コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

こぶ平と似てるよな?

2017-03-27 11:01:00 | 新刊本
いま、村上春樹の新刊、『騎士団長殺し』を読んでいる。というのは嘘で、『職業としての小説家』を読んでいるところ。さては、お前も小説家や作家になりたかった口か、と嘲笑されそうだが、さにあらず。

流行作家(複数)の取材下請けをしていた経験があるので、作家の内面への興味から彼らのエッセイや自伝風読み物に惹かれるからだ。というのも半ば嘘で、彼らの自分語りに表れるゴシップを興味本位に読みたいからだ。

他人の内面などわかるはずもない代わりに、ゴシップはよくその人を表すもの。少なくとも、そこには事実、行為や行動が含まれている。ゴシップこそ興味を持つべき、好奇心が起動するのはまずそこであり、人間への関心と言い換えたいくらいだ。

残念ながら、『職業としての小説家』にはそんなゴシップ興味を満たすものはなさそうだが、「村上春樹をめぐる冒険」について、ゴシップ視点を捨てずに良質なコラムを書く記者がいたので、ご紹介します。

相変わらず韓国ヒステリアが日本のネットを席巻していますが、政治のダメさはどっちもどっち、映画と記事においては日韓の地位はとうに逆転していると思っています。辛辣なコラムとはこんな風に書くのだという見本のようです。

【コラム】村上春樹さん、南京うんぬんより寄付の方が先では
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/03/24/2017032401722.html">http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/03/24/2017032401722.html

「騎士団長」というのはほとんど初耳に近い呼称なんだが、インテリ知識人や文学愛好家の間ではそうではなく、何か知られた典拠があるのだろうか? 

(敬称略)
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本とは本当は

2013-06-11 00:10:00 | 新刊本

ノンフィクションの「巨人」佐野眞一が殺したジャーナリズム 大手出版社が沈黙しつづける盗用・剽窃問題の真相 (宝島NonfictionBooks) [

新刊書店で丸ごと一冊、佐野盗作疑惑本が出ているので驚いた。ネットで検索してみたら、「佐野叩き」満載なのにも驚いた。たしかに佐野さんに落ち度はあるようだが、それほど大騒ぎするような事件や問題だろうかと正直思う。

「ノンフィクションの巨人」というのも、「売らんかな」の出版社がつける惹句に過ぎず、女性の有名人が出てくると必ず「美人」と冠がつくのと同様に、当人をはじめ誰もが話半分に聞き流すもの。佐野さんはもちろん醜女ではなく、十人並でもなかったが、美人というほどではなかった。ちなみに、綿谷りさは正真正銘の美人である。

上記の佐野本から執筆を依頼されながら、ボツになったという原稿が以下。疑惑を疑惑として扱うバランスの良さが「告発本」としては受け容れがたかったのだろう。たいていの人は、本とは執筆者が書くものと思っているが、たいていの場合、本とは編集者がつくるものなのだ。もちろん、だからこそ、たいていの本には読む価値がある。 

盗作事件史から考える佐野眞一の盗作疑惑事件

報道やジャーナリズムに与えた影響やダメージからいえば、上杉さんの方がはるかに深刻に思うのだが。

5分で分かる上杉隆氏 vs John Lemon氏

http://matome.naver.jp/odai/2137077849467093001

(敬称略)
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スパイはイギリスにかぎる

2013-04-09 01:48:00 | 新刊本
007の新作「スカイフォール(Skyfall)」を例によってTUTAYAレンタルDVDにて観た。主演のダニエル・クレイグより格上の俳優であるレイフ・ファインズが嫌みな上司で登場してきたから、ははあ、こいつが悪者の黒幕だぞと馬脚をあらわすのを心待ちにしていたら、なんとそういうわけだったのか。

ようやく、昨年末に買い込んだまま放置していたル・カレの新作『われらが背きし者(OUR KIND Of TRAITOR)』(岩波書店)を読みはじめる。007の原作はイアン・フレミングと誤解されているが、ジョン・ル・カレも原作者のひとりである。その証拠に、マロリー(レイフ・ファインズ)が口にしそうなことを、MI6上級職員ヘクター・メレディスは云う。

問題は、現場で仕事をしているのはわれわれだけ、ということだ。政府は腐っているし、文官の半分は頭がイカれている。外務省は夢精程度の役にしか立たないし、国は破産し、銀行屋はわれわれから金を巻き上げておいて、だまされるそっちが悪い、という態度を取る。で、われわれはどうすべきか? ママに泣きつくか、それともうまく処理するか。(150p)

