今年もあと50日、”喪中につき欠礼”の葉書が届く季節になった。高齢になったかであろう。ここ数年、その数が多くなってきた。故人が関係者の遠縁の時はそれほどでもないが、直接、知人友人本人で、ご遺族からの通知の場合はショックである。昨日も中学時代机を共にしたA君が87歳で亡くなられた。それも亡くなられたのは、つい最近、今年の10月末なのだ。
A君は戦時中の昭和19年11月24日、大型機(B-29)による初の白昼空襲で投下された爆弾で九死に一生の体験をされている。当時学校では、警戒警報が出ると、生徒を帰宅させる規則になっていた。A君は昼過ぎ、警報とともに、学校から自宅のある池上線の洗足池まで帰宅しようとして、沿線の桐ケ谷駅(廃駅)前まで歩いてきて空襲にあった。住民の”退避、退避”の声で、無理やり防空壕に押し込まれた瞬間、傍に落ちた爆弾で壕が崩れてしまった。もしも直撃弾だったら,あたら若い命を落とすところであった。
戦中戦後の過酷な時代をお互いによく生きてきたものだ。最近、昔の会の世話役を幾つかおおせ使ったが、いつのまにか周囲から友人知人が消えていってしまったことだ。それも寂しいのは何時亡くなられたかのか、遺族から返事がないことだ。葬儀の簡素化は理解できるが、人の生きてきた一生である。せめて死亡したときぐらい通知してもらいたい。その意味では”喪中につき欠礼”は、いろんな意味で最低最後の通知手段なのかもしれない。合掌。
A君は戦時中の昭和19年11月24日、大型機(B-29)による初の白昼空襲で投下された爆弾で九死に一生の体験をされている。当時学校では、警戒警報が出ると、生徒を帰宅させる規則になっていた。A君は昼過ぎ、警報とともに、学校から自宅のある池上線の洗足池まで帰宅しようとして、沿線の桐ケ谷駅(廃駅)前まで歩いてきて空襲にあった。住民の”退避、退避”の声で、無理やり防空壕に押し込まれた瞬間、傍に落ちた爆弾で壕が崩れてしまった。もしも直撃弾だったら,あたら若い命を落とすところであった。
戦中戦後の過酷な時代をお互いによく生きてきたものだ。最近、昔の会の世話役を幾つかおおせ使ったが、いつのまにか周囲から友人知人が消えていってしまったことだ。それも寂しいのは何時亡くなられたかのか、遺族から返事がないことだ。葬儀の簡素化は理解できるが、人の生きてきた一生である。せめて死亡したときぐらい通知してもらいたい。その意味では”喪中につき欠礼”は、いろんな意味で最低最後の通知手段なのかもしれない。合掌。