大三島の旅館さわきは広島の自宅から2時間以内。山陽道からしまなみ海道に入り橋を超え、最初のPAが大浜。モダンに立て直した店に入り、タコ天どんぶりを食べ、香川から来るメンバーに電話したら、旅館に着いたところだった。読んでいた本を畳んで大三島の旅館に向かった。
仲間同士の旅行は喋りたいことを遠慮無く深夜まで喋りまくることで大袈裟に言えば人生全体の洗濯になる。食事部屋も完全に仕切っての放談(音量も大きくなる)だからストレス解消効果は大きい。様々な情報も入ってくる。お互いに相談に乗る。
最初の温泉(マーレ・グラッシア大三島)は珍しい塩水の温泉だった。ねばつくかとおもったら意外にさらさらして、我々の血液の塩分濃度も同一レベルだから、体に馴染んで快適だった。夜は瀬戸内海の魚を中心とした、刺身や煮つけ、揚げ物、鯛めしなどの豪華料理で話も弾んだ。
二日目は大山祇神社、美術館、買い物ツアー。昭和天皇他が訪れており、源義経、源頼朝からの奉納品が有り、2600年を生き抜き歴史を重ねた楠の大木も重要なスポット。楠群は国の天然記念物に指定されている。寒かったが大勢の観光客が訪れていた。
伯方島の海産七輪バーベキューで、牡蠣、鯛、ハマグリ、天然エビ、サザエなどを、思い思いに七輪で焼いて食べた。材料は水槽に入っている魚などを自分で選び購入する。スタッフがまわって、牡蠣の蓋を開けてくれるなど面倒を見てくれる。家族連れで賑わっていた。
最後に、大三島に戻り、多々羅温泉(入浴は大人が310円、僕らは250円、タオルは210円と安い)に入った。幹線道路から狭い道に入るので車運転では注意が必要。温泉の建屋は、新しく魅力あるデザイン。中も綺麗だった。地下1,000メートルから湧き出る天然温泉の良質な泉質らしく、効能は色々有りそう。何故か珈琲牛乳も売りだった。
しまなみ高速は、クリーンな空気に溢れ、オープンスカイで美しい島々を見下ろしながらの、のどかなドライブである。日本の宝だね。晴れた日には外国人らが自転車で快適に走っている。
ホテルでは富山美人のスタッフが荷物を持ち、部屋の中まで案内して頂いた。外での食事の事を聞くと窓から指をさし、3か所を紹介してもらい、その1か所の地元料理を食べに行った。氷見うどんとか、昆布かまぼこなど、富山を味わった。刺身は毎日食べているので注文しなかった。
ホテルは少しだけ高めの部屋を予約していたので、部屋は広いし、防音がしっかりで快適だったね。温度調節が自然で安定しており、良く寝れた。
翌朝、ネットで調べたところ、近くに朝食の店が無かった。ホテルの朝食を予約していなかったので、フロントに寄り、宿泊客割引で2,200円のバイキングを1,700円に。外が見える良い席に案内され、そこでは富山の刺身などを味わった。
トレーが無いので、何度も取りに行く羽目になった(海外はそうらしい)。箸とかスプーンの位置が分かりにくかった。
出発時はフロントに昨日の富山美人がいたのでタクシーを頼み、見送ってくれた。手を振ってまた来てくださいと言われ、反射的に「また来ます」と言った。
富山大学(全日空ホテルが最も近かった)は10分少々、景色は寒い地方ののどかな風景。気の良い運転手と、大手企業を誘致できるといいですねなどと会話。穏やかで親切な人たち。
富山大学(電気学会)での発表は例によって質問が無かったが、発表した本人としては自分に対して手応えを感じていた。空想から始まった進化論で世界の常識に反するが、色々根拠を示す事が出来るのが心強い。
座長は珍しく同じぐらいの年齢の方で、「先生は一人で考えてこられたのですか?」という感じで質問された。僕も大学で務めた経験からわかるが、相手を先生と言えば楽な会話が成立する。発表の内容については改めて記述したい。
翌日帰りの便は夕方だったが、アテンダントに挨拶すると数人は僅かに見覚えがあり、笑顔がとても良くて昨日のアテンダントと分かった。通路で前がつかえていることもあり、立ち話させていただいた。
