宇宙・生命・日本 1000年後のあなたに語りかけたい

巨大ブラックホールの衝突が新宇宙を形成⇒循環宇宙論、有機物質から人間への進化メカニズム(循環論理の評価)⇒戦略的進化論

アジアカップ優勝を決めた李忠成のボレーシュート

2011年01月30日 10時56分14秒 | スポーツ

 オーストラリアとの決勝戦は、予想に反して圧倒的に不利な戦況が続いていた。何度も日本の守備が振り切られ、オーストラリア選手とゴールとの間に川島しかいない場面が3度は有っ。誰もが1点もぎ取られることを予感した。しかし、その度、川島は奇跡的なセーブでしのいだ。準々決勝の韓国戦PKと言い、川島の神がかり的なセーブが日本の窮地を救ってきたことは紛れのない事実であろう。

 何で、川島がセーブできたか?PKを含めて何度も川島のプレーを見たが、彼は非常に落ち着いていた。身長の高さもあるだろうが、腰の据わったキーパーが立ちはだかっていると、一瞬、打ち所が思い浮かばない。大抵は、キーパーがドタバタ動いて、すきを作り容易にシュートコースを与えてしまう。川島は自分からは動きを見せない万全の構えで待つ技術と精神を身に着けたのだ。

 延長戦に入る前の休憩は、よくぞ、点数を取られずにここまで来れたなと言う感じ。オーストラリアは海外で活躍する選手が多く背の高さもあるのだろうが、日本は随所で圧倒されていた。多分相当固くもなっていた。韓国戦では容易に繋がったパスが、こぼれては相手に取られ、前線へ長いパスを送られ、ゴールを脅かされた。日本が初めてのシュートを打つまでは完全になめられているような陣形と動きを見せていた。

 日本にとって致命的だったのはやはり香川の欠場ではなかったか。決勝に向けて次第に調子を上げてきていた香川がもし、出場できていれば、本田、長友、との組み合わせで、もう少し楽な展開により、点も取れていたようにも思える。オーストラリアは当然香川を徹底的にマークせざるを得ない。香川が出られないのなら、李だと思っていたが、身長のこともあり、先発ではためらわれたようだ。

 前田に代わって延長戦で出た李忠成は、ピッチで「俺がヒーローになるんだ」とモチベーションを維持していたらしい。延長戦後半4分、永友の左からの弓なりのセンタリングに、李忠成の左足のボレーシュートが相手ゴールに突き刺さった。

 素人から見ても、このシュートの凄さが分かる。李はマークしていた相手にゴールへ走るそぶりを見せ、マーク選手がゴール側に走り、空いたスペースで体を左後ろに開きながら、やや上からたたくようにコントロールして左足を振りぬいた。ドンピシャのタイミングと足のコントロール。難しい左足でのボレー、神業としか言いようがない。

 このシュートがオーストラリア選手に与えたショックは大きかった。延長戦で順当にプレーしていればまず勝てるだろうとの思いを、この強烈なシュートが打ち砕いた。李忠成のシュート場面はおそらくテレビで、今後1000回以上放映されるだろうが、日本のサッカーファンにも大いなる勇気と希望を与えた。彼が活躍する広島ビッグアーチは我が家からわずかな距離なので、身近に感じた彼の活躍ではあった。

 ザッケローニ監督の采配も良かった。イタリア人?との思いは吹っ飛んだ。彼はまじめで、日本や日本選手を真面目に理解しようと努め、よく理解し観察していた結果がサイ派に現れた。だから、選手交代がプラスになり、勝利を導いた。当初の選択選手に固執せず、幅広く起用して試し、こだわりのない陣形などでチームの力を引き出した。更なる高いステージでプレーできるよう監督の指導を期待しよう。

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マイホームの建設!1.きっかけなど

2011年01月25日 14時10分19秒 | 思考空間

 サラリーマン時代、勤務地が故郷でもない地方の電力会社であった事、社宅に入っていたことから、自宅を建てようとの思いは殆どなかった。ただし、建設費を積み立ててはいた。自宅を建てる気になったのは、故郷の広島に戻る決意をしたことと、父が亡くなり、母の面倒を見る必要ができたためだ。資金の面でも、2世帯住宅とすることで助かる。早期優遇退職制度で、早めの退職金を受け取っていたのも恵まれていた。