(敬称略)
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君は黒犬を見たか

2013-03-15 20:51:00 | 新刊本



先日、新刊書店をのぞいたら、文春文庫から食指がうごく短編集が2冊出ていた。『1922』(スティーブン・キング)とアンソロジーの『厭な物語』。家には手持ちの未読が30冊ほどあるので、両方とも買い込むのは後ろめたい。近年ごぶさたのキングは後日の楽しみとして、『厭な物語』に。

「癒やされる」とか「愛おしい」をもじれば、「厭わしい」とか「嫌される」短編小説の名作・傑作を集めています。

それって、憎悪や悲惨、虐待や殺人、流血に苦痛だらけなのに、善意や救済はかけらもないやつでしょ。そのとおり。なんと物好きな、そんな後味の悪そうな小説なんぞ読みたくもないね。それでいい。

しかし、もったいない。勘違いだからです。読後感は、どの一篇をとっても爽やか、スカッとすること請けあいます。名作や傑作を読んだ充実感はずっしり残ります。直後の読後感は意外なほど悪くないどころか、ごちそうを食べた後の満腹感に似た悦びがあります。「後味が悪い」「最悪」「ムカツク」という感想や紹介を真に受けてはなりません。それは、「ゲテもの喰い」の優越感みたいなものだからです。

「スカッと爽やか」には、にわかに頷けないでしょうから、「充実感ずっしり」の理由(わけ)をいくつか見つくろって。まず、アガサクリスティの「崖っぷち」によくあらわれていますが、気持ちがよいくらいとても道徳的な作品です。karaさんから教わった倫理4段階論そのままに物語は進みます。

倫理には3段階ないし4段階あって、自己保存→相互性→法の支配(復讐の禁止)→自己犠牲で、これらは階層をなしていて、しかも他人に求めていいのは法の支配までなのに、どうも自分は復讐イケイケで三段階目にも到達していないのに、いきなり他人には四段階目を求める輩が多いのでいやになります。http://9101.teacup.com/chijin/bbs/1953

「崖っぷち」を眺めるクレアをはじめ、この「厭な物語」に登場する悪人や犯罪者たちは、つねにこの4段階を意識しています。強烈な自己保存の衝動に駆られていて、やられたらやりかえせの相互性に力で訴え、なんとかして法の支配を逃れようとぢたばたし、他者の自己犠牲をあてにして自らは生き延びようとします。

あなたは倫理や道徳なんて、ふだん考えてみたこともないでしょう? 彼らは焦がれたあげく自意識と重なるほど、つねに思い、悩んでいます。これほど道徳的、倫理的な人間に、俗世間ではめったにお目にかかることはできません。ま、お目にかかったが最後ですがね。

なにをいうのやら、得手勝手なだけじゃないかって? 道徳や倫理とは真逆だろうというわけですね。そうですね。彼ら悪人や犯罪者なら、こんな風に開きなおるかもしれません。

もっとも上の道徳的・倫理的行為ってのは、「自己犠牲」なんじゃないのか? ならば、悪の道を邁進することで、道徳や人倫を光りとともに降臨させて、自らは地獄に落ちる我々こそ、尊い自己犠牲を払っているともいえるわけだ。

ま、わたしがいうとただの詭弁に聴こえるでしょうが、「善人なおもて往生をとぐいわんや悪人をや」の「悪人正機説」そのものなのが、フラナリー・オコナーの「善人はそういない」です。殺される善人より、殺す悪人の方が、はるかに知的で、宗教的な理会も深いのです。

この「半端物」と渾名される脱獄囚も、いずれ殺されるかのたれ死にするのでしょうが、すでに往生しているのがわかるはずです。ほかにも、ジョー・R・ランズデールの「ナイト・オブ・ザ・ホラー・ショー」では、人殺しより犬殺しを嫌悪する道徳的な悪人が登場します。

「スカッと爽やか」するのは、わたしたちもまた、彼らのように道徳的・倫理的人間になれるのだという解放感によるものです。

そして究極の自己犠牲を捧げんと上昇することもできる。地獄へ降りずに。読者ですから、どこまでも安全な立場で、見晴らしのよい場に立てるわけです。

と、ここまでが直後の読後感です。消化不良を起こして不快感が残るという悪影響が、もっとずっと先になって出てきます。「ゲテもの喰い」の人がいう「後味が悪い」とはこのことです。

ふと考えるわけです。彼ら悪人は、道徳や倫理に縛られていないとか、縛られているとかじゃないのではないか。わたしたちが考えるプラスチック成形されたような社会道徳や人間倫理を、彼ら悪人が意識しているとはとても思えない。

