今日2月19日は二十四節季のひとつ「雨水」である。立春から初の節季で、積雪や氷が解け、雨水に変わるころ。そろそろ春の息吹をかんじる侯である。その名前の通り、東京は朝から雨。その雨の中を庭に咲くセージ(ハーブ】一輪、花瓶に飾った。
昨日も特にすることもなくテレビの国会中継をみて1日過ごした。ずーつとみたわけではなく時々だが面白くない。昨日は「立憲」「国民」両民主党の看板議員が登場したが、今一つ実のある審議とは言えない。答弁側にも責任があるが、次々と新しい問題が出てきて国民には理解できない。迷路に入った感じだ。
午前の質疑で音声だけ聞いていたら、まだ桜田義孝五輪相の”がっかりした”失言問題を取り上げている。直接、「統計不正問題とは関係ないし、大臣はすでに発言を撤回し謝罪している問題だ。そうかと思うと細字でぎっしりと書いたプラカードを持ち出し質問していたが、大臣席から見えるのだろうか。中継用に用意したとすれば、茶の間からは見にくい。
審議は「統計不正」から派生して、恣意的な統計作業があったのではないかという問題まで出てきた。安倍総理は否定しているが、なんとはなく”モリカケ”問題の時の国会を思いだした。政治に素人の国民にはわからないうちに審議が終わってしまう。それにしても野党議員の、あのケンカ腰の質疑態度はなんとかならないのだろうか。
政府側の“”木ではなをくくった”答弁も問題である。なんのための国会中継なのか。国民は総理を始め議場での議員の一挙手一投足を画面を通じてみている。安倍内閣の支持率がここへきて下がってきている。気になることだ。
昨日の日曜日、僕の長寿の祝いを兼ねて、幼い時から兄弟同様に育った従弟夫婦と「六本木」の親類筋の蕎麦屋で会食した。「六本木」といっても行政的には西麻布だが、地下鉄の駅から歩いて10分、星条旗通りの繁華街のビルの一階にある。さすが「六本木」である。休日なのに店は予約客で一杯であった。
東京生れ、東京育ち,三代続く江戸っ子だが、戦前の「六本木」につぃては変な想い出しかない。昭和13年、別の従兄が近衛歩兵三聯隊に入営するため、当時住んでいた五反田駅前から市電(都電)を一台貸しきって六本木まで送った。当時の六本木は、交差点周辺に兵隊さん相手の小さな商店街があるだけで高層ビルなど一つもなかった。
「六本木」が変容し始めたのは昭和29年(1954年)都電通りに俳優座が劇場をつくり,ついで33年にNET(テレビ朝日)が開局した頃からではなかっただろうか。周辺に在外大公使館があり、旧帝国陸軍施設を占拠していた進駐軍関係の建物が多かったせいもあり、国際都市化していった。(星条旗通りも昔、進駐軍向け新聞社あった名残)今、行政的には港区六本木で1丁目から6丁目まであり、1平方キロの地に1万2千人も住んでいる。しかし、六本木が国際的な繁華街やビジネスセンターに変身したのは今世紀になってからである。2003年に「六本木ヒルズ」が街の再開発で誕生、2008年には自衛隊跡に「東京ミッドタウン」も誕生した。
娘婿の運転する車で「六本木」を一巡して貰ったが、まさに今浦島であった。昔懐かしの箪笥町、材木町、市兵衛町、永坂町がどこなのか「六本木」に吸収されてわからない。まさに江戸っ子もびっくりだ。
88歳の誕生日の昨日、同じ屋根の下に住む娘夫妻と二人の孫から”米寿お祝い”のケーキとお頭つきの鯛が届いた。考えてみるとわが家では初めてのことだ。父は84歳、母は82歳、祖父母の顔は見たことがない。わが国では、敬老の行事として60歳の還暦から100歳の上寿まで8つのお祝いがあるが、これで5つ祝福して貰った。有難いことだ。感謝感謝の気持ちでいっぱいである。
88歳の誕生日を元気に迎えることができた。昔、新年が来ると、歳を一つ加える慣習だった足利時代、禅宗の高僧、一休和尚は「門松や冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」と言う狂歌を残しているが、87歳で臨終の際には”死にたくない”と周囲にもらしたと伝えられる。”冥土の旅の一里塚”は同感だし、最期まで”死にたくない”気持ちも人間らしくてよい。
2月16日の花言葉はレントローズだと早朝のラジオが伝えていた。レントローズとは聞きなれない名前なので、調べてみたら、レントとは、キリスト教の復活祭前 40日の期間、四旬節のことを言い、この期間に咲く薔薇に似た花だとのこと。その意味は”元気””大切な人”だという。からきし、園芸には疎い僕である。早速僕にとって”大切な人”である老妻に聞いたら、お隣の庭に咲いていると写真にとってくれた。
人生にとって80歳代はレント(四旬節)みたいな苦難な期間に見える。傘寿を迎えた頃は僕は老いもそれほど感ぜず、海外旅行へ出かけたり、スポーツクラブで泳いだりしていたが反面、2回の大腸がん手術、左膝に人工関節を置換したり5回も入院している。超高齢化時代、昔からの”厄年”は時代遅れだが、代わって80歳代が厄の10年かもしれない。健康に留意、元気に80代を乗り切ろう。88歳を迎えての感想と自戒。
