
私たちの原風景、桃源郷コウモリレストラン
私たちは17年前に北見市に転居するまで長年、旭川市に住んでいた。
旭川市に住んでいた頃は手近なオショロコマ釣り場として子供釣れでよく出かけた場所があった。
そこは活火山の十勝岳山麓で石狩川水系の上流域にあたる。
自然度は抜群に高く、春には美しいムラサキヤシオツツジの大群落が咲き誇り、川にはオショロコマが無尽蔵にいた。
実は、当初そこにオショロコマがいるとはまったく知らなかったが、ある偶然の出来事からそこが素晴らしい釣り場であることを知った。
家族連れで蝶を採集しに出かけた1986年8月24日、末娘が川沿いの高い木の枝にコウモリが一匹ぶら下がっているのを発見した。
苦労してそれを回収してみると、なんと釣り針を呑み込んだコウモリのミイラ化した死骸が釣り糸で木の枝からぶら下がっていたのであった。

状況を想像してみた。
ある日の夕方、釣り人が長竿を振ってエサ付き針をポイントに振り込もうとした瞬間、それを昆虫と間違って索餌飛翔中のコウモリがくわえ、針がかりした。パニックに陥ったコウモリは急上昇し、道糸が高い木の枝にグルグルとからまった。釣り人が引っ張ると道糸が切れ、コウモリは木の枝に繋がれた格好になってしまった。釣り人は舌打ちしてコウモリを放置して引き上げ、コウモリはやがて衰弱・餓死してそこにぶら下がったのではないかと思われた。
子供たちと地面を掘ってコウモリをねんごろに葬り、みんなで手を合わせて神妙にお葬式ごっこをやった。
へーっ、きっとここには魚がいるんだと直感し、次回は釣り竿を持参して釣ってみると果たして良型オショロコマが入れ食い状態にいた。

そこは水量豊かな清流が流れ、魚も多いが自然がとても豊かで、そこにいるだけで心が安まる素晴らしいところであった。
以来、春から秋までの間、月一度くらいは家族でそこへ炊事遠足に出かけた。

メニューは羊肉を七輪の炭火で焼いて食べるジンギスカン料理か、野外で作るカレーライスと決まっていたが、無尽蔵にいたオショロコマも一人5-6匹くらい釣って、炭火などで焼いて食べた。

オショロコマは渓流魚のなかではとりわけまずい魚だが、ばたばたやっているのを生きたまま、そのまま塩もふらずに炭火で焼いて食べると鮮度抜群のせいか結構おいしかった。

いまにして思えば残酷だが踊り焼きなどと呼んで子供たちの大好物であった。

私たち家族はあまりにも素晴らしいその場所を、密かにコウモリレストランと名付けて誰にも教えない家族だけの秘密の場所にしていた。

末娘が脇にかかえているのはおいしい夕張メロンです。



ある年、急に狭い林道を工事用トラックが走り回るようになり、やがて少し上流に大きな取水ダムが造られた。
河畔の木々も相当に伐採され一気に自然度が低下した。
オショロコマは激減したがそれでも私たち家族が食べる程度は釣れた。
それからしばらくたったある年、大型バスが2台やってきた。釣り竿を持った人たちが沢山降り立った。
近郊の、とある町の町内会レクレーションでみんなでオショロコマ釣りにきたという。
数十人の人たちが半日かかって、各々ビクを何杯もお代わりするほどの大量のオショロコマを根こそぎ釣っていった。
数年が経過し、取水ダムができてからは川に不思議な現象が始まった。
川底が目に見えて年々低くなり川底が深く掘れてきた。川岸は極端に乾燥しはじめ、細いハンノキのみが密生して生え、川岸すれすれまでクマザサが繁茂してきた。乾燥した河川敷が広がって大石ごろごろになり、エゾアカガエルやエゾサンショウウオが多かった川沿いの湿地は全部消え、何種類もいたトンボたちもいなくなった。蝶の姿もめっきり減った。川底には細かな石や砂がなくなり、へどろ状の堆積が目立つようになった。
オショロコマがさらに激減した。
あれほど素晴らしかったコウモリレストラン周辺の自然はダム一基のために時間の経過とともに見る影もなく貧相になり、やがて私たちの足もなんとなく遠のいてしまった。恐らく継時的に川を見ていなければこのような変化には誰も気づかないだろう。
そして私たちは旭川を離れて私の故郷の北見市へ転居することになり、それから早17年が経過した。
あの美しかった桃源郷 B川水系のコウモリレストランは今現在、いったいどうなっているのであろうか。
この項 続く。

