求め過ぎているからだ。理解と愛は違うものだということを彼らは知らない。
でも愛なんて結局はそんなものかもしれない。
一生を振り返って、自分の愛は報われた、愛するものをすべて理解し受け入れてやれたと満足できる人間がいったいどのくらいいるだろう。
それよりは、決して報われない愛に苦悩し、暗闇の中で迷路を辿るかのように愛に迷い続けながら死ぬ人間の方がずっと多いのではないだろうか。
だから愛は哀しいし、ラブストーリーはいつもせつないのだろう。
この小説はいわゆる恋愛小説ではないけど、恋愛とは違った形で愛の深淵を描いたラブストーリーとはいえるかもしれない。
ところでブラウントの台詞にちょっと気になった部分があったので、少し長いが引用する。
「(前略)北部の会社が、南部全体の4分の3を握ってるんだ。おいぼれ牝牛はどこでも草をはむ、っていうがな─南でも西でも北でも東?ナも。だが、乳をしぼられるのはただ一ヶ所だけなんだ。乳が張ると、乳房の揺れるのもたった一ヶ所でだ。草はどこでもはむが、乳をしぼら?黷驍フはニューヨークなんだ(後略)(374p)」
なんだかこの話、すごく聞いたことありますね?そう、近年とみに社会問題化している格差ってやつです。
この物語の舞台は1930年代。70年以上経っても、世の中って大して進化しないもんなのかなあ?それとも、アメリカ社会が退化(爆)してるってこと?もしや?
参考:7つのメカニズム
作中でヒロイン・ミックが働きに出るチェーンストア・ウールワースについての解説。1933年当時の店員の週給と、創業者の21歳の孫娘の小遣いのギャップがスゴイ。
前に読んだ『夏の黄昏(結婚式の参列者)』と『悲しき酒場の唄』の著者マッカラーズが22歳のとき発表したデビュー作。
簡単に経歴を紹介しておく。
1917年、ジョージア州コロンバス生まれ。父親は時計屋兼宝石商でどちらかといえば家庭は裕福な方だったらしい。幼いころからたいへんな読書家でピアノの才能もあり、1935年単身ニューヨークに出て、働きながらコロンビア大学の夜間部で創作を学ぶ。
1937年、郷里で出会った男性と恋に堕ち結婚。あい前後して書いた『心は孤独な旅人』がホートン・ミフリン社から1940年に刊行され各方面で絶賛を浴びた。同年離婚。
その後、体調を崩しながらも文学賞や奨学金に恵まれて創作活動を続け、1945年前夫と再婚。しかし彼はアルコールやドラッグに溺れ、ついには自殺してしまう。マッカラーズ本人の健康も蝕まれ、1961年に10年以上の時間をかけて上梓した『針のない時計』はかつてのような好評を得られないまま翌年には寝たきりの状態となり、1967年に50歳で世を去った。
寡作な小説家だが作品の多くは舞台化/映画化されており、中でも『結婚式の参列者』はこれまでに4度にわたって映像化されていて、アメリカでは今も人気の作家といっていいのではないだろうか。日本では『悲しき酒場のバラード』『愛すれど心さびしく(原作:心は孤独な旅人)』『禁じられた情事の森(原作:黄金の眼に映るもの)』が公開されている。
『心は孤独な旅人』は前述の通りマッカラーズにとって初めての長篇小説にあたる。この作品が書かれた当時、彼女はまだ20歳になるやならずの少女だった。出版時はその若さが評判にもなったというが、そういうところもやはり南部出身で10代のうちから注目されたカポーティに通じるものがある。みずみずしくほとばしるような才気のきらめきと、暴力的なほどに研ぎすまされた感覚の映し出すゴシックな暗黒。もろに、天才のデビュー作らしい小説といえる。
