「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

           宮古島のお化け スマトラのお化け

2012-04-10 07:40:43 | Weblog
「脱捨離」の心から昨日手始めに古いアルバムの整理をはじめたら平成8年(1987年)1月、友人とスマトラ旅行をしたさい撮影した「hantu」(お化け)の写真が出てきた。マンダリン.コーヒーで有名な中部スマトラの山中を車で移動中、偶然でくわした断食明けのお祭りの主人公たちである。

沖縄の宮古島には旧暦の9月「パ―ントゥ」という奇祭がある。村の悪魔を木の皮の衣装を着け仮面をかぶった「パーントゥ」(お化け)が追い出すというお祭りである。前から僕は「パーントゥ」と「hantu」との発音の類似から、何か関係があるのではないかと思っていたが、昨日ネット掲載の「パーントゥ」とアルバムの「hantu」の写真を改めて見比べてみて驚いた。そっくりなのである。

沖縄の先島地方には、南方文化との関連を匂わせるものがある。例えば石垣島の民謡「安里屋ユンタ」のなかの繰り返し文句”マタハリヌチンタラカヌシャマヨ”について昔からマレー語(インドネシア語)の「matahari」(太陽)「cinta」(愛する)「kamu」(お前)ではないかという説がある。

15世紀から16世紀にかけて琉球王国と当時マレー半島を中心に栄えたマラッカ王国との間には通商関係があり、毎年双方の貿易船が往来している。マラッカとスマトラとは海峡をはさんで指呼の距離である。現在のマレーシアのネグり.センビラン州の住民は中部スマトラのパダンからの移民が多い。。宮古島の「パーントゥ」が、どのようにして海を渡り伝わってきたのか不明だが、調べてみると他にも類似があるかもしれない。

              昭和一けた世代と「断捨離」の心

2012-04-09 07:40:43 | Weblog
8日早朝のNHKラジオの番組「明日のことば」を夢うつつで聞いていたら”だんしゃり”と聞きなれない言葉が耳に入ってきた。解らないままに起きてから老妻に聞いてみたら「断捨離」と書き、ヨガの「断行」「捨行」「離行」からくる言葉、ひらたく言えば、物への執着心を捨てることだと教えてくれた。老妻は昭和一けた生まれ「断捨離」の権化みたいなのに、ちゃんとこの言葉を知っていた。

番組で「断捨離」の心を説いていたのは、心理カウンセラーで女医の川畑のぶこさんで、タイトルは「私を変えた捨てる心、断捨離の実践」。川畑先生自身が日常生活で断捨離を実践したところ、いかに効用があったかの体験談であった。川畑先生のお母さんは昭和9年生まれで、なかなか物が捨てられない世代。川畑先生もその影響をうけて育ち、例えばストッキングなども80足も持っていたが、古い片方だけのものまで捨てられないでいた。しかし、今は必要なだけを持ち身辺がすっきりしたという。

僕ら昭和一けた世代は、食糧難だけでなく、すべてに物のない時代に育った。伸び盛りの少年時代、僕は母親が擦り切れたズボンのお尻の部分に布切れをあてたのをはいていた。僕だけでなく、たいていの子供は同じで”猿のケツ”と呼んでいた。老妻も少女時代、モンペで暮らした世代だけに物の大切さを身にしみている。それだけに二人とも「断捨離」が出来ない。

娘たちは”一シーズン通じて一度も使用しなかった衣類は捨てる事”と忠告してくれるが、老妻は一シーズンどころか数十年前の服まで箪笥の底に仕舞ったままで、改める気はないようだ。僕は早速、断捨離を実行しようと、蔵書とアルバムの整理に取り掛かったが、やはり想い出があって思うように進まない。昭和一けた世代にとっては一つの業みたいなものだ。
 

               花祭り甘茶で甘露甘露

2012-04-08 07:29:57 | Weblog
今日、4月8日はお釈迦さんの誕生日の灌仏会。今年は桜満開の中、しかも日曜日とあって、普段は人影もない近所のお寺の境内には屋台のお店まで出る賑わいだ。本堂の前の仏像では灌仏の儀式が行われていたが、参詣人への甘茶のサービスはなかった。戦前昭和の時代には甘茶につられて大勢子供が集まったものだったが、時代は変わったものだ。

