古代から日本海という強固なバリアが、島で構成する小さすぎないエリアをガードをし、日本人の文化や精神構造を形作ってきたのは間違いない。バリアは強敵を跳ね返し、海外からの文化、芸術、技術などのハイパスフィルター(レベルの高いものが日本に送られる)となった。
バリア(嵐、遭難、渡航時間)により日本に運ぶ対象は限定された。海外から伝来する優れた文化、芸術、技術を巧みに取り入れ、アレンジ、熟成する仕組みなったことは自然の成り行き。日本は世界中で開発された技術を完成させ、更に高いレベルに持ち上げてきた。
江戸時代までの日本人は恵まれた環境で、豊かな精神構造、おおらか、余裕のある笑いが有った。江戸時代以前の日本人は歌舞伎で見ることが出来る。動きはゆっくり、まるでスロー画面を見ているよう。ゆったり笑いおおらかそのもの。
江戸時代から、突然、歴史的断層が出来、窮屈で周りを見ながら立ち位置を決め、笑いもこらえはじめた。江戸時代以降、つい最近まで日本人は笑うことを我慢し、周りが笑うのを見て安心して笑っていた。
徳川家康は確かに天才で、徳川家の繁栄と存続だけのため、食糧生産の担い手で同時に潜在兵士である農民を徹底的に締め上げ、大名でさえ過酷に抑圧してきた。幕藩体制はいわば徳川家維持繁栄システムだった。
鎖国で海外との交流を絶ったことは日本をガラパゴス化してしまったね。グローバルではなくなったが、日本にしか見られない独自の精神構造、文化を創り上げた。
大雑把に日本人を表す言葉は、忍耐強さ、職人気質、マニアック、ミクロ、器用、几帳面、真面目、大人しい、クール、新しいもの好き、忘れ易い、基本は保守的、女性的、曖昧、同調、集団暴走、助け合い、平均的、非個性、非論理、非宗教、気分・気持重視、きれいごと、罪悪感なき嘘つき、勇気に欠ける、判断が遅い、役所感覚。
前にも書いたが、封建制度と名称を使いながら、日本とヨーロッパでは全く異質のものだ。ヨーロッパでは君主と部下は契約で結ばれていた。君主と言えども契約に反すると罰則が有りルールが守られた。
日本の場合は絶対的な精神的従属であり、殿様が家臣に切腹を命じたら理由に拘らず、見事切腹して果て、家を守らなければならなかった。上に精神的に従属する事をモラルとしていた。北朝鮮の支配体制に似ている。
織田、豊臣、徳川の権力構造を見ても分かるように、日本ではこの地域の相対的優位が絶対的支配になった。大陸ではいつ強敵が現れ、滅ぼされるか分からない。徳川家は鎖国を敷いて徳川の絶対支配を保った。
現代の官僚は武士組織が移行したものだが、これも武士と官僚ではまるで異なる。武士に有って官僚に無いもの、それは切腹だ。切腹どころか官僚は一切の責任を取らず、完璧な嘘つき。これが日本の発展を大きく阻むガンだ。
家康は生かさず殺さずと全人口の85%の農民をぎりぎりまで絞り上げた。飢餓で多くの命が失われた。文字どうり農民にとって毎日が生きるか死ぬかの戦いだったから、余裕も、おおらかさも、笑いも失われてゆく。
武士も決して楽な生活ではなかった。参勤交代は大名やその配下の武士の生活を困窮させた。その困窮こそが家康の狙いだった。また、全国に隠密を送り、勝手に城の瓦を取り換えただの言いがかりをつけては、外様大名を叩き、取り潰した。
終戦後に生まれた世代は人数が多かったためにどこでも激しい競争にさらされ、食べるものがない貧しい生活だったが、たくましかった。貧しい中で夢が有った。
ところが、現代の若者は恵まれているのに夢が感じられない。就職が難しく、収入少なく、将来が見えないせいかもしれない。バイタリティーが無く、ひ弱で、ズバリ、日本人は確実に劣化している。
一方で、イチロー、松井、ダルビッシュ、本田、長友などの一流選手が世界的で活躍する。この落差は何なのだろうか。一つは、戦後生まれ(食べること自体が大変だった)に比して、圧倒的にチャンスに恵まれている。幼い時からの訓練が効果を上げているのだろう。
こころ自治会の役員会で若い世代と会う機会が有って、気付いたのは、今の若い世代は現状に問題が有ってもそのまま受け入れてしまうし、現状維持が正しいとする判断や行動には驚いてしまった。
その時の雰囲気(空気?)、全体の風向き、気持ちなどで判断してしまう。論理も議論も無い。顔の無い無味乾燥さが有る。そのくせ、服装や生活スタイルや車では独自性を主張したい。
少し、飛び跳ねていた戦後生まれ世代が大量に卒業してゆく中で、若い世代に目立ってきてのは、昔の日本人が帰ってきた印象だ。コンプレックスが強く、意見を明確にせず、目立たず、何かするときは単独ではなく数をバックにする。
全体的に見た日本人の特性は、お互い協力しながら、真面目に努力する。職人的な分野や方法が強く、新しいものを好みながらも、実は良くも悪くも保守的。目立たず、全体の真ん中あたりにいる事で安心する。
業務はきちんとこなすが、常識の範囲を出ず、独創性に欠け、ともすればお役所的になりがち。対人的に弱く営業や新分野が苦手。優れたリーダーを望みながらも、実際には芽を摘んでしまう。
地位に敬意を払うが、実際に実力が有るかどうか、どのようにして地位を築いたかには興味が無い。また、日本では地位の高い者の責任が薄いため、方法を問わず兎に角高い地位を安直に取ろうとする。
地位が上がると素直さや親切さが失われ、傲慢で横着になり人間が変わってしまう。しかも、周りがそれを受け入れる。
日本社会では戦後、一応契約を結ぶ商習慣が出来てきたが、契約は形だけであったり、あるいは大企業が個人を縛るための一方的な内容である場合が多い。契約の概念、習慣が根付かない。
バブルはノウハウのキャッチアップ、円安、土地価格の高騰などが重なり、戦略なき発展となったがために、質的向上を伴わないスケールアップで発展してきた。そこで誕生した既得権亡者たちは既得権を強力に維持する。
日本は至る所問題だらけだが、誰も勇気を出して、直そうとしない。勇気はしばしば、災いとなる。沈みゆく日本をただただ眺めるしかなかったのだ。遅かったアベノミクスがどの程度効果を生むかは分からない。
日本を救うには二つの方法が有る。一つは超円安。1998年ごろから国家戦略の最重要ツールは経済で、経済戦略の要は為替と考えてきた。残り一つは大学の改革。
アメリカが強くなりすぎた日本を叩くための手段として円高を進めてきた。日本から中国に世界の工場を移した。しかし、日本の製造業は赤字に耐えて、事業を継続してきた。中小企業の70%が赤字でも耐えている。
もし、為替が110円を超える円安になれば、全国の製造業が復活してくる。職人気質の日本人の良さが生かされてくる。
日本に未来が感じられないのは発展に結びつかない教育にあった。取り分け、教育のすべてが集約される大学だ。教授など教える側が一方的にのたまい、それを盲目的に受け入れるような授業では変化の早いグローバルな社会では対応できない。
教授対学生の激しい議論やバトル、リーダシップの育成、実践重視で実ビジネスの課題を用いた解決の訓練などに変更し、卒業条件は質を問うべきだ。