競泳の池添瑠花子選手が白血病を公表したことについて桜田義孝五輪相が”がっかりした”と発言した。これをめぐって野党国民民主党の玉木雄一郎代表と枝野幸男民主党代表が口をそろえて”閣僚がかける言葉か。安倍政権の体質の表れだ“(玉木代表)”お嬢さんが苦悩しているのに寄り添う気持ちがない。6年余り政権の象徴だ”(枝野代表)と批判、辞任を求めている。
桜田大臣の発言は確かに担当大臣としては”舌足らず”だが、僕には野党党首が目くじらたてて怒る問題には思えない。難問山積の国会で取り上げる問題であろうか。僕には例によって、礼のような旧態依然とした”言葉がり”の旧民主党の体質のように見えてならない。
野党であっても政権を担う意気込みの日本の政党ならば、文喜相韓国国会議長の無礼極まる”天皇陛下への慰安婦への謝罪”発言に対する批判が先ではないだろうか。文喜相議長は、かって韓日議員連盟の会長で、文在寅大統領の特使として来日、安倍総理と会談したり、民進党の代表だった蓮舫氏とも会っている人物だ。
"蛙のツラに〇〇”という言葉があるが、やはり何もしないよりは良い。寡聞にして両民主党が文喜相議長発言に抗議したという記事を見たことがない。それとも文喜相議長発言を黙認しているのであろうか。少なくとも桜田大臣”いじめ”より先である。
77年前の昭和17年(1942年)2月16日付の朝日新聞1面トップ記事は「落下傘部隊蘭印奇襲 陸軍部隊スマトラに進駐 海軍部隊メナド攻略参加」という見出しで、陸軍落下傘部隊がが14日、スマトラの油田地帯のパレンバンへの降下に成功したニュースを伝え、同時に1か月前の1月11日、セレベス島メナド(マナド)攻略戦に海軍落下傘部隊が参加していたことを明らかにした。大本営は15日午後5時の発表でメナドへの降下を、10分後の発表でパレンバンへの降下を伝えている。
何故、このような形で日本最初のメナドへの落下傘部隊を秘匿したのか、一般にはパレンバンへの降下を計画していた陸軍側の申し入れによるものだとされている。メナド占領を伝える1月13日付朝日新聞の見出しは「蘭印に敵前上陸 タラカン島(蘭印ボルネオ石油基地)の敵忽ち降伏 セレベス島メナド占領}で、赫赫たる戦果をあげた落下傘部隊については全く触れていない。
昨日、衆院予算委のテレビ中継を見たら、民主党時代、党の代表、幹事長を歴任、政権でも副総理、外相を務めた岡田克也氏が”立憲民主党.無所属フォーラム”を代表して質問していた。途中からチャンネルをまわしたので前後関係がわからなかったが、先日、安倍晋三総理(自民党総裁)が党大会で”あの悪夢のような民主党の時代”と発言したことに対して反論していた。
安倍総理は自民党総裁として党大会で発言したものと思うが、事実であっても岡田氏にとってカチンとくるのはわかる。しでかし、問題山積の国会で審議されるべき問題だろうか。質問するほうもそうだが、答弁する安倍総理もも大人げない。
民主党政権(2009年ー12年)時代を僕なりに振り返ってみた。”消えた年金”などの失政で自民党が選挙で大敗、鳩山由紀夫内閣が颯爽と登場した時の政権支持率は60・6%を越えた。二大政党時代を思わせたが、”政治とカネ”をめぐって政治が混乱、それに3.11の東日本大震災後の対応を誤り、3年3か月の民主党政権は3人も総理が変わり、支持率は10-20%台に低迷した。
岡田氏の”失言”撤回に対して、安倍総理は言論の自由だと反論、”少なくともバラ色の時代ではなかっ”と切り返した。僕も安倍総理に同感だが、将来、安倍長期政権は”悪夢だった”と批判されないようかじ取りをお願いします。
ベランダの鉢植えの木春菊だと思いますが、老妻はマーガレットと呼んでいます。マーガレットの方が可愛いですね(写真練習)
ブッシュ大統領と金正恩委員長との2回目の米朝首脳会談が2月27日から28日、ベトナムの首都ハノイで開催される。会談場所は当初、米側から中部ベトナムの観光地ダナンが提案されたが、北朝鮮側の申し入れでダナンに変更になったようである。
たった開催地の変更だが、新聞社の外信部時代の大半がベトナム戦争(1955年ー75年)であった僕ににとっては、当時が回想され興味深く感じた。ブッシュ政権はおそらく治安上の理由から、過去に何回も国際会議の経験を持つ、ダナンを提案したと思うが、北朝鮮のダナン感はどうだろうか。ベトナム戦争時代、ダナンは北朝鮮が支援し同盟国であった北ベトナム(当時)と敵対関係にあった南ベトナムの地で、米国海兵隊の上陸地である。しかも大激戦地であった。
これに対してハノィは数少ない昔から同盟関係にあった北ベトナムの首都であり、祖父の金日成委員長も過去にハノイを訪れ,ホ.チー.ミン大統領とも会談をもている。ベトナム戦争時にはハノイへ飛来した米国の戦闘機を北朝鮮の戦闘機が空中戦で撃ち落としている。戦死した北朝鮮兵士の墓もあるということだ。その意味では、北朝鮮にとってハノイは当然な選択だ。
東西冷戦下、社会主義国を中心に新興国同盟の動きがあり、1963年にはジャカルタでスポーツ大会まで開かれている。北朝鮮も北ベトナムもこの参加国だった。あれから半世紀以上、一周遅れの北朝鮮も国際社会に仲間入りできるかどうか。