宇宙・生命・日本 1000年後のあなたに語りかけたい

巨大ブラックホールの衝突が新宇宙を形成⇒循環宇宙論、有機物質から人間への進化メカニズム(循環論理の評価)⇒戦略的進化論

最後のサムライであった三島由紀夫

2007年01月27日 22時55分33秒 | アート・文化

 ラストサムライはなかなか面白かった。このような映画がアメリカで制作されることが不思議だが、100円のレンタルビデオでアメリカ映画をさんざん見てきた印象で述べれば、アメリカの映画人は様々なメッセイジや主張を映画に込めている。ラストサムライとは、それ以降、侍は存在しないという指摘であり、また日本人よサムライ精神を取り戻せとも言っているのだ。ま、それはともかく私はラストサムライは三島由紀夫であったと思う。

 サムライとは何か、それはいつでも潔く腹を切ることができる男のことだ。三島由紀夫が自衛隊員を集めて決起せよと語った内容は私には理解できないが、三島由紀夫の切腹は立派だった。何のためらいも無く、真一文字に腹が切り裂かれていたという。腕力も大変なものだが、それ以上にこの精神力はただものではない。日頃鍛え上げてきた肉体と精神力が究極の目的であり美学である切腹を実現することになったのであろう。新撰組の近藤勇は農民出身であったが、最後は見事に腹を切った。近藤勇も立派な侍だったのだ。

 石原慎太郎は三島由紀夫が肉体を鍛錬しているのを見て、「私の身体はそんな貧弱ではない」というような発言をしたらしい。背丈では確かに石原慎太郎のほうが大きいが内容はまるで異なるだろう。石原慎太郎はかつて週刊誌に、デートで約束した場所に行かず、遠くから待ちぼうけを食わせた女性を眺めているのが面白いと書いていた。なんとも女々しい歪んだ性格の持ち主である。日頃勇ましい発言をして見せるのは多分自分の弱さや女々しさを隠し、別のかっこいい姿を演じようとしているのだろう。

 かつては日本に侍が存在し、武士道精神も受け継がれてきたが、残念ながら今やそれは完全に過去のものだ。日本は滅茶苦茶になってきた。権力者は平気で嘘をつき、最後にはそれがばれてしまう。節操の無い何でも有りがあちこちで見られる世界が日本の現状だ。日本がおかしくなったのは特に急速な経済成長の時期を経てからであるが、そもそも第二次世界大戦のスタートである真珠湾攻撃からして全く侍の国ではなくなっていたなと思う。日本がアメリカに宣戦布告したのは真珠湾攻撃で勝利を収めた後のことである。アメリカは日本軍の動きをキャッチしていてルーズベルト大統領は上手に利用したとの説が日本では語られている。仮にそれが事実であったとしても何の言い訳にもならない。まともに考えれば、真珠湾での奇襲攻撃を成功させるために、宣戦布告を遅らせたことは間違いない。

 アメリカが広島と長崎に原爆を投下したことは、真珠湾攻撃の奇襲作戦より10倍以上問題があると思うが、それはそれとして、日本が卑怯な手を使ったことは、同じ民族として深く恥じなければならない。かつての武士は決してそのような卑怯なことはしなかっただろう。アメリカは先ごろもパールハーバーという映画を制作し、日本でも多くの人が観た。今後も作り続けられる。映画は娯楽だが,別の側面も持っている。これは、日本に油断するな、日本を許してはならないとするメッセイジだ。何故、アメリカが世界の工場を日本から中国に移したか。クリントン大統領が中国に何度も出かけ、中国人との交流を深めたか、良く考えた方がよい。

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教育は未来の夢

2007年01月14日 19時58分43秒 | 学問

 このたび安倍坊ちゃんの主導で新しい基本方針が施行することになった。これによって、行過ぎた詰め込み教育の是正のために登場したゆとり教育の方針がまた是正されることになる。何故このようなどたばたが繰り返されるのか?実は教育の基本的なことが文部科学省や政府首脳に理解されていないからだ。

 教育は未来そのものである。だから、日本の未来を語る時にその教育は重要な要素である。しかし、残念ながら日本の教育が本来有るべき条件を満たしていないために日本の未来が見えてこない。日本の教育は幾たびかの変遷を経ながらも、知識中心の根幹そのものは変っていない。この原型は中国の宦官の試験制度である。

