ニコタマは二子玉川と書く若者言葉である。東京と横浜
川崎を結ぶ田園都市線が開通した昭和40年以降、急速に
変容、発展した町である。
戦後まもなくの頃、僕は当時あった玉川プール(明大
プール)で二夏アルバイトをした。遊園地の奥、川の
土手際にあったこのプールは、昭和5年神宮プールが
出来るまでは「全日本選手権」を何度も開催した名門
プールであった。昭和の初め来日した初代ターザン、ワイズ
ミューラーもここで泳いだ、というのが自慢であった。
このプールからさらに丸子多摩川よりに「落下傘塔」が
まだ残っていた。昭和15年、落下傘部隊要員の訓練と
一般の国防意識の高揚を狙って読売新聞社が遊園地の
道具として建設した。高さ50mほどの塔の上から落下傘
を装具して落下する、というもの。昭和26年、この
「落下傘塔」は身売りされ、平成14年まで江ノ島の展望
燈台として使われていたが、今は解体されてない。
その昔、ニコタマこと二子玉川は清流に屋形舟を浮かべ
鮎料理を楽しむ風流の地だったそうだが、百年の歳月で
今や高層のデパートもある賑やかな街に姿を変えた。
川崎を結ぶ田園都市線が開通した昭和40年以降、急速に
変容、発展した町である。
戦後まもなくの頃、僕は当時あった玉川プール(明大
プール)で二夏アルバイトをした。遊園地の奥、川の
土手際にあったこのプールは、昭和5年神宮プールが
出来るまでは「全日本選手権」を何度も開催した名門
プールであった。昭和の初め来日した初代ターザン、ワイズ
ミューラーもここで泳いだ、というのが自慢であった。
このプールからさらに丸子多摩川よりに「落下傘塔」が
まだ残っていた。昭和15年、落下傘部隊要員の訓練と
一般の国防意識の高揚を狙って読売新聞社が遊園地の
道具として建設した。高さ50mほどの塔の上から落下傘
を装具して落下する、というもの。昭和26年、この
「落下傘塔」は身売りされ、平成14年まで江ノ島の展望
燈台として使われていたが、今は解体されてない。
その昔、ニコタマこと二子玉川は清流に屋形舟を浮かべ
鮎料理を楽しむ風流の地だったそうだが、百年の歳月で
今や高層のデパートもある賑やかな街に姿を変えた。