71年前の昭和20年6月、旧制中学校3年生だった僕(14)は、東京の親元を離れ千葉県梅郷村(現流山市)の利根川運河川口の拡幅工事に従事していた。沖縄戦はすでに組織的な戦闘は終わりに近づき、近々、敵が九十九里浜に上陸してくるという噂の中での動員であった。
動員先は、広島に本部がある船舶部隊「暁2942」築城班で、僕らは江戸川の土手の上に建てられた仮設小屋に住み、軍隊の内務班生活さながらの毎日であった。早朝8時から夕刻5時まで、昼食の時間を除き、僕らは川底の泥を堀り、二人がかりでモッコで地上へ運び出す作業を強いられた。疲れて休むと”沖縄をおもえ”と監督の兵隊から鉄拳が飛んできた。食事は農家の小母さんが炊きだしてくれたが、食器はなく孟宗竹を使い三食、一汁一菜であった。育ちざかりの少年には物足らず、空腹から畑の野菜を盗んで食べた。
「暁2942」部隊が、広島の船舶師団であることを戦後、原爆投下から相当経ってから聞いた。暁部隊の一つは宇品の野戦病院で原爆投下直後の患者治療の中心であったという。僕らの属した「暁2942」部隊築城班が、どんな任務の部隊であったかか知らないが、当時の話では、敵が上陸してきて本土が戦場になった際、船舶が自由に運河を使って武器や兵員を運べるようにする工事であったらしい。
7月になって、僕らは動員解除になり帰京、今度は鉄道の架線替え工事の手伝いや、別の軍需工場へ配転になったが、あと戦争がもう少し続き、敵が上陸したら、僕らの運命はどうなっていただろうか。
動員先は、広島に本部がある船舶部隊「暁2942」築城班で、僕らは江戸川の土手の上に建てられた仮設小屋に住み、軍隊の内務班生活さながらの毎日であった。早朝8時から夕刻5時まで、昼食の時間を除き、僕らは川底の泥を堀り、二人がかりでモッコで地上へ運び出す作業を強いられた。疲れて休むと”沖縄をおもえ”と監督の兵隊から鉄拳が飛んできた。食事は農家の小母さんが炊きだしてくれたが、食器はなく孟宗竹を使い三食、一汁一菜であった。育ちざかりの少年には物足らず、空腹から畑の野菜を盗んで食べた。
「暁2942」部隊が、広島の船舶師団であることを戦後、原爆投下から相当経ってから聞いた。暁部隊の一つは宇品の野戦病院で原爆投下直後の患者治療の中心であったという。僕らの属した「暁2942」部隊築城班が、どんな任務の部隊であったかか知らないが、当時の話では、敵が上陸してきて本土が戦場になった際、船舶が自由に運河を使って武器や兵員を運べるようにする工事であったらしい。
7月になって、僕らは動員解除になり帰京、今度は鉄道の架線替え工事の手伝いや、別の軍需工場へ配転になったが、あと戦争がもう少し続き、敵が上陸したら、僕らの運命はどうなっていただろうか。