甘茶は甘茶蔓の茎を乾燥させ煎じた飲み物だ。正直言って今飲めばたいしたことはないが、戦前砂糖がまだ希少で高級品、甘味に飢えていた時代には、とても美味しく感じたものだ。”甘茶でかっぽれ、塩茶(渋茶)でかっぽれ”という言葉がある。江戸時代末期から明治時代初期にかけて上方で流行した俗謡だそうだが、アルコール抜きの宴会などで”今日は甘茶でかっぽれだ”と転用されたりしていた。

灌仏会で甘茶が使われるのは、仏教の甘露になぞらえてのものだそうだ。甘露はすでに死語に近いが、天子が仁政を施すと天がそれに感じて降らす甘い露だと辞書にある。転じて至福の意味もあるようだ。明治17年生まれの父は、美酒にしたたか飲んだ時など”甘露、甘露”といっていたのを覚えている。

最近は政治が混乱していて仁政にはほど遠い。だから天もそれに応じないのかもしれない。甘露に代わって天災の苦汁を降らしてきた。昔からのしきたりである。そんなに高価なものとは思えない。せめて、お寺さんでも参詣客に甘茶のサービスぐらいしたらどうだろうか。それでなくともお寺さん離れの昨今のことである。

           90歳のおばあちゃんのブログに学ぶ

2012-04-07 07:21:49 | Weblog
Yahoo情報に先日90歳のおばあちゃんのブログが紹介されていた。「さっちゃんのお気楽ブログ」というこのブログに早速訪問させて貰った。毎日が”独居老人”という、さっちゃんの日常体験が写真入りで趣味の油彩画と共に紹介されている。すばらしい作品だ。とても90歳のおばあちゃんのものとは思えない。僕も一言コメントさせて貰ったが、Yahooで紹介された後、さっちゃんのブログは129,465の訪問者があって”今朝から大変です”の状態だという。

さっちゃんは6年前にパソコンを習い、このブログを始めたそうだが、81歳の僕などとても足元にも及ばない。内容が見事だ。これが本来のブログというものだろう。生活がにじみ出ていて上品だ。毎日、何を書こうか困って政治家の悪口を書いている小ブログとは気品が違う。

僕も6年前、娘から”ボケ防止にブログでも書いたら”と準備して貰って始めたものだが活字の世界から飛び出せない。やっと写真が掲載出来るだけ。無趣味なので、とてもさっちゃんのように油絵など紹介できない。壁紙なども6年間同じものを使っている。さっちゃんのブログには訪問者への気配りがあるが、僕にはそれがない。ないのではなくて技術上それができないのだ。

毎日ブログを更新していると、たしかにボケ防止にはなる。新聞、ラジオ、テレビ、時には折込広告にも目を通す。年間の行事についても敏感にならざるを得ない。題材探しに出来るだけ、昔の友人の会にも顔をだ出すことにしている。お蔭で80歳の年寄りにしては毎日が忙しく退屈することはない。




    

       瓦礫受け入れを拒否した屯田兵の後裔の町札幌

2012-04-06 06:56:18 | Weblog
札幌市の上田文夫市長が宮城、岩手の被災地からの瓦礫受け入れについて”国から示されている放射性物質の基準や指示では安全の確証は得られない”と拒否する文書を細野豪志環境相に郵送したという。細野大臣は、すでに受け入れを決めた東京都などを除く35道府県や10の政令都市に対して受け入れの協力について6月までに返事をくれるよう要請しているが、札幌は早々とこれを断ってきた。

僕はかって10年ほど札幌に住んだことがあるが、上田市長が今回、よく瓦礫を検証もせず瓦礫受け入れを拒否したことに抵抗を感じる。札幌の開拓の歴史をみると、東北の被災地とは深いつながりがある。国の史跡にも指定されている琴似屯田兵屋に入植した人たちの多くは昨年の大地震と巨大津波で大被害を受けた仙台藩の支藩亘理藩の武士達であった。札幌の区名にもなっている白石も維新直後、咸臨丸で白石支藩から渡来した人たちが開拓した町である。