 そんなおかげで、自宅建設は現金支払いで計画できたのは、幸運だった。建設業者によると現金で支払う人は殆ど無いとのこと。ローンであれば、現役でなくてはとても難しい。知人の元医者は、医者を辞めた直後にローンを申し入れ、借りることができたらしい。1年以内であれば、現役時代の信用が使える。参考の話として、私のスタッフだった人がマンションでローンを借りていたが、日立ファイナンスを紹介したら借り換えで支払いが安くなって喜んでいた。

 親と同居して面倒を見るかどうかは、いろいろ考えがあると思う。私の場合はスーパージェネレーション(団塊世代)で当然のことと受け止めているが、子供には期待していない。弟が面倒を見る場合は、老人ホームなどに入れるつもりだったようだ。

 弟の家が両親の家の近くにあった関係上、それまで弟が世話を焼く機会が多かったものの、同居のつもりはなかったようだ。母は強い性格で、弟家族は嫌がっていた。実は、弟が老人ホームに入れる意思を明確にしたので、それも同居を決意した大きな要素になった。父が亡くなった後、母はストレスからか記憶が弱くなっていた。老人ホームでも入れば、ますます悪化するように思えた。

 次に場所選びであるが、本当は父が広島市内に古い自宅を持っていたのが、40年ぐらい貸していた会社の元女性課長が居座り、立ち退かないので、売ることを余儀なくされた。古い法律では借り手が有利で、先方は弁護士を立て裁判所の調停に持ち込んできたので、手を打ち、路線価格で売ることになった。自宅を持っている状態で売ったためがっぽり税金を取られたと母は怒っていた。その時はまだ母はしっかりしていた。

 次は土地探しだった。広島市は土地代が高いだろうと、東広島市の候補地を探すことになった。インターネットで不動産業者を探し、出かけては、候補地を見学するというプロセスを繰り返した。

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中国バブルは危険水域

2011年01月24日 10時04分14秒 | 思考空間

 ジェームズ・バーンズの資料を探していて、当時、アメリカの首脳は日本を世界の工場とする構想を持っていたことが分かった。ジェームズ・バーンズは先の第二次世界大戦末期において、日本に何としても原爆を投下したいがために、日本の降伏を遅らせようとポツダム宣言の案から、「現在の天皇を存続させる」というという項目を削除していた。(NHKでも放送)

 私は、小学校の頃から日本ウオッチャーだった。ちょっと珍しい小学生だったかもしれない。当時、雑貨、オートバイ、輸送船などがものすごい勢いで輸出されるようになり、日本は不死鳥のように蘇りつつあった。これは何が原因かと言うのが少年の私の興味の的だった。新聞などでは「日本人の勤勉さや優秀さ」をあげていた。それだけでは、納得できる回答ではなかった。そうかといって積極的に研究したわけではなかったが、興味だけは持ち続けた。

 学生になってからもハーマンカーンの著書など日本に関する本は片っ端から読んだ。それでも分からない。結局、50歳ぐらいになって、より多くの情報が入手できるようなり、また日本の社会構造が自分なりに見えるようになって、何となく分かってきた。キーワードは、統制管理社会、キャッチコピー、アメリカの支援である。今回の情報は、更に、日本が完全にアメリカの掌で動いていたことを証明するものだった。

 このブログでもさんざん、書いてきたが、世界の工場を日本から中国へシフトさせたのはクリントン政権だった。昨日の石原知事の発言によるとクリントン大統領は中国から莫大な資金を受け取っていたらしい。言ってみれば、アメリカの将来を売ってしまうような行為が現在の状況を招いた。つまり、中国は、自国を支配した日本を支配し、原子力空母などで脅したアメリカを軍事力で圧倒し、脅すという、やられたことをやり返す100年単位の復讐計画を実行しようとしているのだ。

 そのため、がむしゃらに経済成長を急いだ。アメリカも中国を利用して稼いだ。元々、中国陸軍はベトナム戦争でアメリカを打ち破るほど強かったが、強い軍事力と賄賂で経済成長を図り、経済力で軍事力を増強するという駆け足成長してきたのだ。13億の民を食べさすためなどと、日本のインテリが分かったように言っているが、とんでもない。中国の野望は世界制覇ですよ。那覇地検を訴えた訴状にも書いたが、裁判官に理解できたかどうか。

 しかし、その中国も流石に怪しくなってきている。マンションなどの価格が平均年収の100倍になっている状況は恐ろしい。日本など自由主義国家ならとっくの昔に破たんしているのが、強力な軍事力と統制で押さえつけている。中国人に聞いたところ、暴動は中国各地で勃発しているが、軍隊が出動して、一晩で鎮圧してしまうという。中国がどこまで怪しく危険な綱渡りを続けるのか、歴史的な見ものである。

