「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

               被災地の遅い春

2012-04-21 08:58:50 | Weblog
被災地の春は遅い。19,20日と会津若松市と中通りの田村市、三春町、郡山市と桜を求めて夫婦で旅してきた。しかし今年は季節が遅れているためか会津城の桜の蕾はまだ固く、磐梯山の中腹から上にかけては雪が残っていた。会津若松駅から磐越西線、東線とローカル線を乗り継いで田村市のある神俣駅まで約2時間ゆっくりとした旅を楽しんだが、車窓からみる景色はやっと梅が満開。水仙の黄色の花が咲き出したという早春の候であった。

例年ならば三春の有名な滝桜は満開なので、大勢の観光客が郡山から乗り込んできたがが、今年はやっと蕾が膨らんだ程度であった。僕ら夫婦は知人の田村市滝根の老人施設の施設長をしている田中リナ先生に遅ればせながら震災のお見舞いをした後施設内を案内してもらった。このブログでも何回か紹介させてもらったが、田中先生は東京の医大を出た博士号を持つお医者さんだが、国籍はインドネシア人である。戦争中海軍の軍属だったお父さんと一緒に戦後来日して日本で教育を受けられた方だ。

老人施設の事務長の方の案内で、僕らは三春の滝桜を見せて頂いたが、観光客の車で街中は交通規制がしかれている状態。足の弱い僕らを配慮されてか、車に乗ったまま滝桜を上から鑑賞できる地点に案内して貰った。まだ咲かない桜を見るにはこれで充分である。滝桜の近くには東電の原発事故で三春に避難してきた双葉郡葛尾村の方々の仮設住宅があった。葛尾村は全村原発警戒区域に入り、村民1370人が何時帰れるかもわからず、村から避難しているが、その大部分が、この三春町の山の中で暮らしている。

やはり、大震災のツメ跡は現地に行かないと理解できない。高速バスで福島県内に入ると、道路修理箇所がまだ多かった。ローカル線の車窓からは杉や檜の伐採が多く見られた。老人施設の事務長の話では放射線量の除染の一環として行われているのだそうだ。僕ら老人ができる被災地支援は被災地へ観光旅行ぐらいしかない。震災にもめげず頑張っている福島の方々の温かい心に触れてよい旅だった。一日も早く浜通りから避難してきている方々が故郷の富岡町の「夜の森」公園でお花見ができる日がくるのを願ってやまない。
(写真は蕾も固い会津城の桜)

            年寄りの被災地支援は観光だけ

2012-04-18 16:38:55 | Weblog
昔2年間ほど勤務した郡山のテレビ局のOB会出席をかねて19日から夫婦で一泊二日の観光旅行にでかけてくる。予定が前から判っていたので、新宿から会津若松まで高速バスで、片道2,980円という格安チケットをゲットした。会津若松まで郡山経由新幹線とバスを乗り継いで行くと7,970円もかかる。なんと5,000円近く得だ。時間は4時間半とかかるが、老人にとっては時間よりは安いほうがよい。

知人の中には僕ら夫婦が福島原発事故で放射線量の高い地へ行くのを心配してくれた人もいた。たしかに訪問する中には、町の一部が4月1日まで危険区域に入っていた田村市も入っている。滝桜で有名な三春町も田村市に隣接している。郡山も昨年、学校のグランドを除染した町だ。でも僕ら夫婦にとって心配なのは放射線量よりは季節の遅れで桜が果たして開花しているかどうかだ。

毎日の新聞を見ると、首都圏各地のほか福島県内主要地の放射線量がマイクロ・シーベルト値で示されている。たしかに福島県内は東京などに比べて値が一桁たかい。しかし、国が安全と認めている数値である。このような言い方は悪いが、かりに数値が高くて身体に影響があるにしても僕ら夫婦のような老人にはどうということはない。震災後全国各地から復興の手助けに若い人たちが支援にかけつけている。しかし老人に出来ることと言えば、観光に出かけ被災地に若干でもおカネを落としてくるだけだ。