 日本は高い教育の普及率と学力が一因となって戦後の大きな経済成長を実現した。何故か?それは欧米とりわけアメリカの優れた情報やノウハウを吸収する上で、知識型の能力が役に立ったからだ。キャッチアップは日本人が歴史的に培ってきた優れたスキルである。戦後の復興と、日本の教育制度がぴったりマッチした。ところが、冷戦終了と共に発展の方程式は大きく変った。また、インターネットの普及で常時、大量の知識を詰め込んでおく必要も無くなった。

 実は、教育を考える前に、本来は日本が目指すべきビジョンを明確にし、国民の間でも共有なければならない。このビジョンを実現するために教育がどうあるべきかが議論されなければならない。ところが今回の基本方針を立案する経緯ではビジョンが示されておらず、有るべき日本の未来も語られていない。つまり、方向さえも明確にされない中で、その骨格形成であり方法論たる教育方針が立てられているのである。勿論、目標には関わらず人間として必要な教育があることは言うまでも無いが。

 現在の日本の多くを霞ヶ関の官僚が支配管理し、あの小泉首相でさえ官僚を尊重せざるを得ず、基本的な改革は殆ど果たしえなかった。私は長い間、知識型エリートや官僚を眺めて来た結果気が付いたことは、彼らは確かに頭が良く優秀でありずば抜けているがそれはあくまで教科書や前例が存在する範囲に留まることである。彼らは新しい問題、難しい問題が生じると、先送り、棚上げすることを自ら認めている。隠蔽も大いになされている事だろう。誰もが認めるスーパーエリートが霞ヶ関の官僚だが、冷戦後の世界変化に対応できていない。それが1990年代以降の日本の実態だ。知識集団は無能でミスリード集団になっていることを認識しなければならない。

 ハーマンカーン博士の著書[21世紀は日本の世紀]が出版された1967年だったか、本屋に走り黒っぽい表紙の本を購入、興奮を抑えられずに走り読みした。そしてその時、日本が経済面でトップになるのならリーダーシップが必要であり、日本教育に取り入れられなければならないと思ったが、40年経過した今もテーマとして語られることさえない。実は、日本型の既得権連鎖構造は従属というチェーンで縦方向に繋がっており、リーダーシップと言う本来求められるべき能力は、このアンフェアーな権利構造を脅かす邪魔な存在でしかない。

 これからの日本の教育はどうあるべきなのだろうか、まず前述したように優れたビジョンが示され、国民の間に共有されなければならない。次に未来ビジョンを実現する教育のありか方が求められる。現在、日本のおかれた状況から判断すると、日本が世界の発展に指導的な立場を取りつつ自国の発展を図らなければならないから、新たな発展モデルを創造する思考力・判断力に加えて、世界をリードするためのリーダーシップが必要だろう。知識も重要だがそれ以上に情報の収集方法の会得、論理組立、課題を解決する頭の訓練、体力・タフな精神力が求められる。

 知識型から論理型へのシフトに加えて、見直さなければならないのは事務屋優先主義だ。官僚、地方公務員、電力など既得権組織では事務屋の圧倒的な優先が図られているが、彼ら知識エリートは、新しい局面、難しい局面で突破力が無い。また論理能力が無いために正しい判断が出来ない。平気で嘘もつく。フランスでは技術系のエコードポロテクニークがエリート大学となっており、日本でも理工系の人材をリーダーや経営者として訓練し育てるべきだ。

 安倍坊ちゃんの「美しい日本」でモデルとしている教育制度はイギリスらしい。確かに参考にはなるが、イギリスの状況と日本では異なる。イギリスの教育制度を完璧に日本に導入しても現在の日本の状況を打開し未来の展望を描くことは出来ない。日本の未来を実現する教育の有り方を地道に研究し、実用に即した独自のモデルを創造することこそが必要とされているのだ。

追記

 日本の教育の内容で特に注文を付けたいのは現代史、およびその考察だ。古代人や卑弥呼も重要であろうが、今の日本には殆ど関係ない。大切なのは例えばこの100年の歴史である。残念ながら、日本では明治以降の歴史が時間不足により学習されていない。これでは、現代日本形成する重要事実、骨格が見えてこない。昨日のことが分からないから今日のことも分からない。目で見ることと内容を理解することとは全く別問題だ。マクロ的に見れば日本人の意識構造は江戸時代から基本的に変化していない。第二次例えば、第二次世界大戦のことは考えたくもないことかもしれないが今日の問題がより顕著に現れたとのも考えられる。何故戦争を止められなかったかを学習していないから、バブルのような暴走が起きており、次の暴走(戦争でなけれれば良いが)が起きないという保証も無い。現代史を把握することは日本発展の基礎になる。

