生物の専門家でない人でも、人間が単細胞生命体から進化したことはご存じだと思う。ところが、何故、物質から単細胞の生命体が誕生し、遙かな時間を経て人間に進化したかは、科学が高度に発達した現代でも多くが謎である。宇宙物理学者によれば、宇宙には生命体を形成するに十分な物質が存在し、非常にまれな偶然が重なった結果、最初の生命が誕生したとしている。生命誕生の必然性を主張している。
確かに宇宙にはアンモニアなど大量の有機物質の存在が確認されているから、偶然と偶然が重なれば生命が誕生するようにも思える。ところが、有機物質と生命体との間には埋め難い大きな距離がある。例えば、非常に複雑な機械を想像して欲しい。残り1%で完成という高度で複雑な機械が偶然出来たとしよう。そのこと自体が奇跡であるが、この機械に様々なパーツを無作為に提供し、様々なショックを与え続けたら、完成するどころか壊れるチャンスのほうがはるかに高い。長きにわたって世界の研究室で、生命の研究が継続されているが、生命体に近い物質は合成できても、動かないし機能しない。いまだに生命体を創造するには至っていない。
最新の進化説は、大雑把に言えば、遺伝子が何らかの影響で書き換えられることにより新たな生命体が生まれ、競争原理が働くなかで優位な種が勝ち残るというもの。ところが、この説では進化が高度化という一方向を目指したこと、獲得形質(経験し影響を受けたことなど)が遺伝されていること、生物進化全般に感じられる戦略性の説明にならない。
遺伝子に放射線が当たり、あるいは環境の影響などにより変化があるとすれば、遺伝子は非常に複雑で高度な構造なので、さらに複雑な方向へ移行するよりは、むしろ破損したり、レベルの低い構造に移行すると考えるのが妥当であろう。
私は電気学会で2回にわたって、物質に循環論理の評価システムが形成され、物質から生命体を生み、単細胞から人間までの進化への駆動力になったとする仮説を発表した。ちょっと場違いではないかと指摘する人もいた。ただ、電気学会(年会費を払っている)は発表し易かったし、発表すれば私のアイデアが公の記録に残ると考えてのことだった。
有機物質が生命体になるのは、例えは適切ではないかもしれないが、石ころなどを規則正しく繋いで1000kmの長さにするようなもので、何もなくてそのような現象が起こるはずが無い。天変地異であれ何が起ころうが、物質には目的や方向性はない。
私は、物質から最初の生命体までの進化、最初の生命体から人間までの進化を導き駆動力となった共通の「しかけ」が存在すると考えた。先の例で、物質のつなぎ方並べ方を評価し、評価を実行するシステムが存在したとすれば、非常に難しい話が単純になる。そこで、有機物質に循環論理の評価システムという、自己の存続を評価し、自己の存続する条件を採用、それ以外を不採用とするシステムが形成されたとするのが私の仮説である。評価システムが有機物質に形成され、自己を保存する新たな組み合わせを採用し続けると変化は高度化を目指し、やがて生命に至り、さらに進化が継続することが推定できる。
循環論理とは聞きなれない言葉で、ほとんどの人が御存じないと思う。私が勝手につけた名称である。このように説明すれば多少分かってもらえるかもしれない。私たちの生活は朝起き、食事し、歯を磨き、働き(あるいは勉強し)、睡眠するというサイクルを繰り返している。つまり元の状態に戻ってくる。これを循環と呼ぶ。また、我々の血液は、心臓から体の各部に送り出され、戻ってくる。一方で、新しい血が生まれ、古い血は再生される。これらも循環(ループ)である。生命体の体には様々な循環がある。(多重ループ)もしも、物事を論理的(論理とはあいまいさを無くした客観的な表現としておきましょう)に投射出来る平面(スクリーンのようなもの:論理平面と呼ぶ)があるとしたら、その論理平面では生命体の体に様々な多数の循環が見られることになる。