アテンダントが笑顔で応じるのは当たり前だが、一つの理由は、僕が冗談を交えながら親しい人に接するように話しかける事。そして、これが影響したと思うが、凄く目立つ半そでシャツを着ていた。乗客のほぼ全員が黒の装いで、たくさん着込んでいる。僕は派手なシャツで印象が残ったに違いない。
家内は出かける時、一緒に歩きたくはないが「良い感じ」と言っていた。実は、昨年の冬、東京に行った折、安い半そでを着ていたら、露骨にホームレスに対する目線に遭った経験から、ケチな僕が無理して高く見えるシャツをそろえておいた。
勿論、学会の発表では普通のシャツでネクタイだった。これは知人のI博士の意見に従った。
新大阪の地下から御堂筋線に乗る時、念のため「SUICA使えますか?」と聞いたらOK。広島でも大阪でもSUICAが使えるのは乗り換えなどで助かる。本町で降りて、中央線乗り換え一駅で堺筋本町下車、経路を電話で聞きながら会場へ。
マイドーム大阪は地元では大変有名らしかった。大きなビルの展示会では輸出向けの国産品を調べた。手回しで簡単にミルして飲めるコーヒーとか、吸水性の高いタオルとか、刃物、鉄茶瓶、チャイナなど。何が売れるかは実際に試してみないとわからない。
昼はちょっと歩いて、気の利いた店に入った。11時58分というのが非常に良いタイミングで、好きな場所を選べる。大きなガラス戸に近づくとオーナーらしき上品な女性がドアを開け、迎え入れてくれる。ヤナセの前川さんではないが、迎えに来てくれるのは気持ちの良いもんだね。
言うまでもないが、大阪は大都会だ。環状線のJR本数はちょっと少ないけどね。ひと時の大阪の街を楽しんだ。広島では駅前52階建てのビルを「中四国九州一の高さ」と宣伝しているが、大阪では日本一のあべのハルカスをはじめ、40階ぐらいなら ざらにある。
講習会、打ち合わせを終え、帰りはタクシーで本町まで行き、新幹線の中では前回ブログに書いた宇宙論を考えていた。日本にいると宇宙論はビッグバンで決まりみたいな感じだが、ヨーロッパなどでは懐疑的にみられている様だ。
日経サイエンスでは、アメリカで立ち上げられていたDES(The Dark Energy Survey:ダークエネルギー調査プロジェクト:世界中の25研究機関)のメンバーがビッグバン以外のモデルを紹介している。何しろ、ダークエネルギー量は量子力学からの計算と比較し10の120乗の差が有るというから、単なる計算ミスでは済まない。
宇宙論は学生時代(1968年頃)、ブラックホール発見の記事を読んで思いついたモデルに近づいていると感じる。思ったより早い。ダークエネルギーがあまりにも現実離れしているせいだろう。
自宅にはマイドーム大阪より(door to door)約3時間で到着。帰途は宇宙膨張速度の問題点を考えていたから、心地よい空間を楽しみ、実に快適だった。
《蒜山のヒルは血を吸う蛭かと思っていたら、ラッキョウの原生種らしい》
雨天で取り締まりもお休みと考え、私の安全速度で快適に走っていた。何故か左車線の車は総じて遅かった。長いトンネルで遥か後方に赤いランプが点滅した。1,2秒、何だろうと思ったが、3秒後にはやばいかもと速度を落とし左レーンに移る。
凄い速度で、点滅ライトを天井に着けたクラウンが追いつき、私の車の前に割り込んだ。車間距離を保って暫くそのまま走行。覆面パトカーは次のパーキングに入った。腕の良い優秀な警察官で、お仕事ご苦労様だが餌食になるわけにはいかない。
休暇村蒜山高原は最初、無駄な造りだなと思った。しかし、次第に蒜山高原全体の大スケールな風景ともマッチしたゆとりのある店舗などが点在している事に気付くようになった。阿蘇山、御嶽山、菅平、阿寒湖などで見る雄大さにも似ているが、店舗一つ一つもゆったりと開放感が有った。
店舗めぐりだけでも結構楽しめるんじゃないかな。