  注目しなければならないのは、いつまでアメリカが中国の共産党独裁と、暴走を許容するか。中国はある意味ではガラスのシステムを積み上げている。例えば、自由選挙を実施すれば、一挙に共産体制は崩れる。同じことは、インターネットを自由にしたことでも起き得る。今回のチュニジアの崩壊を見て、中国首脳は恐れをなしたことであろう。今、アメリカは中国の助けが必要であるが、一つの節目は、アメリカ経済の立ち直り 、および大統領の交代である。

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一色正春氏の住所を知りたい

2011年01月21日 17時32分42秒 | 思考空間

 読売テレビで一色元保安官の取材が報道された。中国人船長と共に、不起訴処分だったかな。彼も私同様の正義感の強いバカで、さぞかし家族も苦労していると思うが、一度会って、励ましたい。誰か住所をご存じなら連絡を欲しい。

 彼が動画を流さなければ、闇から闇で、中国は言いたい放題。仙谷は中国の要求通りに、封じ込めを図って日本国民は著しく名誉を既存して終わった。

 私はこれは許せんと思ったから、訴状を書いて広島地裁に出したが、門前払いを食った。那覇地検が動画を即座に報道していれば、一瞬にして世界中を味方にできた。そこらは全て訴状に書いた。

 私は裁判長に手紙を書いて、一体、裁判所は先の大戦(軍部の暴走:私は戦争を完全否定するものではない)、バブル時の暴走を何故止められなかったのかを含めて指摘した。

 間違いなく、一色正春は英雄ですよ。辞職を覚悟であそこまでやったのだから。誰にもできない。銅像を建てても良いぐらいの行為だ。兎に角、情報開示は、世界をまともな方向に導く重要な条件だ。

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最高に輝かしい60年代ポピュラーミュージック

2011年01月18日 11時30分04秒 | 思考空間

 愛車ランクルにカロッツエリアの最新ナビを入れたら、HDDプレイヤーが付いていたので、毎週レンタルショップへ行っては新しいアルバムを録音するようにしている。10年を超え、20万kmになろうとするディーゼルランクル100も新車の時に比べれば僅かにノイズが大きくなったかと思えるのだが、ナビは目的案内だけでなく、素敵な音楽空間(ノイズを消去)を与えてくれた。

 マドンナ、グエン・ステファニー、マライヤ・キャリーなど女性系が音楽としても美しいので耳触りが良い。マドンナはいつも何かに挑戦しており、期待感が大きいし、仕上がりも良い。グエン・ステファニーは何と言ってもスウィートエスケープ。楽しく飽きさせない。マライアキャリーは並外れた高音の響きを混ぜて聴かせる。ロック系は好きだが、中には、ただうるさいだけのものもあり、男系は当たりはずれがある。総じて最近の音楽は計算されており、複雑で完成度が高い。

  それに比べて、ポピュラーミュージッと言われた60年代の音楽は素朴で、荒削りだったかもしれないが、リアルで、特徴が明確。何か訴えるものがあり、兎に角、世界各地から雑草のように次々登場し、輝いていた。

私が最初に、関心を持つようになったのは、「愛しのラナ」。いきなり低音のトゥルットゥルというリズミカル口ずさみから始まる。元々は「ラナ」という、かなり流行った曲を焼き直したものらしいが、中学生3年だった私には、驚きと新鮮な感覚を与えた。久々に広島に帰り、高校入学と共に、ビートルズの「抱きしめたい」が待っていた。

 ビートルズはツイストアンドシャウトなど立て続けに発表し、いずれもヒットチャートトップに躍り出た。何しろ、1,2位をビートルズが占めている間に、50位とか100位とかにビートルズの次の曲が入り、それがだんだん上がってまたトップになるという具合だった。印象深いのは、ミッシェル、ミスターポーストマン、ヘルプ、イエローサブマリン、ヘイジュード、レットイットビーなどなど。私は、マイナーなところでロールオーバー・ベートーベンが好きだ。

 ビートルズも良かったが、男子高校生は何と言ってもヴェンチャーズにしびれた。パイプライン、ダイヤモンドヘッド、10番街の殺人、キャラバン、ウオークドントラン、京都の恋。特に、テケテケテケと弦を切れ良く弾くサウンドは当時の流行になった。今でも、ヴェンチャーズは毎年、この広島にもやってくる。

