今日2月11日は建国記念日、国民の祝日だが、戦前この日は紀元節として国をあげて祝った、学校では式典があり、子供たちにはお祝いの紅白の饅頭などが配られたものだ。戦後70余年たち、紀元節を祝った世代も後期高齢者、それも80歳以上の年寄りだけに限られてきた。
数年前のJC(日本青年商工会議所)の調査によると、建国記念日を正しく理解している日本人は19.3%しかいない。神話のニギニノミコトが高天原から高千穂の峯に降臨し、その曽孫に当たる神武天皇が即位された記念日である。戦前の日本人は、子供まで全員、このことを知っており、元旦、天長節(天皇誕生日)明治節(明治天皇誕生日)と共に四大節と呼んだ。
四大節には授業はなく式典が催された。70余年前のこと、記憶が薄れてきたが,式典は講堂など一堂で行われ、まず、奉安殿から御真影(天皇陛下のお写真)が運ばれてきた。式典は国旗掲揚、ピアノの伴奏の礼で始まり、君が代の斉唱、校長先生の教育勅語の朗読、訓話、式歌(紀元節歌)が合唱された。
#紀元節歌(高崎正風.作詞 伊沢修二.作曲 1843年)
雲にそびゆる高千穂の高嶺おろしに草も木も なびしふしけん大御世の仰ぐ今日こそ楽しけれ
今年は建国,皇紀2670年の節目の年であるが、国家的な催しは何もない。世界的に建国記念日に国の催しがないのは珍しいのではないだろうか。今日の祝日はハッピー.マンデイの休日ですませたくない。紀元節には門(かど)ごとに日の丸が掲げられていた。
わが家の近くの築30年の広壮なマンションの庭の一角に見事な団扇サボテンが庭木として植えられている。最初は小さかったが、成長して塀の高さを超すようになり、今では樹高3メートルを超す。原産地はメキシコだそうだが、江戸時代初期、日本に渡来して、今では静岡県など温暖地に野生化しているそうだ。しかし、都会の住宅地に庭木として植えられているのは珍しい。団扇型した葉っぱ?の上に橙色した花弁らしきものが見える。マンションの所有者は台湾の方で、多分故郷を偲んで植えられたのかもしれない。
心配された東京の大雪は幸い今朝起きてみたら、屋根にうっすら白化粧する程度ですんだ。東京では昨年1月23日23センチの積雪があり、5年前には27センチの大雪に見舞われている。今回も予報では大雪とのことだったので、まずはほっとした。
記録を調べてみると、東京での積雪は明治16年2月8日の46センチが最高で、2位が昭和20年2月22日の38センチ、3位が昭和11年2月23日の36センチで、明治の豪雪を除けば、僕は体験しており、記憶にある。2位の大雪は敗戦の時の冬で、僕は中学2年生だったが、学徒動員され、蒲田駅前から1キロの雪道を軍需工場まで行進して通った。3位の時は幼稚園年少組だったが、2.26事件と重なって記憶があり、幼稚園横の坂道を木箱にまたがって滑った想い出が残っている。
4位は戦後の昭和26年2月15日で積雪33センチ、大学3年の時で、まだ都内に都電が走っていたが、すべてストップししかし通学に困った。6位は44年3月12日(積雪30センチ)で、僕は転職の挨拶回りで、銀座通りを融けた雪の水しぶきをあげながら歩いていた情景が浮かんでくる。
その後転職、転勤で郡山、札幌と北国での生活が10数年続き、僅かばかりでの雪では驚かなくなった。しかし、加齢と共に身体が動かなくなり、家の周りの僅かな除雪も凍結を恐れ、家人に任せることにした。はるか遠くの記憶の中には犬と一緒にかけずり回ったり、雪だるまをつくったりした想いである。もう70余年も昔のことになる。
雪祭り開催中の札幌は記録的な寒波に襲われ、8日の日中の最高温度はマイナス10℃以上、上がらず、昭和54年(1974年)以来40年ぶりの寒さだという。札幌の最低気温は53年12月17日のマイナス19.4℃だが、いずれも僕が札幌に在勤中(昭和46年ー56年)の記録である。
東京生まれ、東京育ちの僕だが、何故か転勤の勤務地が、長野、郡山と北国が多かったが、札幌の寒さは内地(本州)とは違う。僕はそれを知らず、長野生まれの同じ転勤者と共に、札幌五輪目当てに開発された新開地に一軒家を借りた。大倉山ジャンプ台が遠望でき自然に恵まれた地で、公害の東京に比べれば、育ち盛りの子供を育てるには最高の地であった。
しかし、北海道の長い、厳しい冬を体験したことがない僕らには誤算があった。札幌では11月初めから4月末までは”冬”であり、好きなゴルフもできない。それよりうかつにも、一軒家では降雪があると、屋根からの雪下ろしや、道路の雪かきが必要なことを知らなかった。凍結した道を歩くのが難しく、何回となく転倒し、痛い目にあった。
