私の開発のスタートは入社1年目、産業用としては世界で初めてのマイクロコンピュータを使った制御システムだった。1975年に入社し最初の配属先は火力発電所だった。大気汚染濃度を制御するため硫黄分の低い重油と高い重油をブレンドするブレンダーが他課(計装)で計画されていた。横河提案のアナログ方式で機器の組み合わせが複雑。失礼な話だが一目見てこれはダメだと思った。
アナログ機器を複雑に組み合わせると精度や応答性に難点がある。私は新入社員にも拘らず、他課の業務に対して、実績のないマイコン(デジタル)方式を提案。
以前、私がソフトに強いことを知った本店のある人から東芝のマイコン(マイクロコンピューター)のパンフレットを受け取っていた。私は即座に東芝に電話した。すると、東芝の部長(大橋さんだったか:実名を出して申し訳ない)が飛行機で合計2回来られた。新入社員の私に会うためだ。東芝によるとジェット機の制御には使われているが他には実績が無いとのこと。ジェット機の実績なら申し分ない。
デジタル方式はプログラムで複雑で幅広い制御が簡単に実現できる。精度やレスポンスも良い。これだと思ったので、係長に申し出た。本店には重油燃料のブレンダーに関し、アナログ案と私の提案したデジタル案(マイコン)が出された。
同じころ、発電所の公害などのデータ処理自動化が私の宿題になっていた。複数の担当が毎日シャープの単純な卓上計算機を利用しデータ処理、作表・管理していた。
当初はミニコンピューターを発電所に設置する方式を考えた。色々検討したが、発電所でこの方面に強い人がおらず、提案すれば全部自分に来る可能性がある。これは大変。面倒見きれない。そこで、本店の計算機と発電所を結ぶ方式を検討し始めた。そこで、本店システム部に伺った。
新入社員がデータ処理担当者を連れてシステム部に行くと、部屋にシステム部のトップクラスがずらりと並んだ。システム部は大変積極的だった。発電所で処理している業務説明やデータを求められ、私は十分理解していなかったので、橋渡しの役割となった。システム部は総合的なオンライン処理を計画した。
本店大型コンピューターと発電所を通信で結び発電所に通信端末装置を設置する方式(オンライン処理)は国内では実績が無かったし、当時の原子力発電所にも無かったので国外でも無かっただろう。
この通信端末装置の案と先のマイコンブレンダーの二つの案を新入社員が出すことになった。係長が手筈した。本店の副長から呼び出しがかかった。1日かかって説明し、議論したが、聞く耳を持たず、かみ合わず、けちょんけちょんだった。帰りの汽車の中で火力部の担当者から「無理だね」と言われ落胆した。
係長に報告した。却下されず、購買部門に出された。係長は火力部長と個人的に親しかったので、検討をお願いしますと、こそっと言って頂いたようだ。
何と、大逆転で、二つとも承認された。マイコンブレンダーは東芝が実績作りのために価格を下げたので(元々構成が単純)、実績が無かったにもかかわらず購買部門で購入を決めたのだ。当然東芝は全力で説明に努めたに違いない。一般の人には分からないが電力会社では実績のある物しか買わない。重要装置に関しては異例のことだった。
その頃、火力部の副長が「副社長から事故を予想できないかと宿題を貰った」と係長を介して伝えてきた。私は早速、火力発電所の事故予想に取り掛かった。私は二つの方向からアプローチを始めた。一つは故障を含めた事故に関わるデータを集め、メーカーと連携して分析し傾向を掴むことだった。残り一つは、回転機の周波数を常時監視し、異常を検知する方法だった。故障データは修理伝票を集めるところから始まる。
残念ながら、私が2年目に運転当直に異動となり、とん挫した。新入社員として私の果たした成果は大きかった。その後、マイコンブレンダーは他の発電所にも導入されコスト低減と信頼性向上を果たしたし、間違いなく全国の発電所に導入された。同じく通信端末装置は原子力にも導入された。全国の電力会社でもそうなっただろう。現在は、本店と通信を結ぶデータ処理用のオンラインが完璧に整備されているだろうが、そのスタートは1976年私のいた火力発電所だった。
運転当直は深夜業務がある。私は夜8時頃は床につき、朝早く起きるリズム。深夜業務があるのなら絶対に電力会社を志望しなかった。元々、電力会社は学生時代から全く対象外(電力会社向けの単位は選択しなかった)だったが、父が入退院を繰り返し、母から1年もたないと手紙が来たため、最後の親孝行と思い、故郷でもない電力会社を受け合格してしまったのだ。
