信心とはほど遠い僕が昨日、菩提寺の「お施我鬼」会に出席した。お寺には
お盆と春秋二回のお彼岸にお墓参りに行く程度の仏教徒である。浅草のお寺
の本堂には百数十人の善男善女が集まっていた。十五人の草色の衣を着た僧を
従え紫の衣を召した僧正の佛会は厳粛ながら鳴り物入りで賑やかであった。
ふだん葬式の時しか仏会に接したことのない僕には”散華”(実は僕はこの
名前すら知らなかった)は珍しく派手やかであった。
年齢相応にここ数年物故する友人知人が増えてきた。そして、なぜか本人の
希望ということで宗教儀式なしの”お別れの会”が”流行”してきた。大方の
日本人は名目的な”仏教徒”だから本人はそれでよいのかもしれない。しかし
日本の伝統文化の根源ともいうべき仏教にとっては問題だろう。わずかに葬式
を通じて庶民と接点のあったお寺さんやお坊さんである。”お別れの会”の
流行はその接点すら奪おうとしている。
このまま進めば、将来お経を聞いたことがない日本人が出てくるかもしれない。
西欧の”ダ・ヴィンチ”現象と同じことが着実にわが国でも進んできている。
お盆と春秋二回のお彼岸にお墓参りに行く程度の仏教徒である。浅草のお寺
の本堂には百数十人の善男善女が集まっていた。十五人の草色の衣を着た僧を
従え紫の衣を召した僧正の佛会は厳粛ながら鳴り物入りで賑やかであった。
ふだん葬式の時しか仏会に接したことのない僕には”散華”(実は僕はこの
名前すら知らなかった)は珍しく派手やかであった。
年齢相応にここ数年物故する友人知人が増えてきた。そして、なぜか本人の
希望ということで宗教儀式なしの”お別れの会”が”流行”してきた。大方の
日本人は名目的な”仏教徒”だから本人はそれでよいのかもしれない。しかし
日本の伝統文化の根源ともいうべき仏教にとっては問題だろう。わずかに葬式
を通じて庶民と接点のあったお寺さんやお坊さんである。”お別れの会”の
流行はその接点すら奪おうとしている。
このまま進めば、将来お経を聞いたことがない日本人が出てくるかもしれない。
西欧の”ダ・ヴィンチ”現象と同じことが着実にわが国でも進んできている。