「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

お可哀そうに!捕虜の犠牲者

2006-08-16 06:06:06 | Weblog
小学生のころ家の横の道を日本の兵隊に連れられてノロノロ歩いて行く
連合軍の捕虜の姿を見た。東京の平和島(現在)にあった収容所から
僕の家の近くの青果市場へ野菜の買出しに来ていていたのだ。
そのころ有閑夫人が捕虜が労働している姿を見て"お可哀そうに”と、
同情したという新聞記事が出た。そして「"お可哀そうに”とは何事だ」
と問題になった。

戦争中日本に連行された連合軍の捕虜は約8万人といわれ、全国各地の
収容所に入れられ炭鉱などで労働に従事させられた。捕虜の大半は、
緒戦で勝利したマレー、シンガポール、旧蘭印にいた連合軍兵士で、欧米系
だけでなく当時の植民地の兵隊(現地人)もかなりいた。

毎年8月、横浜市保土ヶ谷にある英連邦軍捕虜墓地と福岡県水巻町の
「十字架の塔」(オランダ軍捕虜慰霊碑)へも関係者の参拝が多い。英連邦
軍捕虜墓地は昭和25年、わが国が当時進駐していた連合軍当局へ土地を
永久貸与して造成されたもので、1,873人の捕虜の墓がある。一方、
水巻の「十字架の塔」は、戦後まもなく町民が建てたものだが、今は町が
管理し、清掃などはボランテイアが行っているが、慰霊塔には日本で
死んだ816人全員の名前が刻まれた銅版のプレートも収められている。
両方の墓地とも日本人がきちんと管理し雑草もはえていない。


戦後、旧満州その他からシベリア各地に連行され強制労働で死亡した
日本軍捕虜の数は今もって正確にはわからない。ロシア側の推定でも
37万人という数字がある。その数は保土ヶ谷、水巻の比ではない。
シベリア各地の墓地、慰霊碑のほとんどは日本側が造成したものだが、
ハバロフスクの「平和記念公苑」の慰霊碑は過去に2回も地元民によって
壊されたと聞く。
シンガポールほか南方各地では戦後、1年もの間、捕虜でもないのに
捕虜みたいに働かされ死亡した日本人の数は泰緬鉄道の連合軍犠牲者数
よりも多いという説もある。当時の歴史を精査しなければ「南京事件}
のようになってしまう。