        元の時代(14世紀)新嘉坡に行っていた宮古の船

2012-04-18 06:41:46 | Weblog
平成8年スマトラ旅行に行ったさい撮ったhantu(お化け)の写真が宮古島のバ―ントゥ(お化け)によく似ていることを4月10日の小ブログで書いた。いまその写真を宮古島に送り、専門家に検討をお願いしている。宮古島市教育委員会の文化財係りの新城宗史さんから頂いたメールによると、バ―ントゥの始まりは、村に仮面(バーントゥ)が流れ着いたことからきているとのこと。スマトラのhantuもバ―ントゥと同じような仮面をかぶっている。二つの関連について、いよいよ興味がわいてきた。

10数年前、僕は室町時代初期の応永15年(1408年)福井県小浜市の海岸に象などの贈答品を積んだ南蛮船が着岸したのに興味を持ち、マラッカやその当時旧港と呼ばれていたパレンバンまで足を運び調べたことがあった。結局、現地には何も資料がなかったが、小浜市の郷土史家から頂戴した「中世南島通交貿易の研究」(小葉田淳著 刀江書院刊)から、南蛮船が旧港の華僑が日本へ派遣したものと、ほぼ確定できることができた。

京都大学の教授だった、小葉田先生のこの本には、小浜の象に絡んで当時の琉球王国とマラッカ王国との通商関係も記述してある。そこで僕はhantuとバーントゥとの関係を示唆するものはないかと読み返してみた。すると、こんな記述が見つかった。「元の元統年間(1333年―35年)蜜牙古(宮古)人がselat(インドネシア語で海峡)=漢字で(手偏に散)里即=に来ている。つまり今の新嘉坡(シンガポール)あたりにまで通商に来ていたのである。琉球王国とマラッカ王国との通商関係は琉球の外交文書「歴代宝案」にも記述されているが、それ以前の時代、しかも琉球本島ではない宮古から、こんな遠隔の地まで商売に来ていたことを知り驚いた。バーントゥが宮古に流れつくといのも、まったくありえないことではない。

         財政危機の目黒区に「天空の庭」など必要か

2012-04-17 06:37:49 | Weblog
任期満了に伴う東京の目黒区の区長選が22日投票で、選挙戦の真っ最中である。が、僕が見る限り一向に盛り上がりを見せていない。実際は財政破綻の区政の舵取りを選ぶ重要な選挙なのだが、何故なのだろうか。一つには選挙委員会の怠慢にある。16日から不在投票ができます、と区報に書いてあるのに選挙公報がまだ配達されてこない。選挙民にとっては誰が立候補しているかさえ判らない。

目黒区は数年前、旧庁舎を売却してかって生保本社だった大きな建物に移転したり、旧都立大学跡地に立派な総合文化施設を造ったりしたことが影響して慢性的な財政赤字に陥っている。それで2010年には役所内に「緊急財政対策本部」を設置して36事業の延期や中止を決定した。その中には区内に住む高齢者がよく利用していた箱根の温泉施設の廃止も入っており、区政にうとい僕でも知っていた。

ところが、先日読売新聞の首都圏版の「23区再考」という3回続きの目黒区特集を見て驚いた。こんな財政危機の目黒区が、今首都高速道路会社が建設中の区内の大橋ジャンクションの屋上に広さ700平方mの回遊式の庭、「天空の庭」を造り、区がこれに13億円も負担するということだ。前から僕も思っていることだが、区民にとって区役所内の立派な茶室とか、都立大学跡地にできた大小二つのホールなど必要ない。維持費だけでも大変だ。

