日本には未来が感じられない。それは教育こそが未来でありながら、日本の教育が旧態然とした知識詰め込み型だからだ。文部科学省も、まるでダメ官僚組織の期待に違わず、決定的におかしい。教育を考える時に、その重要な指針となるのは、国家ビジョンだ。日本の未来ビジョンを実現するために、教育も方向性や内容が決められなければならない。せめて、未来を志向する教育内容が求められるが、その方向性さえも感じられない。
日本の戦前からの歴史を振り返ると、明確な目標・共通の目標を持たず、ローカルな組織あるいは個人が自らの欲望を膨張させて、暴走してしまう。既得権維持管理社会では、トップはやりたい放題で、ブレーキがかからない。その、欲望が無制限に拡大しそこに闇の世界が結びついたのが、バブルである。
知識型の教育は中国の古の宦官の登用試験が大きく影響しているとされており、リーダーを育成するものでもないし、そもそも教科書に記載された知識なるものは、精製された過去の情報であって、そんなものをいくら詰め込んだところで、未来を切り開くことができない。何にも増して、高速・大容量通信のインターネットの時代に合うとはとても思えない。それでも、知識詰め込み型の教育が強化されるのは、この知識競争に勝ち残ってきた官僚の既得権を死守すること、ノスタルジア、そして、知識型教育のビジネスが高度に発達し、莫大な利益を生む社会構造となっているからだ。
アメリカはヴェトナム戦争で、中央に最も輝かしく優れた頭脳の秀才たちを集め、作戦を立て指令を送り戦った。その結果が、アメリカに歴史上初めての敗北をもたらした。第二次世界大戦の日本軍将校たちは、彼らが学校で学んだような戦闘場面が一度も実現せず、ただただミスリードを繰り返したという。近いところでは、バブル崩壊以降、東大法学部のトップを集めた大蔵省が、800兆円を超え国の負債を作りだした。国家的な犯罪でありながら、誰も責任を問われていない。
豊富な知識、素早く正確な応答、切れ味のよさ、誰が考えても素晴らしい。このような官僚タイプの秀才たちに接し、眺めてもきたが、結論として言えることは、彼らは作文はできても、現実に新たな状況、困難な状況には対応できないということだ。官僚型組織とそのシステムが個人個人を無能力化している面も否定できない。ミリ単位のことには非常にシビアだが、肝心な所に100m単位の穴があいている場合がしばしば見受けられる。実績や情報のあるい範囲ではめっぽう強いが、全体的な見方、バランスを要する判断ができない。
日本の子供たちを知識ロボットとして作り上げてゆくことにより、どれだけ貴重な無駄を生じていることか。後進国向きの教育を強化することにより、ますます、日本が地盤沈下して行くことは避けられない。
知識を全面的に否定するつもりはない。基本的な知識は必要最低限覚えておけばよい。今後の教育に求められるのは、情報を収集分析し正しい判断を行う評価の能力、社会や家庭を健全に導くリーダーシップ、そして、現実の課題に即した頭のトレーニング・体力維持の運動トレーニングだと思う。