銃後の小国民世代にとって「爆弾三勇士」の名前は懐かしい。
僕自身、戦争ごっこで青竹を破壊筒にみたてて遊んだ記憶が
ある。「爆弾三勇士」は昭和9年上海事件のさい、攻めあぐんだ
廟行鎮の敵陣地に向かって、長さ4mの破壊筒を抱えた久留米
旅団の三兵士が爆死して鉄条網を破壊,味方を勝利に導いた
という戦争美談である。
「爆弾三勇士」の話は国定教科書にも紹介され、歌や映画にも
なった。昭和9年、江下,北川、作江三勇士を讃えた銅像が
東京・芝の古刹、青松寺前に建てられて、当時東京名所の
ひとつともなった。戦後60数年経過、「爆弾三勇士」を知る
世代も少数派となり「三勇士」も忘れられた。
いま「三勇士」の銅像は江下武二・一等兵だけとなり、青松寺
墓地奥深くの地に、お墓として大切に保存されている。他の
二人の一等兵の銅像は、戦後の"戦犯銅像"破壊運動の犠牲に
なって破壊され行方がわからない。かって万世橋駅前にあった
広瀬中佐の銅像と同じ運命をたどったわけだ。江下一等兵の
銅像は、その時代の証人だ。
僕自身、戦争ごっこで青竹を破壊筒にみたてて遊んだ記憶が
ある。「爆弾三勇士」は昭和9年上海事件のさい、攻めあぐんだ
廟行鎮の敵陣地に向かって、長さ4mの破壊筒を抱えた久留米
旅団の三兵士が爆死して鉄条網を破壊,味方を勝利に導いた
という戦争美談である。
「爆弾三勇士」の話は国定教科書にも紹介され、歌や映画にも
なった。昭和9年、江下,北川、作江三勇士を讃えた銅像が
東京・芝の古刹、青松寺前に建てられて、当時東京名所の
ひとつともなった。戦後60数年経過、「爆弾三勇士」を知る
世代も少数派となり「三勇士」も忘れられた。
いま「三勇士」の銅像は江下武二・一等兵だけとなり、青松寺
墓地奥深くの地に、お墓として大切に保存されている。他の
二人の一等兵の銅像は、戦後の"戦犯銅像"破壊運動の犠牲に
なって破壊され行方がわからない。かって万世橋駅前にあった
広瀬中佐の銅像と同じ運命をたどったわけだ。江下一等兵の
銅像は、その時代の証人だ。