61年目の終戦記念日である。暑い日であった。電休日で動員先の工場が
休みだった僕は家の庭先にあった防空壕で天皇陛下の”玉音”を聞いた。
聞き取りにくい放送を、真空管ラジオの箱を叩きながら意味の理解に努め
たが結局よくわからなかった。ただ僕の場合、数日前から敗戦の情報を得て
いたので、格別な驚きも感激もなかった。”これで工場へ行かずにすむ”
という単純な喜びだけだった。
翌16日、矢口渡(多摩川河畔)にあった工場へ行った。最初の工場が
空襲で焼失したため二度目の動員先だった。なんでも機銃弾を製造して
いるとのことだったが”開店休業”で、僕ら技能をもたない新入りは、
することもなく”厄介者”扱いであった。出勤すると、すでに隣の工場は
大変な騒ぎになっていた。”マンセイ、マンセイ”という声で沸立って
いた。そのとき初めて僕は彼らが朝鮮からの徴用工であるのを知った。
学校の授業が再開されたのは、8月27日であった。敗戦から10日以上
たっていた。学校も5月の空襲で戦災にあったが、コンクリート建ての
校舎だけが焼失をまぬかれた。学校のまわりは焼野原。焼け出された人が
校舎内に同居していた。窓が壊れ雨がとびこむ校舎の中で、9か月ぶりに
僕らは学ぶ喜びをしった。
それからまもなく教練の先生や神がかった教育をしていた教師が”追放”
され学校を去っていった。
休みだった僕は家の庭先にあった防空壕で天皇陛下の”玉音”を聞いた。
聞き取りにくい放送を、真空管ラジオの箱を叩きながら意味の理解に努め
たが結局よくわからなかった。ただ僕の場合、数日前から敗戦の情報を得て
いたので、格別な驚きも感激もなかった。”これで工場へ行かずにすむ”
という単純な喜びだけだった。
翌16日、矢口渡(多摩川河畔)にあった工場へ行った。最初の工場が
空襲で焼失したため二度目の動員先だった。なんでも機銃弾を製造して
いるとのことだったが”開店休業”で、僕ら技能をもたない新入りは、
することもなく”厄介者”扱いであった。出勤すると、すでに隣の工場は
大変な騒ぎになっていた。”マンセイ、マンセイ”という声で沸立って
いた。そのとき初めて僕は彼らが朝鮮からの徴用工であるのを知った。
学校の授業が再開されたのは、8月27日であった。敗戦から10日以上
たっていた。学校も5月の空襲で戦災にあったが、コンクリート建ての
校舎だけが焼失をまぬかれた。学校のまわりは焼野原。焼け出された人が
校舎内に同居していた。窓が壊れ雨がとびこむ校舎の中で、9か月ぶりに
僕らは学ぶ喜びをしった。
それからまもなく教練の先生や神がかった教育をしていた教師が”追放”
され学校を去っていった。