教育の現実的な課題として大学入試がある。日本の大学は入るのが難しく、卒業は容易と言われる。これでは、高校程度の学力より進歩が無いし、卒業生の質を保証できない。例えば、センター試験結果と論文、あるいは区部活動・社会活動などを総合して現状より2割り増し程度入学させ、予め設定したレベルに達したものを卒業させる方法を採用すれば、高校のあり方は激変する。特に、東大の入試を改革すれば、効果が大きい。東大が変らないのであれば、例えば公務員は民間の実績者を優先するとか、産業界が必要とする能力を高め保証する大学を作るなどが考えられる。

 まったく別の話だが、教育の現場の問題を指摘すれば、一流大学から小学校まで学級崩壊が起きているらしい。私は大学に3年勤務していたから、いろいろな実話を聞くことが出来た。退官された教授や現役の若いl講師からの話だ。ある大学の大学院の授業で起きたことだが、ある大学院生がいきなり隣の大学院生を殴った。何で殴ったかが分からない。これまでの常識ではとても考えられないことだが、むしろ現実に起きている異常な事態が常識になりつつある。とても放置しておける状況ではない。

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2050年の日本は私の責任だ

2007年01月04日 19時59分40秒 | 思考空間

 正月でもあり、おおボラ吹きのようなテーマを敢えてつけた。勿論、私の力は微力で何程の事が出来るのかは大いに疑問だ。しかし、そんなことは言っていられない。1990年代初めから日本の将来について危惧してきたが、当時の予想通り、アップダウンしながら長期低迷のトレンドを描いており、明るい見通しはない。日本に未来があるとはとても言えない。誰の責任かを追求することは簡単だが、それを述べたところで何らの解決にもならない。誰かのせいにするのではなく、自らが来るべき日本の未来の責任を負うべきなのだ。

 私の高校生時代、社会に対してたくさんの疑問を持っていた。とりわけ我々の世代は戦後生まれで最も人数が多く、行く先々が過酷なの競争となり、何かにつけて間に合わせであったから、何で社会や大人達は何もしないのかと思い続けた。我々の世代が潜在させてきた不満のエネルギーは必ず表面化すると考えていたが、その一つは学生運動として現れた。私は学生運動については批判的だった。それは本質的な方向を目指していなかったからだ。今は我々が若者達から批判される番だ。1990年代以降は辛かった。何が起きるか分かっていて何も出来なかった。我々は何もせず、若者達が夢を持つチャンスを摘んではならない。

 何故、2050年か?それは目標として近からず遠からずという理由だ。2010年、あるいは2020年としたら、現時点で何も出来ておらずとても間に合わない。2100年では遠すぎて検証できない。2050年は私自身も生きているかどうか分からないが、何とか長生きしてどれほどのことが出来たかを確認したい。

 「2050日本プロジェクト設立準備会」という名刺を作ってある人に渡したら、「右翼のよう」と言われた。何をしてもしなくても目立てば批判は受けるし、陰口は叩かれるだろう。そんなことはどうでも良い。ただ、現在は零細企業を立ち上げている途中であり、家族を養わなければならないのでまだまだ全力投球できる状態ではない。何とか、事業が軌道に乗せて、全力投入できるようにしたい。

 私がこれまでやってきたことは、理論面の整備というべきか、進化や発展についてそのメカニズムを考え、発表することだった。物質から生命が誕生し、その原始生物が人間に至る進化を遂げたメカニズムとして、循環論理の評価システムが等価的に形成されたのではないかとの仮説を立て、2回ほど電気学会の全国大会で発表してきた。大学研究者達とも議論し、発表会の質問にも答えてきたが、仮説ということもあり否定される論理は今のところない。正しいかどうかは当然議論があるだろうが、私の様な者がこのような仮説を発表できること自体が大変な満足である。世の中全般に天才達の説を盲目的に信じるところがあるためにこの方面がブラインドになっていた。

 循環論理の評価システムから導かれる結論は次のものだ。社会発展の基本の基本はあらゆる方向から可能な限りの情報を集めること、そして情報を検証し何が事実かを徹底的に究明することだ。日本では情報戦略が遅れているし、特に重要なテーマに関して何が事実かが分からなくなっている。事実の喪失、これは日本の発展にとって致命的である。何故、事実が無いか?それは日本を支配している既得権者、あるいは既得権組織にとって事実が邪魔な存在だからだ。我々はまず、周辺の身近な事実を掘り起こすところからスタートしなければならない。

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