大相撲昭和13年夏場所は5月11日(木)が初日であった。
双葉山が百連勝に向けて驀進中の場所で、もちろんこの場所も
双葉山は13勝全勝で優勝した。
大相撲は当時年二場所で、春(1月)夏(5月)東京の旧
国技館で行われた。鉄傘円屋根、土俵の屋根は今のような
吊り下がり型ではなく固定式,四本柱もあって検査役も土俵の
うえに正座していた。
この場所初日の新記録というのは,取直し相撲が多く打ち出しが
なんと、夜の9時をまわった。当時の記録を調べてみると、
打ち出しは平均6時半ごろで、遅くてもせいぜい7時ごろで
あった。しかし、原因は取直し相撲が多かっただけではなく
原因は編成の誤りだったという説もある。
昭和7年の春秋園事件で大相撲に叛旗を翻し、関西相撲協会を
設立した力士が経営に行きつまり12年に解散、13年の本
場所から大相撲に復帰して来た。この増えた力士の数を番組
編成のさい勘定に入れなかったのだという。真相はわからないが
今では考えられない。ある意味ではのんびりした時代であった。
この場所の九日目"徐州、徐州へ人馬が進む”の徐州が陥落
している。古い話で恐縮です。
双葉山が百連勝に向けて驀進中の場所で、もちろんこの場所も
双葉山は13勝全勝で優勝した。
大相撲は当時年二場所で、春(1月)夏(5月)東京の旧
国技館で行われた。鉄傘円屋根、土俵の屋根は今のような
吊り下がり型ではなく固定式,四本柱もあって検査役も土俵の
うえに正座していた。
この場所初日の新記録というのは,取直し相撲が多く打ち出しが
なんと、夜の9時をまわった。当時の記録を調べてみると、
打ち出しは平均6時半ごろで、遅くてもせいぜい7時ごろで
あった。しかし、原因は取直し相撲が多かっただけではなく
原因は編成の誤りだったという説もある。
昭和7年の春秋園事件で大相撲に叛旗を翻し、関西相撲協会を
設立した力士が経営に行きつまり12年に解散、13年の本
場所から大相撲に復帰して来た。この増えた力士の数を番組
編成のさい勘定に入れなかったのだという。真相はわからないが
今では考えられない。ある意味ではのんびりした時代であった。
この場所の九日目"徐州、徐州へ人馬が進む”の徐州が陥落
している。古い話で恐縮です。