コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

バカバカいうほうがバカじゃ

2013-07-14 08:35:00 | 3・11大震災
ネットを読んでいると、鳩山元首相と菅直人元首相はアホバカマヌケゴミカスキチガイのようにいわれているわけだが、おいらへそ曲がりなので最近のお二人の発言を。ふんふん、しごく、まっとうじゃないか。

菅直人元首相、3.11 原発事故当時について、ユーザーからの質問へ回答ツイート
http://www.huffingtonpost.jp/2013/07/10/naoto_kan_twitter_n_3571118.html

じぇじぇ、「メルトスルー」しているんだなやっぱり。

日本が尖閣を盗んだ? 鳩山元首相がその真意を激白
http://nikkan-spa.jp/472646

史資料に目を通した人の話を聴くと、尖閣も竹島も日本は有利だそうだが、争点はあるそうだ。つまり、100%日本てわけじゃない。

鳩山元首相と菅直人元首相をアホバカマヌケゴミカスキチガイのように云う人の書き込みを読むと、それでも君よかはるかにマシじゃね、ゼッテー、としんみり思うな。
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おい、吉田

2013-07-10 23:40:00 | 3・11大震災
3.11の原発事故の際し、東電福島第一原子力発電所所長として陣頭指揮をとっていた吉田昌郎氏が食道がんにより亡くなったと発表された。TVのニュースでは、吉田氏の在りし日の姿として、事故当時の東京の東電本店会議室と福島第一原発の吉田氏の緊迫したやりとりが放映された。

「おい、吉田、ベントはやっているのか!」
「はいはい、やってます、やってます」


といった、東京本店のTV会議室に居並ぶ数十人の上司たちから、次々に指示や質問、確認が浴びせられ、現場の吉田氏が必死にそれに答えている様子だった。



「緊迫したやりとり」と前記したが、印象としてはそうではなかったことを想い出した。てんでんばらばら、思いつきの指示や質問、確認を投げつけられているように思えた。その印象があながち的外れではなかったことは、当時の管首相の福島第一原発緊急視察で明らかになった。この一件については、管元首相に毀誉褒貶があるが、いまも変わらぬ疑問は、首相対応が吉田所長に押しつけられたことだ。

「想定外」の事態に、現場の対応に追われている指揮官に、事故のブリーフィングをさせたのである。いわば火事現場で消火作業の指揮をとる消防隊長に、解説を強いるようなものだ。菅元首相の強引な「政治主導」と結びつけてこの件を批判する向きがあるが、それ以前に、多少でも会社組織やその指揮命令系統を知る人間なら、これは現場ではなく上層部が対応すべき事柄だとわかるはずだ。

少なくとも、吉田所長以外の者が首相に同行して、現在進行中の事故対応を妨げず、吉田所長の負担をできるだけ軽くするのが第一くらい、誰でもわかることなはず。「なんで私が首相の対応まで・・・」とさすがに吉田所長も漏らしたというが、下手をすれば、首都圏壊滅の恐れがあった大事故に際しても、首脳陣の無為と無責任、危機意識の乏しさを露呈させたとみた。

55歳になる現場のトップをつかまえて、「おい、吉田」と呼び捨てにする上司は、よほどの人物なのだろう。「豪放磊落」で「親分肌」という社内評価なのかもしれない。ならば、まず首相の視察を止める、あるいはそれができなければ同行して、首相の追及の矢面に立つ。それが上司の組織の道理というものだろう。

しかし、上司の誰もそうはしなかったようだ。もちろん、その理由はいくらでもある。なにより、事故現場のことは吉田所長がいちばん知っている、首相を納得させられるのは彼しかいない。「おい、吉田、頼むぞ」と。しかし、そこでは時々刻々変化して寸秒も目を離せぬはずの事故対応は眼中になく、「首相をなだめる」という自らと会社の保身が優先している。

たぶん吉田氏は福島第一原発の事故対応に、心身ともに消耗して病を重くしたのだろうと誰でも思う。ある意味で、吉田氏は福島第一原発事故を一身に背負い、また背負わざるを得なかった。では、「おい、吉田」と安全な東京の本店会議室から、指示や質問、確認を浴びせていた、当時も今も「無名」の吉田氏の上司たち、首脳陣の面々はどのように、事故責任を背負った、背負っているのだろうか。

東京電力の社長とか何人か、本当に刑務所へ行くべきだと思う」のは村上春樹ばかりではない。吉田昌郎氏のご冥福をお祈りする。

(敬称略)
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信ちゃん!

