夏の海水浴のシーズンになると、首都圏の住人は湘南の海が恋しくなる。
”太陽の季節”で、この地が有名になる前からである。昭和21年(1946)
8月、旧制中学4年(現在の高校1年)のとき、僕は友人4人と逗子へ3泊
4日で海水浴へ行った。食糧難で国民生活は最低、天皇陛下が”乏しきは
わかちあい”と異例のラジオ放送をした年である。
僕らは米、味噌、醤油、小麦粉それに薪まで背負って知り合いの家の三畳
にお世話になった。葉山寄りの川の近くであった。僕らはコンロを借り、
道路で煮炊きした。交通量が少なかったので出来たのだ。毎日朝早くから
日が暮れるまで泳いでも疲れなかった。若かったのだ。
その頃、逗子の海岸の半分、駅から浜に向かって右側、浪子不動側は、進駐
軍が占拠していて日本人は遊泳禁止だった。砂浜は自由に行き来できたが,
海岸から海に向かってロープが張りめぐらされていた。養神亭に泊まる進駐
軍の”プライベート・ビーチ”となっていた。
しかし、一般日本人にはまだ海水浴を楽しむ余裕はなかった。半分の浜でも
十分泳げた。
この年の日本映画のヒット作は「我が青春に悔いなし」(黒澤明・監督 原
節子主演)であった。困窮の中での青春だったが、やはり青春は青春、二度と
帰ってこない。もって良しとすべきなのだろう。
”太陽の季節”で、この地が有名になる前からである。昭和21年(1946)
8月、旧制中学4年(現在の高校1年)のとき、僕は友人4人と逗子へ3泊
4日で海水浴へ行った。食糧難で国民生活は最低、天皇陛下が”乏しきは
わかちあい”と異例のラジオ放送をした年である。
僕らは米、味噌、醤油、小麦粉それに薪まで背負って知り合いの家の三畳
にお世話になった。葉山寄りの川の近くであった。僕らはコンロを借り、
道路で煮炊きした。交通量が少なかったので出来たのだ。毎日朝早くから
日が暮れるまで泳いでも疲れなかった。若かったのだ。
その頃、逗子の海岸の半分、駅から浜に向かって右側、浪子不動側は、進駐
軍が占拠していて日本人は遊泳禁止だった。砂浜は自由に行き来できたが,
海岸から海に向かってロープが張りめぐらされていた。養神亭に泊まる進駐
軍の”プライベート・ビーチ”となっていた。
しかし、一般日本人にはまだ海水浴を楽しむ余裕はなかった。半分の浜でも
十分泳げた。
この年の日本映画のヒット作は「我が青春に悔いなし」(黒澤明・監督 原
節子主演)であった。困窮の中での青春だったが、やはり青春は青春、二度と
帰ってこない。もって良しとすべきなのだろう。