「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

61年目、あの頃のこと

2006-08-15 06:35:47 | Weblog
61年目の終戦記念日である。暑い日であった。電休日で動員先の工場が
休みだった僕は家の庭先にあった防空壕で天皇陛下の”玉音”を聞いた。
聞き取りにくい放送を、真空管ラジオの箱を叩きながら意味の理解に努め
たが結局よくわからなかった。ただ僕の場合、数日前から敗戦の情報を得て
いたので、格別な驚きも感激もなかった。”これで工場へ行かずにすむ”
という単純な喜びだけだった。

翌16日、矢口渡(多摩川河畔)にあった工場へ行った。最初の工場が
空襲で焼失したため二度目の動員先だった。なんでも機銃弾を製造して
いるとのことだったが”開店休業”で、僕ら技能をもたない新入りは、
することもなく”厄介者”扱いであった。出勤すると、すでに隣の工場は
大変な騒ぎになっていた。”マンセイ、マンセイ”という声で沸立って
いた。そのとき初めて僕は彼らが朝鮮からの徴用工であるのを知った。

学校の授業が再開されたのは、8月27日であった。敗戦から10日以上
たっていた。学校も5月の空襲で戦災にあったが、コンクリート建ての
校舎だけが焼失をまぬかれた。学校のまわりは焼野原。焼け出された人が
校舎内に同居していた。窓が壊れ雨がとびこむ校舎の中で、9か月ぶりに
僕らは学ぶ喜びをしった。
それからまもなく教練の先生や神がかった教育をしていた教師が”追放”
され学校を去っていった。