札幌の上田市長は独特の歴史観の持ち主のようである。ネット情報だが上田市長になってから新年の交礼会での国旗掲揚と国歌斉唱が廃止されたとのこと。また国際スポーツ大会でも市長は日の丸斉唱の際起立しなかったという。つい最近も市長支持派の多い札幌市議会では、従軍慰安婦問題の解決について政府は韓国政府と話し合えとの決議を採択している。

札幌には、僕がいた時にも感じたが変な政治的風土がある。北教組で代表される”進歩的文化人”的気質である。震災後この”進歩的文化人”は、科学的根拠もない放射能汚染におびえている。札幌に持ち込まれる瓦礫だけが放射能汚染度が高いわけではない。同じ北海道でも昨年9月の奈良県十津川豪雨災害の際には、この町から明治時代に入植した新十津川町の町民が温かい支援の手を差延べている。

           桜は咲いたが変わらぬ永田町の景色

2012-04-05 07:00:42 | Weblog
今年は異常気象だ。例年なら東京の桜は満開だが、時ならぬ暴風雨もあってかわが家の近くは五分咲きにも至っていない、それより、いつ開花宣言が出たのかさえ、恥ずかしながら僕は知らなかった。新聞もテレビもあまり騒がなかった気がするが、3月31日に宣言は出されていた。昨年より3日、例年より5日も遅いそうだが、暴風雨のあと気温が上がり、都心の永田町の桜も数日中に満開になりそうだ。

国民新党の亀井静香代表が先月、野田総理と消費増税で話し合った後の記者会見で”桜の咲く頃には永田町の景色もすっかり変わっている”と言ったのを僕は覚えている。亀井代表の地元、広島の桜はどうか寡聞にしてしらないが、永田町の桜は満開に近づいている。しかし、亀井代表が予告したような景色の変化は、僕には見られない。

昨日のも参院予算委の模様をテレビ中継で見たが、相も変らぬ与野党間の“実のない”討議が続いている。自民党の西田昌司議員が、農水大臣と副大臣の米の対中国輸出にからむ疑惑を追及した。真偽については素人の僕にはよく判らないが、副大臣の答弁する表情から疑惑がありそうに僕には見えた。かって女性問題で週刊誌を賑わせた人物である。それよりも僕が国民を馬鹿にするな、と感じたのは、西田議員の質問の後、石井予算委員長が”これにて西田劇場終わり”と宣ったことだ。委員長の言葉ではない。茶かすにもほどがある。

亀井代表の言う”永田町の変化”とはなんだろうか。石原慎太郎都知事が大阪で橋下市長と話し合いをしたことで、新党結成について色々憶測が飛んでいる。亀井氏のいう変化とはこのことを指すのであろうか、それとも自分が代表である国民新党の内部分裂をさすのであろうか。後者の場合なら、あまり景色の変化とはいえない。

      橋下大阪市長、年寄りを厄介者扱いにしないで!

2012-04-04 07:16:55 | Weblog
橋下徹大阪市長が”無駄を省き住民サービスを拡充する時は高齢者ではなくて、将来世代に税を投入する”政策の一環として、70歳以上の大阪市民への「敬老優待乗車証」を廃止し、半額を利用者負担にするよう改め早ければ2013年から実施するという。大阪市が全国の政令都市のの中で最も財政危機に陥っていることは僕でも承知している。しかし、これを半額とはいえ生活弱者の年寄りに一方的に負担させるのは如何がなものかー。

東京都でも70歳以上の都民に対して都内を走るバス(私鉄を含む)と都営地下鉄を無料に乗れる(実際には市町村税非課税者は千円で購入)”シルバーパス”制度がある。僕もこの恩恵に浴して感謝している。今年になって1月から3月まで何回ぐらい利用した調べてみたら1月3回、2月6回、3月5回と計14回も利用している。金額にすると6千円ぐらい助かっている。

都内を走るバスの乗客は年寄りばかりだという悪口をよく聞く。たしかにバスは乗降口が”ノン.スッテプ”で足腰の弱った高齢者には便利である。僕も料金がタダであるうえ、年寄りには優しい乗物なので時間がかかり遠回りなのを承知してバスのお世話になっている。後期高齢者の介護利用率がどの程度なのか承知していないが、僕の周辺でも介護のお世話になっている者も出てきた。介護料に比べれば、敬老無料パスなどたいした額ではない。

