図1. 渋谷駅周辺(1968年9月)
図1は、戦時下の異常事態をうかがわせる映画のようなこの画像が個人的には好きである。前後のネガデュープをみてこの理由がわかった。当時学生運動が盛んであり渋谷駅前にも学生運動の活動家達がデモをやっていた。デモが大通りに繰り出し都電がストップしていた。そこで乗客達が都電を降りて歩き始めた。確かに異常事態であったのだ。
都心でありながら背景が写っていないというのが奇跡に等しい。当時はそれほど街も明るくなかったのだろう。都電を撮るという鉄ちゃんに誘われて、街を観察するよい機会だったし、どこかライフ誌のドキュメンタリーな写真に憧れていたのかもしれない。
図2. 渋谷駅東口駅前(1968年9月)
当時の駅前には、必ず「ハチブドー」のサインを見かけた。私は高校生だったので飲んだ記憶がないのでWEBで調べた。そしたら今も合同酒精株式会社の甘味果実酒として発売されている。明治14年以来の伝統的なお酒だが、当時のワインは酸っぱく人々に口に合わなかった。そこで蜂蜜をいれるという商品を開発したとある。その後ワインは1970年まで市民権をえることがなかったと記載されている。人々の味覚も明治、大正、昭和と随分と変わってきた。この看板があった場所が宮益坂下とすれば現在雑居ビルだろう。
図3. 渋谷駅東口駅前(1968年9月)
線路上から撮りたい。そこで入ってくる都電を観察していたら交通信号が変わらない限り都電は停留所にはいってこないことに気がついた。だからその隙間をぬって線路上から撮影した。写真から次第に都電の姿が小さくなってゆく。それは私の関心が街や人々の姿にうつっていったのだろう。それとともに写真自体にも興味が失せていった。
図4. 渋谷宮益坂(1968年9月)
これが宮益坂だとわかるのは、正面に渋谷駅らしき東急百貨店の看板があり都電の線路は単線だ。つまり国道246号線を走ってきた複線の線路は、宮益坂の上で二手に分かれ、1つは渋谷駅へ、もう一つは駅前から赤坂へ、といった具合に渋谷の街区をグルッと回っていた。ヨーロッパの狭い街の中でよくあるワンウェイの折り返しパターンだ。この画像は宮益坂をモーターのうなりを響かせながら駆け上がり赤坂へ向かう都電だ。
鉄ちゃんに誘われて都電を撮るというのはよい経験だったとおもう。貧乏高校生のもらいもの撮影機材でも、都電は速度が遅いから1枚1枚を丁寧に撮れたし、身近な被写体だったから学校が終わったあとで撮りにゆきやすかった。都電の運賃が15円から20円に値上げしたころであり、貧乏高校生にはありがたい環境だった。
そして当時の定番フィルムであるコダック・トライXの長尺フィルムを鉄ちゃんの高校の暗室で1本単位の長さに切り分けてくれて、それを250円位で購入しフィルム現像は自分で行った。だから貧乏高校生でも撮影できたわけである。
そんな風に都電の撮影をしながら、次第に背後の街の姿や人々へと感心が開いていったのであった。
思い入れの余談
さてその貧乏高校生のもらいもの機材であるキャノン6L(ブログでは2008年1月2日)は、その後20年ほど経過し日沖宗広さんの本(注)に刺激されて図5のようなシステムになっていた。
キャノン6Lのファィンダーには望遠用距離計が付いていたので、これで距離を合わせ上のファィンダーをのぞいて撮影するという面倒な操作が必要だけど、ライツ・ヘクトール135mmがつかえるようになった。広角側にはモノクロ画像が鮮明なライツ・ズマロン35mm/F3.5(キャノン6Lには広角ファィンダーが内蔵されていた)、そして標準レンズには、空気まで写すかとする解像度の高いシュナイダーの標準レンズをつけたコダック・レチナ3C、これでモノクロ都電&街撮影に最適な高性能システムができた。全部で8万円もしなかった安価なシステムだった。
この中古システムにトライXをつめ、このシステムで東京中の都電と街を記録しておきたかったと思った時、既に東京の道路路上から都電はなくなっていた。
そんな憧憬的機材システムだから、その後過半は処分した。少なくとも都電を撮影していた高校生の頃に、こうした機材への知識とシステムが欲しかったなぁーとする過去の捨てきれない強い思い入れがある。高校生の時にもっと機材のことを勉強しておけば良かったけど、そんな本も雑誌もなかったし、それに中古機材のオタクが私の回りにはいなかった。オタクのいうことに二理はないが少なくとも一理はある、それが教訓かな。
図5. キャノン6Lのシステム
注)日沖宗広:プロ並みに撮る写真術Ⅱ,勁草書房,1993年
Canon6L,50mm/F1.4,トライX
Nikon Coolpix990
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