読売新聞の記事によると、財政難による事業見直しの中には老朽校舎の建替えや区道整備も入っているそうだ。世田谷区との区境にある呑川の歩道は世田谷区側は整備されているが、目黒区側はコンクリートむき出し。以前から僕は気になっていたが、やっとその理由がわかった。先日家の近くの私道のマンホールの蓋がゴミ収集車によって壊された。見には来たが、私道は持ち主が修理すべきだと取り合わない。

橋下大阪市長の”鶴の一声”で地方自治のあり方について改めて人々の関心が集まり始めた。好いことだ。貴重な税金を使って「天空の庭」など造ろうとしている区長に一票投じるわけにはいかない。
(写真手前は整備されている世田谷区、先はコンクリートだけの目黒区の区道)

       北朝鮮のおかしな義理 デヴィ夫人の平壌訪問

2012-04-16 05:57:56 | Weblog
タレントのデヴィ夫人(インドネシアの故スカルノ大統領第三夫人)が北朝鮮の金日成生誕百周年記念行事に招かれ平壌に出かけてきたそうである。夫のスカルノ大統領が1965年に新種の蘭を金主席に贈ったのが機縁で、夫人は以来八回も北朝鮮に招かれているとのこと。随分、義理堅いことである。

1965年といえば、9月30日にクーデター未遂事件が起きた年だ。インドネシアは国連を脱退し、世界的に孤立していた時で、スカルノ大統領は同じように欧米からツマはじきされていた国のカンボジャ、北ベトナム、北朝鮮、中国と組んで”ジャカルタ、プノンペン、ハノイ、北京、平壌”枢軸という外交政策を打ち出していた時代である。僕はスカルノが政権移譲を発表した翌1966年の3月11日事件(スーペルスマル)を取材しているが、当時のジャカルタ市内はスカルノの経済政策の失敗で、粗悪な中国製品だけが街にあるだけで、国民は塗炭の生活の苦しみ下にあった。

あれから半世紀近くたって世界情勢はすっかり変わった。インドネシアもベトナムも中国も経済は飛躍的に発展した。昨年11月、僕は5年ぶりにジャカルタを訪れたが、1966年当時にはなかった高層ビルが林立している。当時、外交関係がなかった韓国が北朝鮮に代わって進出してきていて、韓国のインドネシアへの投資額は2009年には3.3億㌦だったのが2010年には8.7億㌦になり、街には焼肉店がめだって増えてきている。

変わらないのは北朝鮮だけである。でも義理をたててか元大統領の第三夫人を招待している。おかしな国である。

          「梅ちゃん先生」の蒲田が空襲に遭った頃

2012-04-15 07:02:48 | Weblog
NHKの朝のドラマ「梅ちゃん先生」の視聴率が高いそうである。今ドラマの舞台は空襲で焼け野原になった戦後すぐの東京の蒲田だが、僕は昭和20年1月から5月まで、学徒動員されて蒲田の軍需工場で「人間魚雷」回天の部品を製造していた。まだ中学2年から3年だったが、毎朝8時省線(JR)蒲田駅前に集合して歩調をとりながら工場のあった多摩川近くの六郷まで通った。

蒲田一帯が空襲で丸焼けになったのは20年4月15日深夜の空襲であった。僕の家は幸い、この日の空襲には遭わなかったが、初めて空襲の恐ろしさを体験した。翌日、電車がとまったため線路の上を歩いて通勤したが、まだあたり一面は余熱でくすぶっていた。今考えれば恥ずかしいことだが、まず、僕らは工場の食堂の焼跡へへ行き、焼け米を探した。毎日の食べるものに困っていた時代である。「昭和の東京」という石川光陽氏の写真集(朝日文庫)にも農商務省荏原倉庫の焼跡で焼き米拾いをする女性たちの姿がある。

僕らは焼けた工場跡の整理に1か月ほど従事したが、焼け跡にまで米軍の艦載機がやってきて僕らにむけて機銃掃射をしてきた。搭乗者の顔が見えるほどの低空飛行であった。東京の山の手地区はこのあと5月25日にも大空襲があり、級友のほとんどはこの空襲で家を失ったが、僕の家は焼夷弾がはずれて無事だった。