 早くから音楽に染まっていた音楽ファンはプレスリーの信者だったりした。プレスリーの場合は、ビジュアルな楽しみ方が大きな要素でもあり、ラジオだけで聴く私にはちょっと世界が異なっていた。ハートブレイクホテルなどが代表的。ゴールドディスクだけでみると当時、プレスリーのほうがビートルズを上回っていた。

 ヒットチャートの常連として、ビートルズの対抗馬は、ビーチボーイズ、モンキーズ(少し後)だった。ビーチボーイズはちょっと大人の感じで、裏声に特徴があり、サーフィンUSA,グッドバイブレーション、リトルホンダなどが印象的。モンキーズはより若い世代だったが、テレビを中心にモンキーズのテーマなどを歌った。その他に、例えばカーペンターズの枯れた歌声はしゃれて心地よい響きだった。スプートニクスはクリアエレキサウンドで人気があった。

 当時はラジオで複数の発表番組があり、結構、何位に入ったというのが話題になった。私は、夕方の東芝だったかの前田武彦と木元教子(のりこ)の番組を聞いていた。前田武彦が軽妙な語りで、当時若かった木元教子をからかったりしながら曲を紹介する。60年代に世界中からきらめく星屑が降り注ぐように様々な方向の音楽が出現した。

 ボーカルではコニーフランシスのような若芽でさわやかなのもあれば、シュプリームスのような洗練された輝き系、アートブレーキーのようなだみ声系など。ブラザースフォアは美しいハーモニーで大人の雰囲気。七つの水仙、北京の55日など。ナッキングコールのモナリサはこの頃の女性でもうっとりするだろう。フランクシナトラも活躍していた。

 和製ポップスはあまり聞かなかったが、坂本九の「上を向いて歩こう」はすき焼きソングとして世界的に流行ったし、堺まさあきの夕日が泣いているも印象深い。

 私の好きだった曲は、先に出た愛しのラナ(ヴェルベッツ)から、ミスターロンリー(レターメン?)、愛なき世界(サンデイ&ゴードン)、ジャワの夜はふけて(アル・ハート)、ブロークンハート(コニーフランシス)、シュガータウン(ナンシー・シナトラ)、ミスターポストマン、ロールオーバーベートーベン(以上ベートーベン)、10番街の殺人、パイプライン(以上ヴェンチャーズ)、一人ぼっちのシンフォニー(シュプリームス)、ゴールドフィンガー(シャーリーバッシー)あたりかな。60年代は夢があり若者の音楽が最高に輝いていた時代だった。

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広島も凄い雪だった

2011年01月17日 10時41分02秒 | 思考空間

 故郷の広島市に戻ったのが平成18年の5月。旭町の家は売らざるを得なくて、安佐南区の「こころ」という変な名前の住宅+産業団地に居を構えた。標高が多分200m以上と高いせいで、中心部より1℃以上気温が低い。小学校の記憶では100mで0.6℃低下だったかな?サラリーマン時代、夜店で買ってきたレモンの木を移植したら、寒すぎて、最初の年だけレモンが一つなり、後は成長が止まってしまった。

 伸びかけたわずかな芽は芋虫に食われ、昨年の猛暑でレモンは弱った。今回の積雪などで葉が黄色くなり踏んだり蹴ったり。常緑樹と言うのに、落葉する。レモンは国産のかんきつ類に比べると、成長が速く元気でそれが好きなのだが、大変申し訳ない。

 こころも小学校に加えて銀行が2行、コンビニが2店舗、大型リハビリセンターができ、病院ができ、スタンドが3店舗、ついに大型?ショッピングセンターが出来で、ちょっとした町になった。小学校は人口増に間に合わずプレハブ増設中。新たな開発地域も整備が進んでおり、原っぱが高級住宅街に変貌する様子は、驚きである。そんな町もこの寒波ですっかり雪に覆われてしまった。ここ4年で最も凍えた。

 夜、毎日のこととて、買い物に行くことにした。積雪深さは10~15cm。普通の靴で、雪にまみれながらランクルまで何とか到達。エンジンはかかったが、窓は見えないし、ワイパーが動かない。棒でフロントガラスの雪を払いのけ、凍ったワイパーを無理やり引きはがし、空調をワイパー加熱に切り替え、ワイパー全速で待つこと5分。何とかフロントガラスだけは見えるようになった。