東京都の場合、非課税者以外の都民には”シルバーパス”を20510円支払えば年間利用できる制度がある。老人心理として無料と半額とでは全然異なる。多分大阪で半額制度を実施すれば、大阪の老人は家に引き籠りがちになり、その結果介護老人も増えることは間違いない。年寄りをあまり厄介者扱いしないで貰いたい。敬老の精神も忘れずに。


               4月3日は「神武天皇祭」

2012-04-03 06:49:02 | Weblog
4月3日は「神武天皇祭」である。初代天皇が崩御された日を祀って、戦前までは国の祭日であった。このことを知る日本人は今や少なくなって後期高齢者以上の世代だけだろう。皇室では神武天皇を祀る奈良県橿原神社の畝傍山の東山陵に勅使を派遣してお祀りしている。昭和17年僕は小学校の参宮旅行(修学旅行)で伊勢神宮参拝の後、橿原神宮にも参詣しているが、日本人のどれだけの人がここを訪れたことがあるだろうかー。

昨年6月の参院決算委員会で自民党の山谷エリ子議員が当時の枝野幸男官房長官に”今上天皇は第何代の天皇にあたるか”と質問したが、官房長官は答えられず話題になった。昭和39年生まれの長官である。学校で教わったことはなく当然だが、天皇は日本国の象徴だと憲法で規定されている。官房長官がその象徴にかかわる知識に欠けるのは問題といえば問題だ。

戦前僕らは国民学校(小学校)で歴代の天皇の名前を”ジンム,スイゼイ,アンネイ,イトク,コウショウ・・・・”と暗記させられた。が、戦後は神武天皇は神話の人物とされ、神話そのものが悪だと否定されてきた。金鵄勲章は神武天皇が東征したさい、現れた金色の鴇の話からきているが、今や、金鵄勲章がなんだか知らない日本人が多いのではないだろうか。

考えてみるとおかしな話である。125代と綿綿と続いている万世一系の天皇家の歴史を”神話”として頭から否定し、学校でも教えない。僕らが戦前教わった教育では問題だが、天照大神から始まるわが国の肇まりを神話として教えることは決して悪いとは思えない。むしろ誇りとしてもよいのではなかろうか。

                夏ミカンの味に郷愁

2012-04-02 06:31:52 | Weblog
老妻が先日買物カートをひいて自由が丘の農家の無人スタンドから夏ミカン3個を200円で買ってきた。わが家の周りの住宅街には所どころこの夏ミカンがたわわになっている家があるが、あまり収穫せず、ただ通行人の目を楽しませているだけ。普段、もったいないなあと思っていた。僕らの世代にとって夏ミカンは、郷愁を感じさせる懐かしい味だ。

僕の記憶では夏みかんは、もっと季節が遅く初夏の頃八百屋の店先に並んでいた気がする。ちょうど果物の端境期であり、値段も安かったのだろう。子供たちへの格好のビタミンCの供給源だった。母親が新聞紙の袋に入った夏ミカンをよく買ってきた。しかし、皮がやたらに固くてむくのに一苦労した。味も口が曲がるほど酸っぱかった。僕らはミカンに重曹をかけたり、塩をかけたりして食べたものだ。砂糖は高級品でなかなか手に入らない時代であった。

最近は外国から1年中果物が輸入されてきて端境期がなくなった。それとハウス栽培が盛んになってきたのも原因している。露地でしか栽培できなかった時代には、たしかイチゴの旬は6月だった。戦前は梅雨時の6月、チブスかコレラの一斉予防注射があり、僕らは連れられて会場まで出かけたが、その帰途イチゴを”ご褒美”として買って貰えるのが楽しみだった。

今の若い世代は夏ミカンをそのまま食べるようなことはしない。昨年だったか町内会主催で夏みかんを使ってママレードを作る会があった。老妻も参加してできたママレードを貰ってきたが美味しかった。しかし、食生活が貧しかった時代に育った僕にとっては、やはり酸っぱいこの素朴な夏みかんを生で食べるほうが好きだ。