概念以前、言葉以前から意識されたもの。まるで血肉をそなえるかのように、気味わるくうごめき震える、規範と後に名づけられたある欲望に、彼ら悪人は捕らわれたのではないか。たとえば、ヌルヌルのたうつ黒犬の化け物と対話するおぞましい異界で。

そして、彼ら悪人の規範の化け物と、わたしたちの道徳や倫理とは、じつはつながっているのではないか。いや、そんなことはあり得ない。いや、すでに人間が考えたことは、すべてあり得ることだ。現にそんな小説物語がこれほどたくさんあるじゃないか。

そんな風にぐるぐる思い考えるようになります。これが消化不良に似た不快感の正体です。ヌルヌルのたうつ黒犬の化け物を呼び出し、対話をはじめているのです。そこでほんとうの不安と恐怖を楽しむことができるのです。それは悪い遊びです。では、ほかの「厭な物語」をご紹介。

「すっぽん」パトリシア・ハイスミス
厭な母親が出てきます。

「フェリシテ」モーリス・ルヴェル
厭な紳士が出てきます。

「くじ」シャーリイ・ジャクスン
厭な村人たちが出てきます。

「シーズンの始まり」ウラジミール・ソローキン
厭な狩人が出てきます。

「判決、ある物語」フランツ・カフカ
厭な父子が出てきます。

「赤」リチャード・クリスチャン・マシスン
厭なパパがいます。

「言えないわけ」ローレンス・ブロック
厭な遺族がいます。

「うしろをみるな」フレドリック・ブラウン
厭な男があなたのうしろに

自分を除けば、こんな厭な人間はまわりにいないはずです。しかし、念のために厄払いしておきましょう。

May God always fill your heart with happiness!

Godを逆に綴ると・・・。

(敬称略)
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聲の形のカタチ

2013-02-24 17:10:00 | 新刊本


今週の週刊少年マガジンに掲載された「聲の形」が評判らしい。近所の「ヤマザキデイリーストア」に、むかし懐かしい給食の「揚げパン」を買うついでに、立ち読みしてきた。耳の聴こえない女児が転校してきたことから、クラスが経験するいじめの生成・発展・和解(いじめ側男児の一人とだが)の物語だ。たしかに佳品である。登場人物それぞれの距離感や抑制の効いた感情描写など、きわめて上質な作品であることはわかる。ただし、障害者(注1)の取り扱いやいじめ側や傍観者たちのふるまいにも、とりたてて新味はない。

週刊少年マガジン12号掲載の読み切り『聲の形』に広がる反響 「とにかく凄い」「必読」http://getnews.jp/archives/291724

それより、この作品をめぐる有為転変のほうに驚いた。新人賞コンテストで入賞したにもかかわらず、クレームをおそれて掲載が見送られた「幻の受賞作」であったこと。後に別冊に掲載されたときは、異例にも読み切りが連載をおさえて読者人気投票で1位になったこと。多くの読者に読んでほしいという編集者の熱意から、講談社法務部や聾唖団体にはたらきかけ、執筆から5年、ようやく少年マガジン本誌への掲載が実現したこと。

ハレモノのように扱われるほどの問題作どころか、どこにも政治的な、あるいは過激な描写などはない。上記のような予備知識がまったくなければ、「いじめと和解」がテーマというより、障害を持つ少女といじめをする少年の出会いと成長、そして恋のはじまり。ちょっとひねりをくわえてはいるがハッピーエンドのラブストーリーという読後感が占めるはずだ。甘くはないが、苦すぎてもいない、ほどのよさ。だからこそ、入賞したともいえる。

ろうあという身体の障害、いじめという学校の現実、ただ自然と社会を人間の内面から描いただけで(ほとんどの表現行為はそこに尽きるのだが)、これほどの騒動や話題になるということに、むしろ後味のわるさが残る。つまり、わたしたちはそれほどに、自然を忌避し、社会に跪いているのかと。わたしたちこそがわたしたち自身を縛り上げているのかという考えにいたる。

掲載までのすったもんだまで情報提供する広報宣伝に借りて、そこまで問題提起をするのが編集者の狙いだったとすれば、してやられたということか。

注1:
障碍という表記はあえてしませんでした。「碍」がわかりにくいからです。

追記: とても完成度が高い作品と思いましたが、机の落書きの場面には首をかしげました。自分の机と他人の机を間違えることはほとんどありえないので。
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