僕らは新しく動員を受け入れる工場もなかったのであろう。敵の本土上陸に備えて家を離れ千葉県の流山市の江戸川運河の浚渫工事へ動員された。戦場になった場合、自由に船が往き来するための工事であった。戦争があと少し続けば、僕らもどうなっていたかわからない。「梅ちゃん」は僕らと同じ世代である。

            開局40周年のOB会に想う

2012-04-14 07:17:40 | Weblog
昨夜汐留のビヤーホールで昔10年ほど勤めた北海道のテレビ局のOB会があった。今年は開局40周年ということで会費は無料。80歳を越えると夜の集まりは極力参加しないのだが、節目の年であり、昔の同僚にも会えるので参加した。

テレビ局が開局した昭和47年(1972年)は札幌冬季オリンピックが開催された年である。東京から赴任した札幌の街にはトワエモアが歌う「虹と雪のバラード」が流れ、まさに”町が出来る新しい町が”で活気に満ちていた。地下鉄が開通し中心街にはモダンな地下街も出現した。4月1日開局した日、札幌の人口は100万人を突破、政令都市になった。僕もまだ若かった。40歳を越えたばかりで働き盛り、遊び盛りであった。なれぬ雪道を転びながら歩き、夜は夜ですすきのを飲み歩いた。

あれから40年も経ったのかという思いである。当時の新入社員の中には会社の役員になった者もおり、すでに”卒業”した者もいる。それより僕と一緒に東京のキー局から派遣された同僚はすでに皆亡くなり、僕よりずっと若い人が5人も世界を異にしている。うち2人はアナウンサーである。テレビ局にかかわらずマスコミの仕事は若い時は面白い。ついつい働きすぎてしまうのだ。

参加者で僕より年上の大正生まれの先輩が一人いた。髪も黒く背筋も伸びて若々しい。現役時代は大酒のみで有名だったが、70歳を機に酒を断ち煙草もやめたとのこと。僕も50歳の時煙草はやめたが、酒は相変わらず飲んでいる。そういえば早死にした人たちは共通してヘビースモカーであり、大酒のみであった。やはり長生きしたいと思ったら煙草をやめ、酒もほどほどにすることだ。

             日本人観光客が減っているバリ島

2012-04-13 06:19:11 | Weblog
インドネシア最大の観光地バリ島への日本人観光客が減っている。アンタラ通信によると、今年1月―2月の世界からの観光客は全体では47万人と昨年同期に比べて15.3%も伸びているが、主要10か国のうち日本とフランス二か国だけが減少、とくに日本からの観光客は18,4%も激減している。円高で海外観光は追い風なのに何故なのだろうか。

僕は昭和41年から計8回もバリ島を訪れているが、平成18年12月を最後に出かけていない。また今後も行きたいとは思っていない。何故か? 僕は18年12月のこのブログで「バリ島への提言」として、およそ次のようなことを書いている。(1)かってバリ島は自然に恵まれた美しい島だったが、この20年ばかりクタ海岸などの観光地には国籍不明な建物が立ち並び汚い。(2)2002年と2005年の二回にわたる爆弾テロの影響か治安が昔のようではなくなった。現地人の顔にも微笑みが消えてきた。(3)行儀の悪い日本人の長期滞在者が増え,ジゴロと呼ばれる現地の若者相手の女性観光客もでてきた。

昨年11月、僕は中部ジャワを中心に約10日間、一人旅を楽しんできたが、昔ながらのお客を遇する温かい心を感じた。そして自然の美しさも田舎には残っていた。僕は過去に35回、インドネシアを旅行しているが、最近のバリ島は”インドネシア”ではなくなってきた。せっかくの観光資源に恵まれているバリ島である。観光の原点に立って、お客を大切にする気持ちがなければ、日本人の観光りピーターは期待できないであろう。

