”からゆきさん”を専門に研究されている大場昇さんから新刊の「世界無宿の女
たち」(文藝春秋発売)を頂戴した。明治、大正、昭和の70年の間、体をはって海
外でたくましく生きてきた女性たちの記録である。昔の唄風にいうと、彼女らの足
跡は”北はシベリア、南はジャワ”西はザンジバル島(タンザニア)にまで及んでい
た。
大場さんの推定によれば、彼女たちの累計は30万人にも上るという。僕は10数年
前、スマトラのメダンに滞在した関係で、同地の”からゆきさん”のことを調べていた
大場さんと知り合った。僕が滞在した頃のメダンには日本人居住者は100人ぐらい
しかいなかったが、大正6年には299人もいた。その大半は”からゆきさん”とその
関係者であった。明治時代の終わりには500人もの”からゆきさん”がいたという古
文書もある。シンガポールの日本人墓地には戦前の”からゆきさん”の墓がずらりと
並んでいる。
大場さんは、この本の中で、8人の女性を扱っているが、そのうちの一人、出上キク
さんは大正8年の「シベリア出兵」のさい、軍の諜報活動に従事、その功績により、第
二歩兵連隊長から感謝状と金一封を授かっている。
他の7人の記録もそうだ。苦界に身をおいた女性の記録ではない。大和撫子のたくま
しい記録である。このような記録は歴史の表面には出てこないが、明治、大正、昭和
のあの時代の側面史であり、貴重である。
たち」(文藝春秋発売)を頂戴した。明治、大正、昭和の70年の間、体をはって海
外でたくましく生きてきた女性たちの記録である。昔の唄風にいうと、彼女らの足
跡は”北はシベリア、南はジャワ”西はザンジバル島(タンザニア)にまで及んでい
た。
大場さんの推定によれば、彼女たちの累計は30万人にも上るという。僕は10数年
前、スマトラのメダンに滞在した関係で、同地の”からゆきさん”のことを調べていた
大場さんと知り合った。僕が滞在した頃のメダンには日本人居住者は100人ぐらい
しかいなかったが、大正6年には299人もいた。その大半は”からゆきさん”とその
関係者であった。明治時代の終わりには500人もの”からゆきさん”がいたという古
文書もある。シンガポールの日本人墓地には戦前の”からゆきさん”の墓がずらりと
並んでいる。
大場さんは、この本の中で、8人の女性を扱っているが、そのうちの一人、出上キク
さんは大正8年の「シベリア出兵」のさい、軍の諜報活動に従事、その功績により、第
二歩兵連隊長から感謝状と金一封を授かっている。
他の7人の記録もそうだ。苦界に身をおいた女性の記録ではない。大和撫子のたくま
しい記録である。このような記録は歴史の表面には出てこないが、明治、大正、昭和
のあの時代の側面史であり、貴重である。