死体遺棄事件で碑文谷公園の名前がマスコミを賑わせている。わが家からは直線距離にすれば1キロ足らずの所にある。僕は昭和20年3月、今の住まいに引っ越してきているので、子供も孫も幼い時、何回もここに遊びに連れて来ている。それだけに、こんな凶悪な事件が発生するとは信じられないし不安である。
戦前から碑文谷公園は、東京の城南地区の子供たちにとっては、今はなくなってしまった九品仏の池と共にボート乗り場として知られていたが、とくに夏休み中は、公園の近くにあった日大プールが一般にも開放されていたこともあって、泳ぎ帰りの子供たちで大賑わしたものであった。公園の横には戦後世界卓球選手権大会で優勝した萩村伊智朗選手(故人)の練習場もあった。
戦争中、碑文谷公園の近くに大東亜共栄圏から来日した「南方特別留学生」の寮があったことはあまり知られていない。「東南アジアの弟たち」(上遠野寛子著 暁印書館 2003年)によると、フィリッピンから17人、マレー.スマトラから15人の若者たちが「本郷寮」(目黒区本郷町、現在の碑文谷5丁目)に寄宿して、中目黒の国際学友会(今の目黒区役所で戦前はアメリカンスクール)に日本語を学びに通学していた。
「東南アジアの弟たち」の著者、上遠野寛子さんは当時、留学生の面倒を見いた方だが、本の中で当時の碑文谷公園についても触れている。公園の周辺は、すっかり様変わりしてしまったが、公園は昔のままである。また昔のような静かなたたずまいに戻って欲しいものである。
戦前から碑文谷公園は、東京の城南地区の子供たちにとっては、今はなくなってしまった九品仏の池と共にボート乗り場として知られていたが、とくに夏休み中は、公園の近くにあった日大プールが一般にも開放されていたこともあって、泳ぎ帰りの子供たちで大賑わしたものであった。公園の横には戦後世界卓球選手権大会で優勝した萩村伊智朗選手(故人)の練習場もあった。
戦争中、碑文谷公園の近くに大東亜共栄圏から来日した「南方特別留学生」の寮があったことはあまり知られていない。「東南アジアの弟たち」(上遠野寛子著 暁印書館 2003年)によると、フィリッピンから17人、マレー.スマトラから15人の若者たちが「本郷寮」(目黒区本郷町、現在の碑文谷5丁目)に寄宿して、中目黒の国際学友会(今の目黒区役所で戦前はアメリカンスクール)に日本語を学びに通学していた。
「東南アジアの弟たち」の著者、上遠野寛子さんは当時、留学生の面倒を見いた方だが、本の中で当時の碑文谷公園についても触れている。公園の周辺は、すっかり様変わりしてしまったが、公園は昔のままである。また昔のような静かなたたずまいに戻って欲しいものである。