でも、転勤族にとっては札幌は天国だという。確かに本州に比較すれば、大自然に恵まれており、食べ物もおいしい。長い冬も部屋にいる限りは住宅構造が北国用にできており、灯油ストーブをガンガンたけば、半袖シャーツにビールといのも嘘ではない。
東京も朝から雪がチラチラし始めてきた。予報では大雪になりそうだという。しかし、札幌に比べればたかが知れている。80歳半ばを過ぎた老夫婦二人、子育てで追われていた40年前の札幌の冬を想い出した。
東京は今日、都心でも最高17℃、4月上旬、桜の咲く陽気であった。この季節に誘われて、室内に置いていた鉢植えのシンビニュームが満開だ。30年前、旧友の夫人から株分けして貰ったものだ。(練習用写真)
日本の最東端にある根室のノサップ岬に立ち、ロシアが戦後70余年も占拠続けている北方領土を望見した人はどのぐらいいるだろうか。岬から僅か3.7キロ海の先には領土の一つ、歯舞群島の貝殻島が文字通り指呼の先にある。海を渡れるのならば、1時間の距離である。
今日2月7日は「北方領土の日」である。「北方領土返還全国大会」が東京で開催されるほか各地で返還要求大会が催されるが、国民の関心は毎年のことながら今一つの感がする。が、安倍総理はすでにプーチン大統領と26回も会い、今年も6月のG20大阪サミットに向けて、”1956年の日ソ共同宣言を基礎にした平和条約締結への話し合いを前進させたい”と、繰り返し述べている。
2016年の「北方領土の日」の小ブログは”もっと騒がなくては”と、領土返還に対する全国的な世論の盛り上がりのなさを指摘している。僕は1980年代、約10年、北海道に在勤したことがり、ノサップ岬へも出かけたことがあるが、全国的には雪祭りや流氷観光で北海道へ出かけても貝殻島をみに根室へ行った人はあまりいない。
昨日、国会質疑をテレビで見ていたら、野党の質問者が安倍総理に対して、総理が”固有の領土”、不法占拠”という言葉を使用しないのは何故かと質問いていた。一部のマスメデイアも総理の頭なの中には四島返還ではなくて二島返還プラス@があると推測しているが、今年の「北方領土にあたって募集した最優秀作標語は◇ぼくたちが四島にかける平和な橋ーである。
厚労省の”不正統計“の再調査について、安倍晋三総理は極力内部の職員んを排除したいと国会答弁で述べた。連日、国会で野党からの追及に会っているが政府答弁はシドロモドロ、改めて厚労省の調査のずさんさを浮き彫りにしている。
麻生副総理の過去の失言を調べるため、総理時代(2008年9月―09年9月)1年間の小ブログを読み直したら、厚労省に関連した二つの記事があった。一つは選挙前にして自民党が機能が肥大化した厚労省を分割しようという動きに対して、小ブログは、自分の小さな体験から「分割より内部点検を」と提案している。他の一つは麻生内閣の将来への年金に関する「万年安心プラン」の厚労省試算について専門家”が”数字合わせだ”と指摘したのに対して、当時の舛添要一厚労相は”努力目標”だと国会答弁している。小ブログはこれへの反論だった。
当時、年金の改竄記録が問題になっていた時で、厚労省は対象者には面接調査すると約束していたが、社会保険庁に改組された今もって、対象者の一人である、僕の所へは調査に来ない。どうも不正統計は厚労省の体質的なものがあるみたいだ。やはり、厚生省と労働省と異質の役所が”野合”したり、70余年前の復員省の業務なのか戦争中の遺骨収集まで業務にしている多様性がどこかで影響しているのではないか。今回の”不正統計”を機会に分割改組を再検討してはどうか。
麻生太郎副首相兼財務相の”失言”をめぐってまた野党が騒いでいる。麻生大臣が故郷福岡の国政報告会で”年寄を悪く言うヤツがいるが、悪いのは子供を産まなかったほうだ”と発言した。早速、野党の”言葉狩りに会い、撤回謝罪したが、どっちもどっちだ。当面の問題、厚労省の統計不正問題とは無関係、時間の浪費である。
麻生大臣は4年前にも同じ発言をしているそうだが、10年前の総理時代を調べると”年寄りは働くしか能力がない”という失言もしている。この人は、どこまで本心かわからにが、口をすべらす癖があるみたいだ。そこを見込んで、野党は意識的に言葉刈りをしているように見える。
麻生大臣は昭和15年生まれの78歳、総理時代は68歳だったから、”年寄りは働くしか能力がない”など元気なことを言っていたが、78歳になって、自分たち世代を悪く言う世相に気がついたたのかもしれない。たしかに小子高齢化時代、若い世代から見れば、年寄りは,全世代福祉の足を引っ張っている存在に見えるのかもしれない。
少子高齢化は将来の国力の低下につながる。年寄りを悪く言っても始まらない。政治の力で産める環境づくりをすることだ。それにはアラウンド80歳の政治家は第一線から勇退したほうがよい。