そういった意味では以前に読んだ『夏の黄昏』と『悲しき酒場の唄』などとは全体のトーンにかなりの落差がある。かんたんにいえば、最初の『〜旅人』を書いたとき、彼女はまだ一介の無名のアマチュア作家だった。年齢的にもまだ子どもだった。しかし一度世に出てしまえば、プロの作家として社会の荒波を乗り越えていかなくてはならない。そうした重圧や文学界の現実、結婚の失敗などといった大人としての経験の中で、彼女自身の考え方や価値観に大きな変転があっただろうことは誰にでも想像がつく。『〜旅人』も胸が締めつけられるようなペシミズムに満ちた作品だが、『〜黄昏』と『〜唄』の悲愴感に比べればリアリティの面では到底及ばない。
『〜旅人』の映画の日本公開時の邦題は『愛すれど心さびしく』。
ぐりは未見なのだが、聾唖の青年を演じたアラン・アーキンが高く評価されたなかなかの名作であるらしいが、この原題とまったく違う邦題が、この本を読むと原題よりも内容に似合っているように感じられる。映画の物語は原作とかなり違ってるらしいけど。
小説の舞台はおそらく1930年代、マッカラーズの故郷と似たような南部の田舎町。主人公はこの街に住む聾唖のシンガー青年、終夜営業のカフェの店主ビフ、流れ者でコミュニストのブラウント、13歳の少女ミック、黒人医師のコープランドの5人である。ビフとブラウントとミックとコープランドは耳の聞こえないシンガーに対してそれぞれに強い信頼を寄せ、思いのたけを語りかける。彼らはそれぞれに、シンガーだけが自分を理解し受け入れてくれると信じている。だがシンガーがほんとうに理解し受け入れようとしていたのは彼らではなく、同じく聾唖で今は精神病院に入院している元ルームメイトの青年だけだった。
つまりシンガーは登場人物たちの決して報われない愛の象徴のような存在でもあるわけで、ここに愛の不条理とせつなさがこれでもかと強烈なあざやかさで残酷に描写されている。人は誰でも、誰かを愛したり愛されたりしたいという欲求を当り前にもっている。親として、子として、友人として、伴侶として、恋人として、誰もが大切に思い、いつくしむ相手を求めている。しかしこの小説の登場人物たちの愛はどこへも辿り着かない。なぜなら、彼らは愛に多くを求め過ぎているからだ。理解と愛は違うものだということを彼らは知らない。
でも愛なんて結局はそんなものかもしれない。
一生を振り返って、自分の愛は報われた、愛するものをすべて理解し受け入れてやれたと満足できる人間がいったいどのくらいいるだろう。
それよりは、決して報われない愛に苦悩し、暗闇の中で迷路を辿るかのように愛に迷い続けながら死ぬ人間の方がずっと多いのではないだろうか。
だから愛は哀しいし、ラブストーリーはいつもせつないのだろう。
この小説はいわゆる恋愛小説ではないけど、恋愛とは違った形で愛の深淵を描いたラブストーリーとはいえるかもしれない。
ところでブラウントの台詞にちょっと気になった部分があったので、少し長いが引用する。
「(前略)北部の会社が、南部全体の4分の3を握ってるんだ。おいぼれ牝牛はどこでも草をはむ、っていうがな─南でも西でも北でも東?ナも。だが、乳をしぼられるのはただ一ヶ所だけなんだ。乳が張ると、乳房の揺れるのもたった一ヶ所でだ。草はどこでもはむが、乳をしぼら?黷驍フはニューヨークなんだ(後略)(374p)」
なんだかこの話、すごく聞いたことありますね?そう、近年とみに社会問題化している格差ってやつです。
この物語の舞台は1930年代。70年以上経っても、世の中って大して進化しないもんなのかなあ?それとも、アメリカ社会が退化(爆)してるってこと?もしや?
参考:7つのメカニズム
作中でヒロイン・ミックが働きに出るチェーンストア・ウールワースについての解説。1933年当時の店員の週給と、創業者の21歳の孫娘の小遣いのギャップがスゴイ。