          戦災瓦礫を処理していた頃の東京

2012-04-12 06:30:33 | Weblog
昭和23年4月、大学予科に入学した記念の集合写真が古いアルバムに貼ってある。大学前の外濠の土手で撮ったもので、バックには建設中の聖イグナチオ教会の塔が見える。今、東京都から借りている上智大学の真田堀グランドは、ちょうどこの頃、都内各地から集めてきた戦災瓦礫を埋めて建設されていた。四ツ谷駅前の新宿通りには焼跡の古トタンのバラックがまだ沢山あった時代である。

敗戦時僕は中学(旧制)3年だったが、戦争が終わったにも関わらず10月いっぱい戦災の焼跡整理に動員され第一京浜国道の旧品川区役所周辺で、瓦礫を道端に山積する作業に従事した。戦後間もなくで、若い男性は戦地から復員していないため、中学生まで強制的に動員されたわけだ。しかし、僕らはこの瓦礫が、どこへ運ばれて行き処理されるのかは子供なので知らなかった。

昭和23年といえば、まだ食糧難で大学は6月から夏休みに入ったが、そんな時代でも戦後の復興は進んでいたのだ。真田堀だけではない。JRの中央線にそった市ヶ谷堀の一部も瓦礫が埋められて今は野球場などになっている。そのほか都心にあったかっての江戸城の外濠も同じようにこの時代に埋められた。

東日本震災の被災地の瓦礫処理が遅々として進まないという。環境省は各地の地方自治体に瓦礫処理の受け入れを依頼し、受け入れ地の住民を対象に被災地視察ツアーを企画し、これに補助金を出すという。随分姑息な手段のように僕には思える。今思うと、いくら戦災復興とはいえ由緒ある江戸城の堀を瓦礫で埋めるというのは、思い切った案であった。今なら歴史景観を破壊するとして実現出来なかったかもしれない。やはり復興にはある程度痛みも伴うものである。それぞれが我慾をむき出しにしては、前に進まない。

             65年前卒業 3人だけの同期会

2012-04-11 07:01:39 | Weblog
昨日桜満開の下、65年前同じ国民学校(小学校)を巣立った3人だけが集まって、かって学校があった東京五反田の地でささやかな会を持った。僕らは昭和12年に入学、18年に卒業した仲間だが、卒業時58人いたのに、今は3人だけの同期会である。昨年までは、曲りなりも5人集まれたのだが、長年幹事役だった一人が死亡、遠く信州から出席していた一人が認知症になり、公式の会は解散した。寂しい限りであるが、これも仕方がないのだろう。

僕らが入学した昭和12年も桜の開花は遅く4月1日であった。省電(JR)五反田駅前にあった学校の校門横の桜の下で、僕らは「サイタサイタサクラガサイタ」で始まる文部省国語読本を勉強した。「サイタサイタ」の次は「ススメススメヘイタイススメ」ついで「オヒサマアカイアカイアサヒモアカイ」「ヒノマルノハタバンザイバンザイ」であった。この国語読本は昭和8年から15年まで使用されているが、考えてみると大変流動的な時代であった。

昭和20年5月24日の山手大空襲で学校は焼失した。級友の大半はこの空襲で焼け出された。また、僕のように空襲には遭わなかったが、強制疎開で生まれた土地を離れざるをえなかった者もいる。同期会をやろうという機運が出てきたのは”もはや戦後ではない”という経済白書がでた昭和31年頃だったと思う。幹事役が熱心に新聞の人探し欄などを使って級友の消息を求めた。それで20人近くは判明したが、それ以上は無理だった。

今や五反田の地には一人もいない。学校も焼失した後、隣の学校と合併、名前だけ残っていたが、数年前小中一貫校が出来てその名前までなくなってしまった。明治26年生まれの僕の母もこの学校を出ている歴史の古い学校である。時代の流れと言え寂しい。