日本の歴史が始まって以来、今ほど日本人の心が荒れ、綻びているいる時はなかっただろう。今回の佐世保の乱射事件だけではない、毎日のように、いじめによる自殺や家族間の殺害など、驚くような事件が起きている。アメリカの文化とともに、凶悪事件も日本に伝わったとも言われる。先進国として、成熟期に入ったと見られる日本だが、精神文化は荒廃している。
全てを政治のせいにするのは簡単なことだが、その前に本来宗教は、もっと日常的に精神的な面での救済を実施すべきではなかったのだろうか。寺や坊主は何をしてきたのだろうか?日本では冠婚葬祭がベルトコンベアに乗せられ、ビジネスベースで流れて行く。特に、死という深刻な問題が利潤を生むイベントとして、対応がパッケイジ化され強化されてきた。それゆえに、生きている人間の心の問題が置き去りにされてきたのだ。
確かに寺は毎日のように人間の死という誰もが嫌がる問題に接しなければならない。その大変さは理解できる。しかし、本来、宗教は現実に今生きている人々の心の救済を行うべきものだ。仏教が世襲制であり、金を得るための手段となっていることが、形骸化を生み、本来あるべき、精神的な救済活動を衰退させているのではないか。私の知っている住職は普通のサラリーマンで普通に話ができたが、今は寺の後を継ぎ、四国88か所の一つの大住職として舞い上がっている。何しろ、資産と言い、収入と言い桁外れだから成程なとうなずける。
私は宗教観として、天地創造を唱えるキリスト教よりは輪廻の仏教を支持する。科学の進歩とともに天地創造説は矛盾を拡大しており、宇宙や生命の本質が循環だとする私の考えと輪廻はマッチする。しかし、活動面において、仏教は感覚に合わない。かっこ悪いし、日常感覚との乖離が大きすぎる。何よりも、ほとんど精神的なよりどころとして役に立っていない。
私は、日本の宗教を全体に見直し、より現実的で日本人の心を救済し得る、新しいスタイル、人々との接し方を考えるべきだと思う。例えば、住職ではなく、精神的救済者としてそれにふさわしい人を探し出し、一定の生活レベルを保証する代わりに、救済者は愛や生きることの喜びを唱え、悩みを聞いてあげる。救済者の活動については、常に愛情深くフェアーになされるよう支援組織が支えて行く。冠婚葬祭はその一環として、合理的なコストで実施する。
救済者の中に、仏教徒やキリスト教徒がいてもよいと思う。大切なのはその選び方、守るべき最低限度のルールの決め方だろう。心の救済という目的は不変としても、世の中や環境の変化には対応しつつ、究極的には人類の繁栄を目指さしてゆくべきだろう。何事も発展のコアに優れた評価システムが必要である。その救済者の実現をライフワークとして考えてみたい。