2回目の発表に私は細胞の修復を取り上げた。細胞が破損した場合に、何かが破損の状況を検知し、元の設計図(遺伝子)と比較しながら修復しなければならない。そこに必ず、比較や判断という評価機能が存在する。何かがこのように修繕しなさい、あるいは、完全には修復できないがこれでも良いかと比較評価しているのである。電気学会の発表ではパソコンのCPUを中心に置き、周辺にデーター変換装置やセンサーなどを繋いだ図で説明した。修復を取り上げたのは第1回目の発表の時、座長が、循環論理の評価システムが存在するとして、何が評価システムを使って判断するのかと質問し、答えられなかったからその回答である。すなわち、細胞などの修復では、知能のように比較評価する機能が存在することを示したのだ。
原始の地球は今以上に厳しい環境であった。破壊的な環境下で、生命体に評価システムが存在しなければ、修復もできず生命体が一瞬たりとも生きてはいけない。
昔読んだ、戦争と平和の中だったと思うが、肉体労働が3世代続いた子孫は、骨格ががっしりし、手や指が幅広いと発言するくだりがあった。あなたの周囲を見渡しても、農家の出身の人は骨太で指が太いはずだ。これは、獲得形質であり、3世代以上を経るうちに、肉体労働に適する体になったのだ。これは現在の進化理論では説明できない。
物質と生命体の間の距離については、子孫の誕生のことが指摘できる。最初に誕生した生命体はその瞬間から、エネルギーの素となる食物を摂取し、分解し、取り込み、排泄するだけではない。もっと重要なことは、細胞の中に子孫を生む機能・しかけを持っていなければならない。この、子孫を生む機能に関して、非常にハードルが高い。たくさんの生命体が誕生し、その中でたまたま、子孫を生む機能を持つ単体が表れたのではない。全ての生物はたった一つの細胞から進化したことが報告されている。
複数の大学の研究者とも議論した。循環論理という聞きなれない言葉ながら、誰もこれを否定できなかった。何故なら、現実に生命体は様々なループ(循環)で形成されており、多重ループとなっている。これらのループを論理的に記述すれば、循環論理になる。循環論理は欧米の伝統的な弁証法の考えとは異なるものである。弁証法は二つのサイドに立って、議論しながら真意を得るとする手法で、例えば裁判では検事と弁護士が被疑者の否定と肯定という立場で議論し、最後に裁判官が判断する。二つのサイドの議論が真実をあぶりだすと考えられている。ところが、裁判は必ずしも事実究明を保証するものではない。
循環論理では事象やテーマに関して、関係するすべての要素の関連性をチェックする。そして、全ての関連が事象やテーマに関してイエスの繋がりとなるなら正しく、どこかでその繋がりが切れるなら正しくないと判断する。全ての要素を繋ぐ関連がイエスであれば、必ずループを形成することになり、正確なチェックがなされていれば事実を保証しているのである。
私は自己保存を目的とした循環論理の評価システムが物質を生命体に進化させ、その後の人間に至る進化を誘導する仕掛けとなり駆動力となったと考えている。それでは具体的に、何がどのように作用し変化したのか?
これは今後の課題であるが、例えばある種のタンパク質はコピー機能(コピータンパク質と呼ぼう)があるとされており、コピーは論理的に見れば自己保存でもある。その上で、また別の種のタンパク質が、たんぱく質などの組み合わせを記録し、またその記録が元のタンパク質の組み合わせを復元できる(記録タンパク質と呼ぼう)とする。これらコピータンパク質と記録タンパク質の両方の機能を持ったタンパク質が出現すれば、生命体に至るタンパク質の素となったと考える事が出来る。
両方の機能を持ったタンパク質とは原始的な遺伝子とも言える。ここで、循環論理の評価システムは明らかにタンパク質の集合体側にある。従って、遺伝子だけの研究では生命体の実態は分らない。最も大きな謎は、何故遺伝子がタンパク質などの意集合体を記録できるようになったかだ。
生物の進化と発展の推進力が循環論理の評価システムンではないかと仮定し、考察を進めてゆくうちに、実は人間社会の発展についても同様のメカニズムが効力を発揮するのではないかと考えるようになった。循環論理の評価システムが意味することは、優れた評価システムとその結果を実行することが、人間社会を発展させることができるということである。話は異なるが、自己発展プログラムは長い間の課題であったが、循環論理評価システムの仕組みを応用すれば、自己発展プログラムの開発も夢ではない。