 何しろスタッドレスを履いていないので、駐車場からバックでゆっくりゆっくり道路に出て、のろのろ前進。道路の境が見えない。思い切りブレーキをかけてみる。柔らかい雪なので、意外に滑らない。殆ど車はいないので、安心して走れるが、坂が怖い。四駆とは言っても、滑り出したら通常の車と変わらない。1台すれ違ったが、相手は止まって待っている。何と後ろから車のライト。せいぜいスピードを出して、20km/hを超えたら高速だ。

 《ま、この辺の雪事情は北海道に比べたら些細なことかもしれない。北海道には仕事で何度か行ったことがあるが、大型の装置を搬入する時期を4月でどうですかと聞いたところ、6月と言われた。何故か?6月なら雪が無いから。冬、札幌に行くと、キオスで靴につけるタコの吸盤を売っている。これをつけないとまるで歩けない。現地の人は高速を100km/hぐらいで飛ばしているがとても、ついてゆけない。車で高速から市内に入ろうとすると、道路の両方の際に3mを超えるような雪を切り取った壁があり、狭まった道路を圧迫を受けながら走る。電話ボックスは見えるが完全に雪の壁の中。ちょっと異次元の世界》

 帰宅後も、雪はやまない。家内の里の長野に来たのではないかと思うほど。それでも、長野の雪はこんなものではないらしい。いつもは存在感のある近くの山は白い降雪の景色の中で姿を消した。本日は、道路が凍って社員が一人も来ない。おかげで電話番。こんな日もあるかという、かつてない寒波でした。

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何故、早稲田は帝京に負けたのか(大学ラグビー)

2011年01月10日 09時34分50秒 | スポーツ

 今年の大学ラグビーは久々に早稲田が勝つかと期待してNHK中継を見た。準決勝の明治戦で圧勝したのがちょっと気がかりだった。いざ始まってみると、予想以上に帝京は早稲田を圧倒していた。帝京は強いし、うまいし、したたかで、早稲田には明治戦で見せた勢いはなかった。17対12で負けたの意外と思える完敗だった。

 帝京は70%近く球を支配し、スクラムで早稲田を圧倒する。ラインでもたびたび相手の球をとってしまう。特に、二人の外人はルール違反ではないかと思えるような、子供と大人の戦いのような場面を終始展開していた。タックルしても倒れない。やっとの思いで数人で倒しても、倒れながら前進してしまう。

 ところが、早稲田をぎりぎりのライン近くに張り付かせながら、ほんの数センチのところでトライを阻まれていた。逆に、早稲田は2トライをあげ、トライ数で負けている。全体を振り返って、何が試合を分けたか?帝京のこの試合にかけた思いが早稲田より強かったことは間違いないのだが、一つはルールの「あや」ではないかと思う。

 早稲田は開始間もなく、帝京に自陣のライン近くまで攻め込まれ、ラックになった後の球出しの時に、一度出すふりをして、戻すという誘い出しが新ルールで反則となった。早稲田はうかつなミスだった。ライン近くで球を得た帝京は速攻を展開。そこで、早稲田側は守備が乱れ、やすやすとトライを許してしまう。

 残りの帝京の得点は全て、反則に伴うキック(ペナルティーゴール)で取ったものだ。帝京はともかく、何でも点を取って勝とうというがむしゃらさを見せた。終了が近づくと、帝京は遅延行為に出る。帝京に反則があり、球を渡すべきところで、時間をかけてしまう。一度は、あまりに遅いので審判が10mルールで、10m下がらせ、その直後、早稲田が2回目のトライに成功するのだが、時間が迫った最後のラックでも帝京は球出しをせず、時間が来るのを待った。

 私の見るところ、早稲田がフェイントで反則し、動揺と乱れでトライされたのが大きかった。帝京はルールがあいまいな部分で巧みに遅延行為を行い、早稲田の反撃を抑制している。誰の目から見ても帝京のほうが強かったことには間違いないが、反則後のトライが無かった場合、帝京が果たして勝てたか?この辺のルールのあやが大きく勝敗に影響した。

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新しいエレガントな進化論

2011年01月10日 07時11分50秒 | 生命

 進化論と言えばダーウィンの自然選択説(淘汰説)が思い出される。優れた種が勝ち残り選択されるというもの。あるいは突然変異説、中立説、共生説(リー・マギュラス)、ウィルス説など諸説ある。どれも、事実であろうとは思う。しかし、従来説では理解できない多くの疑問が残る。

 進化は高度化、複雑化を伴う。自然現象は通常、単純化する方向は有っても、高度化、複雑化は起こりえない。言わば海水が上流にさかのぼるような現象である。何故か?

