”救荒植物”という聞き慣れい言葉がある。飢饉の時でも出来る植物の
ことである。例えば甘藷、さつまいもがそうだ。江戸時代享保飢饉の際
さつまいもは多くの貧民を救った。この甘藷の普及を江戸幕府に進言、
その栽培法「蕃藷考」を著したのが、蘭学者の青木昆陽である。
きのう目黒不動の縁日、寺の裏にある昆陽の墓を妻と一緒に詣でた。
墓は昭和18年5月、国の史跡に指定されている。
そのころ戦争は激しさを増し、銃後の食糧は日増しにに不足してきた。
都会では家庭菜園や学校農園が造られ、さつまいもの栽培が奨励された。
そして戦争末期には、コメに代わってさつまいもは代用食として配給に
なった。僕ら当時の小国民は芋をご飯に炊き込んで食べたものだ。それも今の
ような紅赤、紅あずまといった美味しい品種ではない。沖縄といった形の
大きい味のない芋だった。まさに”救荒植物”であった。
いま、焼き芋は女性が好む"おやつ”であり、ときどき”おかず”として
我が家の食卓にも上る。”救荒植物”のイメージはない。しかし、戦争
による食糧難時代を経験している僕らにとっては依然”救荒植物”である。
食糧自給率が40%と先進国中最低のわが国のことだ。いつ”救荒植物”の
お世話にならないとも限らない。そういった日のこないことを心から願い
お不動さん名物の芋ようかんを二人で仲良く食べた。
ことである。例えば甘藷、さつまいもがそうだ。江戸時代享保飢饉の際
さつまいもは多くの貧民を救った。この甘藷の普及を江戸幕府に進言、
その栽培法「蕃藷考」を著したのが、蘭学者の青木昆陽である。
きのう目黒不動の縁日、寺の裏にある昆陽の墓を妻と一緒に詣でた。
墓は昭和18年5月、国の史跡に指定されている。
そのころ戦争は激しさを増し、銃後の食糧は日増しにに不足してきた。
都会では家庭菜園や学校農園が造られ、さつまいもの栽培が奨励された。
そして戦争末期には、コメに代わってさつまいもは代用食として配給に
なった。僕ら当時の小国民は芋をご飯に炊き込んで食べたものだ。それも今の
ような紅赤、紅あずまといった美味しい品種ではない。沖縄といった形の
大きい味のない芋だった。まさに”救荒植物”であった。
いま、焼き芋は女性が好む"おやつ”であり、ときどき”おかず”として
我が家の食卓にも上る。”救荒植物”のイメージはない。しかし、戦争
による食糧難時代を経験している僕らにとっては依然”救荒植物”である。
食糧自給率が40%と先進国中最低のわが国のことだ。いつ”救荒植物”の
お世話にならないとも限らない。そういった日のこないことを心から願い
お不動さん名物の芋ようかんを二人で仲良く食べた。