許すことの大切さについて
幼少期に両親に「大事にされなかった」という思いをもったまま育った子供がもつ感情。「わかってほしい」
この気持ちをどう整理するかで、その人のその後の人生は左右されるのではないかと思います。なんというか、少し違いますが、私自身がいろんな理由で親とすれ違い。自分の中で作り上げてしまっていた気持ちがまさにそんな感じでした。実際には、私自身にも起因する被害妄想でもあったかもしれないのですが。
過去に自分が大事にしてもらえなかったという残念な気持ち。それを「仕方がない」とおもえるかどうか。
「大事にできなかった理由が、そのころの相手にもあったのだ。その人個人のせいではなくて、さらにその親やそのまた親までさかのぼった連鎖の結果なのだ。」ということに気付けるかどうか。
それが、許せるかどうかにつながり、自分自身への許しへもつながる。
損をしたような気分。たしかにあるかもしれない。でも、「わかってほしい」という気持ちが捨てられると楽になる。ある意味、あきらめにも似た、一歩引いた感覚。
なんどか自分なりに書いたことがある、そうしたことについて、素晴らしく明快に説明されているページを見つけた。
一度見てみていただきたい。
インナーチャイルドとか自己受容の話と、すごく密接に関連するテーマだと思うのです。私のように被害妄想だとしても、このことに気がついて初めて抜け出せる。そんな気がしたのです。
ご参考まで。
___________________
以下、引用です。
心屋仁之介オフィシャルブログより
http://s.ameblo.jp/kokoro-ya/entry-11451096708.html
「許せない」という出来事って結局は「奪われた」からです。
そして、許せないのは、その「奪って行ったものを返してもらってない」のです。
なにを奪われたのか。自分の好意や優しい気持ち。自分の心や体の安全。もらえるはずだった愛情。
そういったものを「奪われた」
そして、もしかしたら「謝ってもらったら」
奪われたものが返ってきて、少しは気持ちが違うのかもしれない。
でも、いまだに謝ってくれない。いまだに返してくれない。いまだにわかってくれない。
これが「許せない」の構造なのではないかと思ったのです。
もっともっと簡単に言うと「わたしは、大事にされなかった」
つまり「尊厳を奪われた」「損した」と怒っているのです。
あなたの尊厳を奪って行ったあのひとは、奪って行ったのだから「泥棒」「犯罪者」です。
だから、罰を与えないといけない。だから、仕返しする権利がある。
だから、自分と同じ辛い目に遭わせたい、つまり、相手の「大切なものを奪ってやりたい」
「相手が傷つくようなことをして、尊厳を奪ってやりたい」
これが、「許せない」の正体ではないかなと思ったのです。いかがでしょうか。
そして、その「奪って行った」のが多くの場合「身内」です。
いちばん、与えてくれるはずの人。いちばん、自分の尊厳を守ってくれるはずの人。
そのひとから奪われた、それは「大損」です。
「とりかえしがつかないぐらい」の損。「返してもらいようのない」損。だったりします。
だから「いまさら謝られても仕方ないのよ」となったりしてしまう。
この「奪われたもの」はもうどうにもやり場のない悲しみとして深い傷となって残ってしまった。
「返してよ」「返せないなら、私と同じぐらいつらい目をしてよ」
これが「わかって欲しい」です。
返せないなら、せめて「わかって欲しい」
ここが満たされないとこの傷は終わらないのです。
いま、許してしまうと「損」してしまうのです。
むっっっちゃ、悔しいのです。損するのです。
「大事にされなかった」は、やがて「わたしは、大切にされる価値のない人間なんだ」
「わたしは、愛される価値のない人間なんだ」
という「連想」へと発展した。
だから、価値を作ろう。だから、認めてもらえるようになろう。
だから、愛される人になろうと、「頑張り」始めたのです。
ここで、すでに「大前提」が間違ってしまったのです。
愛されるひと なのに「愛されてない」と「思い込んで」しまったのです。
あなたのことを、愛「せ」ない人がいたのです。
愛「せ」ない理由があったのです。でも、あなたが愛「され」ない理由はなかったのです。
あなたは、愛「される」存在だったのです。
でも、愛「せ」ないひとのところに暮らしてた。