火力発電所にはクラゲが大量に来襲し、発電の支障となっていた。発電機のタービンを回した蒸気をコンデンサーで冷却し水に戻すが、その冷却のため海水を使う。トラベルスクリーンが詰まるとコンデンサーに海水が行かなくなる。実際、クラゲで発電停止になる事故が起きた。
発電所の人間は全員駆り出され、トラベルスクリーン(大きな格子状の回転網が取水入口で回転し大きなゴミをとる)の洗浄ピットのクラゲを器具ですくって地面にあげていた。毎日人海戦術で大変だった。私は自費でクラゲの本を買い、対策を考えた。トラベルスクリーンから出る水を「すのこ」のような分離機を通し、クラゲと水を分ける簡単な方式を当直長に提案した。
早速試され、威力を発揮した。クラゲだけが分離されピットに入り、水中ポンプでクラゲを吸い込み廃棄する。水を分離しないとピットが溢れる。このポンプの考えは別の人が提案した。クラゲは殆ど水なのでポンプで吸えるのだ。これで人海戦術は解消された。
私は会社アパートの最上階で、当時はクーラーが普及しておらず、屋根が焼けることもあり昼が寝られなかった。体調を崩し顔にはしわが出来た。転勤を希望した。ある人から父を介して、転勤を希望する者は転勤させないと伝えられた。そこで、当直にいたいと希望調書に書いたところ、第5志望の研究所に転勤となった。
前もって、運転課長から生き物は好きかと聞かれていた。好きですと答えていた。何と発電所(特に原子力)温排水を研究するところだった。水理実験室建設が大きな目標だったので私は明けても暮れても設置するミニコンピュータ検討のため、メーカーを呼んでいた。メーカーが列をなしてやってきた。
ある日、次長から呼ばれアワビの養殖(発電所の温排水有効利用)のことを聞かれた。私は全く答えられなかった。すると次長から、君の仕事はアワビとウナギの養殖だよと言われた。私の専門は半導体とかコンピュータソフトだったので、まるで専門外のところへ来たのだ。
アワビ養殖向けに、データーロガーを製造した。データーロガーは発電所の中央制御室に数台設置されており、そのような記録装置を目指した。教科書知識と現物では異なり、温度計測一つとっても大変だった。熱電対センサーだけでは温度が計測できない。白金温度計でセンサーコード取付け端子の温度を測り、センサー部との温度差を足し算し解決。次に発電所内の稚貝養殖のためノイズが強く用紙に余計な印刷がなされる。フィルターを入れたりタイマーを入れたり、細かいところで苦労。
発電所に設置に行き、ドアを開けた途端、現場の係長から2時間あまり一方的に怒鳴られた。入り口で立ったまま聞くしかなかった。研究所の上司には言えないことを新米の私にぶちまけたのだ。特攻隊上がり とかで行く度に怒鳴られ憂鬱だった。
ウナギ養殖も助けてやってくれと言われても、何もわからない。発電所の養殖場に行くと関連会社の担当者から白い目で見られ、相手にしてもらえない。上司が予算取りしていた水質監視装置を養殖用に見直し設置し、課題となっていたシラス飼育槽の温度安定化に取り組んだ。蒸気を入れて加温しているが±1℃ぐらいの変動となっているので、シラス(稚魚)の歩留まりが悪いと告げられた。
まず蒸気の量の確保のために上司と共に古巣の発電所に行くと所長の協力が得られない。火力部もOKを出さない。上司と共にピンポン玉のように発電所と火力部を往復し、何とか了解を得た。私は高度な制御方式を考えていたが、業者(社長)が制御方式では解決しないのではないかと言った。これがヒントになって、大きめの混合槽を設置することにした。記録を見ると全く温度変動の無い制御ができた。ところが、稚魚の歩留まりは改善しなかった。
後に養殖は、抗生物質を大量に使用して歩留まりを上げているらしいと分かった。養殖のデータから各成長ステップや出荷の数量を予想するシミュレーションソフトを開発し、発表した。研究所所長から技術より、金銭的な支援をして欲しいとの課題が伝えられた。考えた末に、関係会社に水質監視装置のメンテナンスを十分実施してもらう事で、特命理由書を書いて通した。
私は怖いもの知らずで、関連会社を通じたウナギかば焼きの販売を推進し、社内に売りまくった。ある日、発電所から電話が入り、ウナギをさばいてもらっていた発電所食堂のコックが包丁を足に落として怪我したから中止と伝えられた。
養殖場の関係者との人間関係も極めて良好になった。ところが研究所新体制の副所長の社長直訴でウナギ養殖はアワビと共に中止となった。
ここまでは初歩の段階 続く!!