宅急便でスシアテイ・タノウエから果物ゼリーの贈物が届いた。スシアテイは
戦後インドネシアに残留した元近衛第二師団対空無線部隊の兵士,田上憲喜氏の
孫で、現在小牧市で夫と共稼ぎで働いている。数えてみたら僕とはもう10数
年来の知り合いである。
田上憲喜氏は故人だが、戦後彼が日本の軍隊から離脱、インドネシアの独立戦争
に参加した当時の彼の生きざまが「福祉友の会」(ジャカルタに本部のある元日
本軍残留者相互福祉団体)出版の本に載っている。田上氏は北スマトラのカロ高
原の部隊から離脱,主に西スマトラとアチェのインドネシア独立部隊と行動を共に
して転戦、昭和25年戦争(独立)終結時は現地婦人と結婚アチェにいた。当時の
インドネシア国内事情からアチェに残留した日本人約80人はインドネシア軍に逮捕
されメダンの収容所に入れられた。昭和27年日本政府と連絡がとれ、彼らのうち希
望者は政府負担で帰国の道が開かれた。しかし当時田上氏の奥さんは妊娠中で、イ
スラム法は妊娠中の妻との離婚を禁じていた。田上氏は”やむなく帰国を断念
した”と本の中で書いている。熊本の実家では母親が一人息子の帰国を毎日陰膳で
待っていたのだがー。
僕が田上氏の孫、スシアテイ嬢(当時)と初めて知り合ったのは平成5年初冬、
JR信越線上田駅前だった。イランからの不法就労者が各地で問題となっていた
頃であった。上田周辺にはブローカーの斡旋で北スマトラから日系と称する
インドネシア人が大挙来日、地元社会との間で摩擦を生じていた。
ボランテイアでこの問題に取り組んでいた僕は、父親と一緒に来日した彼女が
祖父の故郷を是非訪ねたい、というのを知り一家を熊本へ案内した。熊本には
田上氏の一人の姉さんがおり、涙の対面となった。その後スシアテイは帰国、地元
青年と結婚,二児をもうけたが、子育ても一段落、夫と一緒に再来日二人だけで働いている。
彼女からの贈物に感謝、遠く離れて暮らす彼女の子供用の衣類を送った。
戦後インドネシアに残留した元近衛第二師団対空無線部隊の兵士,田上憲喜氏の
孫で、現在小牧市で夫と共稼ぎで働いている。数えてみたら僕とはもう10数
年来の知り合いである。
田上憲喜氏は故人だが、戦後彼が日本の軍隊から離脱、インドネシアの独立戦争
に参加した当時の彼の生きざまが「福祉友の会」(ジャカルタに本部のある元日
本軍残留者相互福祉団体)出版の本に載っている。田上氏は北スマトラのカロ高
原の部隊から離脱,主に西スマトラとアチェのインドネシア独立部隊と行動を共に
して転戦、昭和25年戦争(独立)終結時は現地婦人と結婚アチェにいた。当時の
インドネシア国内事情からアチェに残留した日本人約80人はインドネシア軍に逮捕
されメダンの収容所に入れられた。昭和27年日本政府と連絡がとれ、彼らのうち希
望者は政府負担で帰国の道が開かれた。しかし当時田上氏の奥さんは妊娠中で、イ
スラム法は妊娠中の妻との離婚を禁じていた。田上氏は”やむなく帰国を断念
した”と本の中で書いている。熊本の実家では母親が一人息子の帰国を毎日陰膳で
待っていたのだがー。
僕が田上氏の孫、スシアテイ嬢(当時)と初めて知り合ったのは平成5年初冬、
JR信越線上田駅前だった。イランからの不法就労者が各地で問題となっていた
頃であった。上田周辺にはブローカーの斡旋で北スマトラから日系と称する
インドネシア人が大挙来日、地元社会との間で摩擦を生じていた。
ボランテイアでこの問題に取り組んでいた僕は、父親と一緒に来日した彼女が
祖父の故郷を是非訪ねたい、というのを知り一家を熊本へ案内した。熊本には
田上氏の一人の姉さんがおり、涙の対面となった。その後スシアテイは帰国、地元
青年と結婚,二児をもうけたが、子育ても一段落、夫と一緒に再来日二人だけで働いている。
彼女からの贈物に感謝、遠く離れて暮らす彼女の子供用の衣類を送った。