ニュージャージー牛乳を飲みたいとI博士が言い、I博士の車で何度も迷いながら店舗を見つけ、奥の喫茶部のようなところで飲んだ。入り口にいたマネージャーはすごく感じの良い人で、中は天井が大変高く開放感が有り、窓ガラスも巨大で牧場斜面の全景が見渡せた。
夜、朝と食べ過ぎていたので(バイキング)、牧場の横の道を3人で上がった。昼はジャージー牛の焼き肉。ここを含めて、楽しい大放談の2日間ではあった。
広島の人間は殆ど蒜山高原を知らない。岡山にこんな素晴らしい場所が有るのだから是非訪れたらよい。車のナンバーを見ると結構関西から来ていた。可愛い女性も多かった。全国の知る人ぞ知る雄大観光エリアだね。
帰りの岡山道は警戒運転、お出迎えは無かった。山陽道でベントレーが猛速度で追い付いてきたので、道を譲り追いかけた。私の車の方が速い感じだった。ベントレーは下りてしまう。ネットで調べると びっくりのモンスターエンジンを積んでいた。
続く
貧乏な早稲田の学生が練り歩くような雰囲気ではなくなり、高島屋をはじめ巨大なビルが林立する商業都市に変貌していた。全体的に作りが大きい。田んぼしかないような田舎から来ると圧倒されるだろうな。
秋葉原ではレムホテルの前にあるヨドバシカメラに電池でも買おうと思って寄ったらこれもでかい。梅田の淀橋より大きい気がした。昔であれば電気街の裏側に当たる地域だが、今やどちらが裏だかわからない。
都内で外人を見かけることは多くなりましたね。中国人はくすんだような色の服装で塊となり歩いている一方で、金髪の美人が六本木の近代的な東京ミッドタウン(未来都市の様な地下街)をさっそうと歩いていたりする。
お茶の水の明治大学はガラス張りの高層ビルで歩く人を圧倒する。明治大学の教授と飲んだ時、早稲田の失敗(九州、埼玉の地方進出)を見て、中心部での戦略を図ったのでしょうねと言うと、早稲田も中心部に展開しつつありますよと言っていた。
渋谷も次々高層ビルが建てられるらしいが、変貌する東京の様子は地方では見られないホットドーンであり、目が離せない。
華やかではない。しかし、日本人が戦っていた時代の歴史を穏やかに振り返るひと時を提供してくれる。充実した施設で、完成度は高い。一度は、呉市の大和ミュージアムを訪れる機会を持っても良い。
3階建てビルの中央が大きな吹き抜けになっており、その1階中央に10分の1の迫力あるヤマトの模型が飾られている。広々として、落ち着きが有り、美しい戦艦の造形が過去に何かあったのですかと問いかけるような錯覚を覚える。
レーダーが無かったので、遠距離の敵飛行機群を撃ち落せず、また、不意に現れた戦闘機に対応できなかったのは痛かったと、日本の歴史を研究し日本に興味を持つ李さんの意見。
階段を下りて触ることもできるが、何度も触ると注意されるかな。
結構、若いカップルがやってきて、楽しいひと時を過ごしている。展示などは戦争ものが多いが、戦後の呉市の状況なども知ることが出来る。
来る前は、ちゃっちい模型が有る程度と思っていたが、なかなかどうして、ヤマトだけでなく、展示物を含め、見応えが有った。本物のゼロ戦にも会える。ゼロ戦展示は予想外だった。美しい女性海上自衛官が会場をまわっており、記念撮影や説明でサービスしてくれる。
下は人間魚雷として開発された回天。狭い艦内に乗り込んだ時、何を思ったことだろうか。こういうものを考え、製造し、実際に突っ込ませた軍部首脳の頭の構造が分からない。人間の命や人格の軽視は今も続く。
戦艦の大砲の弾は大きい。試射の時は耳栓をしていても、物凄い轟音と爆風が有ったそうだ。
ゼロ戦の座席の背板に鉄板が入っていなかったので、後方からの射撃で容易にパイロットの体を銃弾が貫通した。
戦前でも既に日本の製造技術は凄かったんだね。
戦艦ヤマトの製造や技術的な話、戦争開始から終戦までの記録など色々見るべきものが有った。3階では映画が上映され、ヤマトの説明、JAXAの宇宙開発などを観賞できた。