そこで、スタートが狂っただけ、ちょっと、間違っちゃった。
でも、その分、愛「され」るために頑張って色んな成長を遂げてきた。
色んなことを頑張ってきた。だから、もう愛される人であるんだ、そこに戻っていい。
ということ、そして、奪った人を許しても、損してもいい、ということ。
許しても、自分は損しないんだ、ということ。
あなたには、いっぱい「ある」んだということ。
あなたは、許しても「愛されるひと」なんだということ。それを信じてみる。
許さないと幸せになれない、ということはないと思います。
かといって、「許せない」を抱えたままでお金や成功や幸せな家族を手に入れて
「しあわせ」になったとしても
「許せない」を持っている以上、「損したくない」「愛を奪われたくない」
というかたくなな心を持ち続けているのと同じ。これは 幸せ とは呼びにくい。
最後は、自分で杭を抜く勇気、「許す勇気」です。「許す」のは、しんどいことです。
とても悔しい、とても許せない。それでも、許す。できなくても、やってみる。
損してみる、と覚悟する。そうしないと最終的には損をすると思うんです。
あなたにひどいことをした人は、きっとあなたにとっては「犯罪者」です。
それを「許す」とは、「無罪放免」にして釈放するということです。
これほどの「損」はないでしょう。
「許してはいけない」「許すべきではない」
「罰を与えなければいけない」という思いがあるかもしれません。
でも、あえて許してみる。それは「勇気」です。
許すということは「損したままでいい」「返してもらわなくてもいい」という覚悟をすることです。
究極の、損ですね。
「犯罪者を許さない」と、その人を「見張り続ける人生」になってしまいます。
その犯罪者が死刑になったとしても損したものは返ってきません。
返って、こないのです。たまに、返ってきます。
それを見張り続けると、あなた自身が自由になれない。だって、ずっと見張っていないといけないのですから。
あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!
損してやるーーーーー!!!!!で、終わり。にしてみませんか。というご提案でした。
幼少期に両親に「大事にされなかった」という思いをもったまま育った子供がもつ感情。「わかってほしい」
この気持ちをどう整理するかで、その人のその後の人生は左右されるのではないかと思います。なんというか、少し違いますが、私自身がいろんな理由で親とすれ違い。自分の中で作り上げてしまっていた気持ちがまさにそんな感じでした。実際には、私自身にも起因する被害妄想でもあったかもしれないのですが。
過去に自分が大事にしてもらえなかったという残念な気持ち。それを「仕方がない」とおもえるかどうか。
「大事にできなかった理由が、そのころの相手にもあったのだ。その人個人のせいではなくて、さらにその親やそのまた親までさかのぼった連鎖の結果なのだ。」ということに気付けるかどうか。
それが、許せるかどうかにつながり、自分自身への許しへもつながる。
損をしたような気分。たしかにあるかもしれない。でも、「わかってほしい」という気持ちが捨てられると楽になる。ある意味、あきらめにも似た、一歩引いた感覚。
なんどか自分なりに書いたことがある、そうしたことについて、素晴らしく明快に説明されているページを見つけた。
一度見てみていただきたい。
インナーチャイルドとか自己受容の話と、すごく密接に関連するテーマだと思うのです。私のように被害妄想だとしても、このことに気がついて初めて抜け出せる。そんな気がしたのです。
ご参考まで。
___________________
以下、引用です。
心屋仁之介オフィシャルブログより
http://s.ameblo.jp/kokoro-ya/entry-11451096708.html
「許せない」という出来事って結局は「奪われた」からです。
そして、許せないのは、その「奪って行ったものを返してもらってない」のです。
なにを奪われたのか。自分の好意や優しい気持ち。自分の心や体の安全。もらえるはずだった愛情。
そういったものを「奪われた」
そして、もしかしたら「謝ってもらったら」
奪われたものが返ってきて、少しは気持ちが違うのかもしれない。
でも、いまだに謝ってくれない。いまだに返してくれない。いまだにわかってくれない。