2013-07-09 10:54:00 | 3・11大震災
もしかして、「ノブちゃん」って読みました? 「シンちゃん」です。
またまた好インタビュー発見です。3.11の翌4月にいちはやく脱原発宣言を発表して世間を驚かせた、あの城南信用金庫です。インタビュアーは「もんじゅ君」なるゆるキャラ? ちなみにコタツの一推しゆるキャラは、もちろんふなっしーです。

城南信金さん、「CSRとしての脱原発」ってどういうことですか?
http://blogos.com/article/65122/


城南信用金庫のマスコットキャラクター「信ちゃん」です。

(敬称略)
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脱原発はクビ

2013-03-24 07:37:00 | 3・11大震災


NHKにもこんな人がいたんだな。おそらく来週の週刊誌は、この人の悪口でにぎやかになるだろう。目立ちたがり、人望がなかった、報道のエースとかんちがい、異動に不満があった、じつは派閥争いの余波、などなど。

堀 潤 twitter 
https://twitter.com/8bit_HORIJUN/status/310985898982510592
https://twitter.com/8bit_HORIJUN

震災から2年。原発事故発生のあの日私たちNHKはSPEEDIの存在を知りながら「精度の信頼性に欠ける」とした文部科学省の方針に沿って、自らデータを報道することを取りやめた。国民の生命、財産を守る公共放送の役割を果たさなかった。私たちの不作為を徹底的に反省し謝罪しなければならない。

NHK堀アナ退職 原発映画が原因?2013年3月20日
http://www.daily.co.jp/gossip/2013/03/20/0005827916.shtml

容姿がいいし、笑顔がきれいだから、クイズ番組の司会や主婦向けのニュースショーには好適なはずだが、「脱原発イメージがスポンサー筋にはどうか」とスポンサーが何もいわないうちから、民放局内には先回りして「斟酌」する「やり手(ババア?)」がいるので、すぐに起用は難しいかもしれない。

ドキュメンタリー映画もつくったそうだから、ぜひ日本の、セス・マクファーレンになってほしいものだ(セスもアニメクリエーターが本職で、「過激ジョーク」で何度も番組をクビになっているそうだ)。

メタンハイドレードの開発など、福一の事故が起きなかったら、とうてい着手されたとは思えない。脱原発なんて選択肢は浮かび上がるはずはなかった。それは多様なエネルギー政策の模索にとどまらず、わたしたちの未来への考えをある意味で解放し自由なものにした。

この「事件」もそうした変化の表れのひとつに思える。もちろん、尖閣をめぐる日中衝突という安全保障問題をテコに、わたしたちの未来を狭める、憲法改悪をめざした国家主義の立て直し、という反動もいっしょに用意されているのだが。

(敬称略)
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名は体を表す

2013-03-13 02:01:00 | 3・11大震災
3.11記念の特集記事や特別番組でにぎやかだった。にもかかわらず、だからこそなのか、風化がすすんでいる気がするのは、わたしだけだろうか。この集会を知ったときも、えっ、そこまで風化はきているのかと驚いた。

「つながろうフクシマ!さようなら原発大集会」
http://sayonara-nukes.org/2013/03/130309action/

「つながろう」にはいっとき安売りされた「絆(きずな)」の焼き直しを、「さようなら」には別れ忘れを連想したからだ。そうではなくて、福島の原発事故被害と脱原発の拡がりに連帯しようということらしい。それとわかるのに、しばらく時間がかかった。あなたはすぐにわかっただろうか。

「つながろうフクシマ!さようなら原発」。たった17字に過ぎないのに、異和感がまとわりつく。ひらがなとカタカナばかりの猫なで声、ヒロシマ・ナガサキにフクシマをつなげる安直さ。フクシマにも、「過ちは繰返しませぬから」と石碑でも建てるつもりなのか。

合意形成をめざす真摯な足踏みより、人を舐めた多数派工作の泥足がみえてしまうのは、わたしだけだろうか。「福島に連帯を 脱原発集会」、あるいは「3.11脱原発集会」ではどうしていけないのか。そこに、「つながろうフクシマ!さようなら原発」やら、多様な団体・個人が参加するならわかる。

統一スローガンを掲げなければという旧態依然には、かつての「勝手連」や最近の金曜日の官邸前デモ、ツイッターやフェイスブックの呼集デモなどから、何も学んだ形跡がみられない。目的も動機も行動さえ、統一させず、参加だけを呼びかける。そんな「経験」は、まるでなかったかのようだ。

上目づかいの見え透いた言葉づかいに、かえって運動のための運動が露呈してしまっているではないか。にもかかわらず、だからこそなのか、いつものように大江健三郎が登壇席に鎮座している。君はそこから降りて、文学者の一人として、最前列にあぐらをかいて座っているべきなのに。

脱原発もヒロシマ・ナガサキの反核運動とよく似たキャンペーン運動に堕したのかと、やはり風化を思わざるを得ない。あれから、まだ二年なのに、もう二年になり、人の噂も七年になるわけか。

(敬称略)
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