外には戦艦陸奥の主砲やスクリューが飾られ、実物の巨大さに圧倒される。また、道路を挟んで退役した実物潜水艦が飾られており、中に入って、見学できる。全工程が2~3時間の長編映画のようだ。
陸奥の主砲。
舵。
昼には当然、海軍カレー、海軍オムレツがお勧め。食べさせてくれる店が増えたね。大和ミュージアムは観光とも言い難いが、下手な観光地よりは余程、感慨や感激が有ること請け合いだ。時間がある人は、足を延ばして江田島の元海軍兵学校(自衛隊)を見学することをお勧めする。
久々に仲間2人と江田島・呉方面観光。金曜日15時から海上自衛隊・元海軍兵学校の見学、翌日はヤマトミュージアムを見た。一度は行ってみる価値が有るお勧めコース。10分の1スケールのヤマト、本物のゼロ戦、戦艦陸奥(だったか?)の砲筒なども飾られ、退役した潜水艦も隣接。
日露戦争当時は武士が健在で優れたリーダーシップを発揮、兵士も勇猛果敢であった。その上、イギリスで外債を引き受けて貰うなどにより、辛うじてと言うか奇跡的な勝利を収めた。1000万ポンドの外債引き受け手が無ければ勝てなかった。その返済は1986年(昭和61年)の完済だったらしい。
日露戦争勝利が、更なる軍拡に向かうきっかけになり太平洋を挟んでアメリカと覇権を争うことになる。アメリカとの戦争はやむを得ない面も有ったとは思うが、無謀で、その始まりの真珠湾攻撃は、現在も、あるいは未来にわたる日米関係に非常に大きな禍根を残した。
当時アメリカでは国民の間に厭戦気分が強く、軍事産業をバックにした政治家は日本との戦争のきっかけを待っていた。全プランの中で、日本から戦争を仕掛けてくるのがベストだった。当時、日本軍は鹿児島湾を真珠湾に見立てて、日々、空爆の訓練を続けていた。
アメリカが日本軍の暗号を解読していたかと聞かれれば、当然解読していただろう。(イギリスが解読していたことが明らかになっている)その上で、願ったりの日本軍の情報を得た。そして痛恨の日本の過ちは、真珠湾攻撃の後に宣戦布告したことだ。国内では、宣戦布告文章が長すぎ解読に時間がかかっただの、大使館でパーティーが有っただの、諸説有るが、所詮身内の言い訳。
むしろ、私は宣戦布告が真珠湾攻撃後に出されるよう最初から計画したと思う。本来、ベストは1日前、最悪でも1時間前には宣戦布告しなければならなかった。もし、攻撃の1日前に宣戦布告すれば、アメリカは待ち構えていて、華々しい戦果は望めなかった。しかし、そうであれば、負けてもアメリカの日本に対する信頼は高かっただろう。勢いに乗って戦線拡大することも無かった。
アメリカは願ったりかなったりの日本のだまし討ちで、大がかりなプロパガンダを展開し、戦争へ駆り立てた。原爆を落とす理由にもなった。アメリカ軍事派の望む以上の、最高のきっかけを与えた。日本は一度走り出すと、官僚の常で止まらない。これで300万人の命が失われ日本は焦土と化した。
明治には健在だった武士道が、全く失われていた。山本五十六が英雄?とんでもない。日本はこれからも、重い十字架を背負わされるのだ。アメリカが世界を動かす構図は、旧英連邦、およびヨーロッパのバックアップで崩れない。
ニクソンが中国に飛んだ時、その対談内容の40%は日本だった。米中が、悪い日本をどう叩き、金を搾り上げ、繁栄を築くかは重要なテーマだったと推測する。アメリカは中国に、日米同盟で日本を軍事的に抑え込むと約束している。
私の感覚では、2011年秋までアメリカにとって日本より中国の方が信頼に足り、好感のもてる対象だったのだ。アメリカ人の多くは中国人が好きと公言していた。中国のミサイル24基が日本の主要都市などに向けられているが、表向き、アメリカはターゲットにはなっていなかった。米中が協力し、いかに日本の財産、製造力をそぎ、むしり取るかは特にビル・クリントン大統領時代の隠れた大きなテーマだっただろう。
現在も世界中のスパイや情報収集の専門家が日本に来て、堂々と簡単に情報を入手し、あるいはノウハウを盗む。中国スパイがアメリカの情報を盗むのも有れば、日本政府やトップ企業の高度機密情報も大量流出している。企業で最も成功した例はサムソン電子だろうね。