これが「許せない」の構造なのではないかと思ったのです。
もっともっと簡単に言うと「わたしは、大事にされなかった」
つまり「尊厳を奪われた」「損した」と怒っているのです。
あなたの尊厳を奪って行ったあのひとは、奪って行ったのだから「泥棒」「犯罪者」です。
だから、罰を与えないといけない。だから、仕返しする権利がある。
だから、自分と同じ辛い目に遭わせたい、つまり、相手の「大切なものを奪ってやりたい」
「相手が傷つくようなことをして、尊厳を奪ってやりたい」
これが、「許せない」の正体ではないかなと思ったのです。いかがでしょうか。
そして、その「奪って行った」のが多くの場合「身内」です。
いちばん、与えてくれるはずの人。いちばん、自分の尊厳を守ってくれるはずの人。
そのひとから奪われた、それは「大損」です。
「とりかえしがつかないぐらい」の損。「返してもらいようのない」損。だったりします。
だから「いまさら謝られても仕方ないのよ」となったりしてしまう。
この「奪われたもの」はもうどうにもやり場のない悲しみとして深い傷となって残ってしまった。
「返してよ」「返せないなら、私と同じぐらいつらい目をしてよ」
これが「わかって欲しい」です。
返せないなら、せめて「わかって欲しい」
ここが満たされないとこの傷は終わらないのです。
いま、許してしまうと「損」してしまうのです。
むっっっちゃ、悔しいのです。損するのです。
「大事にされなかった」は、やがて「わたしは、大切にされる価値のない人間なんだ」
「わたしは、愛される価値のない人間なんだ」
という「連想」へと発展した。
だから、価値を作ろう。だから、認めてもらえるようになろう。
だから、愛される人になろうと、「頑張り」始めたのです。
ここで、すでに「大前提」が間違ってしまったのです。
愛されるひと なのに「愛されてない」と「思い込んで」しまったのです。
あなたのことを、愛「せ」ない人がいたのです。
愛「せ」ない理由があったのです。でも、あなたが愛「され」ない理由はなかったのです。
あなたは、愛「される」存在だったのです。
でも、愛「せ」ないひとのところに暮らしてた。
そこで、スタートが狂っただけ、ちょっと、間違っちゃった。
でも、その分、愛「され」るために頑張って色んな成長を遂げてきた。
色んなことを頑張ってきた。だから、もう愛される人であるんだ、そこに戻っていい。
ということ、そして、奪った人を許しても、損してもいい、ということ。
許しても、自分は損しないんだ、ということ。
あなたには、いっぱい「ある」んだということ。
あなたは、許しても「愛されるひと」なんだということ。それを信じてみる。
許さないと幸せになれない、ということはないと思います。
かといって、「許せない」を抱えたままでお金や成功や幸せな家族を手に入れて
「しあわせ」になったとしても
「許せない」を持っている以上、「損したくない」「愛を奪われたくない」
というかたくなな心を持ち続けているのと同じ。これは 幸せ とは呼びにくい。
最後は、自分で杭を抜く勇気、「許す勇気」です。「許す」のは、しんどいことです。
とても悔しい、とても許せない。それでも、許す。できなくても、やってみる。
損してみる、と覚悟する。そうしないと最終的には損をすると思うんです。
あなたにひどいことをした人は、きっとあなたにとっては「犯罪者」です。
それを「許す」とは、「無罪放免」にして釈放するということです。
これほどの「損」はないでしょう。
「許してはいけない」「許すべきではない」
「罰を与えなければいけない」という思いがあるかもしれません。
でも、あえて許してみる。それは「勇気」です。
許すということは「損したままでいい」「返してもらわなくてもいい」という覚悟をすることです。
究極の、損ですね。
「犯罪者を許さない」と、その人を「見張り続ける人生」になってしまいます。
その犯罪者が死刑になったとしても損したものは返ってきません。
返って、こないのです。たまに、返ってきます。
それを見張り続けると、あなた自身が自由になれない。だって、ずっと見張っていないといけないのですから。
あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!
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