 花と昆虫の関係を見ると、相互が協力関係しながら共に戦略的に進化している。まるで、誰かが考えて工夫してきたような進化の形跡が見られた。これをどう説明するのか?また、何故進化は後退のない進化方向のみの進化なのか?進化の速度はなぜ異常に早いのか?何故、物質から生命が誕生したのか?

 これらをエレガントに説明するのが私の提案している循環論理の評価システム。ちょっと硬いかな。有機物質に評価システムが形成され、生命に進化し、更に多細胞になり、やがて人類に進化したとする仮説。平成15年に1回目、平成18年に2回目、そして、今年、3回目を電気学会に発表する。

 1回目は思いつきのレベル。この時、座長から「もし、この評価システムが存在したとして誰が評価するのか?」という疑問が出され、返答できなかったので、2回目では、誰かは特定できないが、損傷の例を挙げて確かに評価が行われていることを証明した。

 生き物がけがした時に、体の中の誰かが検知し、遺伝子と比べながら修復し、その修復具合を評価している。確かに、誰かが評価し、処置しているのだ。決して遺伝子(設計図)があるから、機械的に複写されてけがが治るわけではない。

 今回の発表は、更に核心に踏み込んだもので、詳細は言えないが、従来の新仮説の7つの基本的な問題点を指摘した上で、実証可能な3つの新たな仮説を含む、5つの仮説を書いている。実証可能な仮説であるから、日進月歩で発達する科学のプロセスでいつかは証明される。

 有機物質から生命体が生まれ、有りえないような高速度で人間まで進化させてきた仕掛け・駆動力をエレガントに説明している。多分、いつか私の仮説の正しさが証明されるだろう。

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早稲田の箱根駅伝総合優勝おめでとう

2011年01月03日 21時14分57秒 | スポーツ

 今年の箱根駅伝は昨年に引き継ぎ、またも東洋大学の完全優勝かと思われた。5区を終えて、27秒のリードは東洋には十分すぎる余裕だった。何しろ前日、怪物柏原はまたしても3分のビハインドをひっくり返して往路優勝、片や早稲田は主力選手が故障で、勢いは完全に東洋大学にあった。この予想をひっくり返した最大の功労者は早稲田6区の高野だった。

 佐久長聖出身の高野は期待されて早稲田に入りながら、鳴かず飛ばずで、最後の最後に箱根駅伝に起用された。諦めずに努力してきたことが、多分主力選手の故障で出番が回ってきた。しかし、4年生になって初めてデビューした彼の頑張りはものすごかった。東洋大学としては早稲田に大きな差をつけて優勝に勢いをつけるはずだったが、逆にひっくり36秒差で返されてしまった。

 高野は10回程度抜きつ抜かれつの中、坂道の中央で氷を踏んでひっくり返ってしまった。しかし、瞬間に立ち上がり、先行く東洋の選手を抜く。影響が出るのでははないかとの視聴者の心配をよそに、頑張り続け、何と平地に降りては、リードし始めた。バトン地点の数百メーター手前で、アナウンサーが、高野が何か言ったみたいですと言うと、瀬古俊彦が「おらー」と叫んだようですと言った。やったーぞーと叫びたかったのであろう。

 涙の出るような話だが、高野の頑張りが薄日のような早稲田の優勝をもたらしたと言える。復路で早稲田が勝ったと言えるのは6区と7区だけ。残りは悉く東洋が区間賞を取りながら、猛追したのだった。最終的に21秒差まで追い詰めたが、負け犬だった早稲田の選手も必死の思いで耐えてリードを許さなかったのだ。渡辺監督も今年のレース運びは昨年までと異なり、相当考えたようにも思えた。

 これまでの早稲田のレースは、とてもネームバリューほどの戦略で展開されたものではなかった。タスキを引き継いだ後、懸命に後続を引き離すが、最後に追いつかれ、逆転という場面が多かった。今年は違った。渡辺監督が走り出した選手に、「力を抜いて」などと言う。当たり前のことだが、最初にスピードを出しすぎると後半、ぱったり足が止まってしまう。渡辺監督も練習中、一緒に走ったと言うことで、やっと地に足がついた指導ができるようになったか。

 ともかくも、18年ぶりの?早稲田の総合優勝!!おめでとうございます。

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