おそらく、政府首脳や政府内の情報は、当の民主党の議員より、アメリカや中国の諜報機関の方が詳しい。これまでも述べてきたが、アメリカ政府は官僚を動かせる。日本にはスパイ防止法が無い。これからどうなるか?アメリカと中国との関係は多少変わってくるが、日本のスパイ天国は永遠である。
江田島や呉で、資源の無い、科学技術の遅れた日本がいかに苦労し、軍事技術を培ってきたかが分かった。しかし、日本からの巨額のODAや日本製造業の中国移転などで世界第2位となった中国は、経済成長以上の猛スピードでアメリカを脅かすほどの軍事力を持とうとしている。アメリカの世界戦略は大きく狂い、失敗を重ね、錯誤の世界が拡大する。
脱線するが、中国のアメリカを翻弄し、たらしこむテクニックは凄い。日本がアメリカと戦う羽目になった裏にも、ソビエトと対峙していた中国が不利な形勢を挽回するためのアメリカ引き入れにも、中国のソフトパワーが効いている。日本のモノづくりのハード技術は優れているがこれは易々と、とられてしまう。片や、中国の寝技はアメリカをしのぐ軍事大国実現に至るかもしれない。
江田島記念館の多数の特攻隊員の名前が記された大きな布、ミュージアムでの人間魚雷などを見るにつけて、日本軍の人命を大量投入・消耗させ、それを当然のこととして戦う姿勢は人間社会の出来事とは思えない。叔父は特攻隊員だったが、終戦が一日早くて助かった。神風特攻は貴重な命、鍛え抜かれた技量、飛行機を失う。明日なき消耗戦だ。
これに対して、アメリカはスキップボンビングという方法を編み出した。例えば戦艦の遠くから、高度を下げ横腹に向けて進み、爆弾を離脱させて飛び去る。爆弾は海上をスキップしながら戦艦の横腹に当たり爆発する。この方法だと、パイロットも、飛行機も失わない。人命尊重の考えが生み出した。末期には特攻隊は近づく事も出来ず散った。
ゼロ戦などの操縦席背板には鉄板が入っていない(軽量化)ので、これを知ったアメリカ軍は背後から機銃掃射し容易に撃ち落としたと言う。グラマンなどは厚い鉄板が背板に有ったらしい。人を、命を、大切にすることがいかに大事か教えてくれる。
終戦に近いころ、日本軍本部は、フィリッピンなどの残存兵(殆ど全滅状態で、武器弾薬も無かった)に対して、早く突撃せよと指令を出したらしい。要は死んで来いと言う命令。何のために死ぬのかわからない。NHKで当時の兵士が証言していた。命令していたやつらは恥も外聞もなく生き残った。
東京裁判の戦犯は勝算のない戦争を開始し、人命の消耗を前提とした戦線を拡大した。敗戦確実な情勢でも、事実や過ちを認めず日本人総玉砕に導きながら、捕虜となっても自ら腹を切ることもできなかった。戦陣訓には「生きて虜囚の辱めを受けず」と記されている。
彼らは現地にはいかず、ぬくぬくと権限と安全を確保した状況で、残存兵に突っ込め、突っ込んで死ねと命令を出していた。私の父もフィリピンの山の中を重傷の身で、傷に食いつくうじ虫を払いつつ這って逃げ回った。ドブには頭から突っ込み、蛇でもカエルでも掴んで口に入れた。生存者は100人中1人ぐらいだったらしい。
いつか日本人自身で先の大戦の裁判なり、総括する必要があるが、戦犯となった責任者が全員割腹していたら、日本はもっとましな国になっただろう。
追記:特攻(飛行機でアメリカの艦船などに体当たり)で亡くなられた方は、17歳から22歳で、海軍が2,431人、陸軍が1,317人の合計3,848人らしい。我々はこれらの方々の魂を十分受け止めて、日本の発展に貢献できているだろうか?
架空の話だが、もし特攻で亡くなれた方々10名が元気で、終戦後復活されたとしたら、のうのうと責任も取らずに生きていた軍隊の幹部は切り殺されただろう。何しろ死線を越えた復員兵は怖いものなしで強いし、やくざも全く歯が立たなかったとの記事を読んだことが有る。