コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

ALL YOU NEED IS GAG

2013-01-30 00:11:00 | 新刊本
まだ読んでいないのに貸してしまった本が戻ってきた。珍しいことがあるものだ。『文藝別冊 総特集 いしいひさいち デビュー40周年・「バイトくん」から「ののちゃん」まで 仁義なきお笑い ALL YOU NEED IS GAG』(河出書房新社)



のっけから、「でっちあげインタビュー いしひいさひちに聞く」(誤字ではありません)にブリリアントな至言がのっけ盛り。その一部をご紹介。

若き女性インタビュアー(以下女イ)の質問に、「いしひいさひち」(以下)が答える構成だが、4コマ漫画のセリフがそうであるように、すべて手書き字で描かれている。つまり、ひとまとまりの画像です。その原画を原文にしたため、4コマのセリフをゴチック体にしたように、はなはだ感興をそこなっていることをはじめにお断りしておきます。

また、同じ理由から、改行は無視、句読点も一部入れたが、マンガ・漫画やわたし・私など用語・用字の不統一はそのままにしました。テキストに起こしてみて、手書き字は画文では足りず、すでに漫を持した画であることが、あらためてわかりました。字として画として、その両方が合まったものとして、苦もなく読んでいるわけです。オレたちってすごくね?

女イ いしひさんが登場するまで、4コマ漫画は『起承転結』が基本と言われていました。ところが、起承転転、起承承結、あげくにオチのないオチとか斬新かつ衝撃的でした。4コマの既成概念を破壊したと言われていますが、その点いかがですか?

い: それは誤解です。そもそも4コマ漫画に起承転結というセオリーは存在しません。

女イ: は?

い: まず起承転結に則って4コマを描く作家はプロにはおりません。4コマを楽しむにしても、リズムは多様であって要件ではありません。笑ってもらってナンボの現場には『秀作』と『凡作』の別以外なにもありゃしません。

あるとすれば観念的な読者の認識のフレーム、『あと知恵』としてあるにすぎず、4コマ漫画に起承転結がないのはけしからんといった論議はどこか幼い気がします。


おそらくコマ4個と4文字熟語の符号による錯誤もあります。仮にそれが東西南北だとすれば北がないとか言い出すんじゃないスか。ともかくないものは壊せませんから、わたしは起承転結を破壊したおぼえなどありません。

女イ: えー、いまの見解マジですか?

い: でっちあげです。

(中略)

女イ: いしひさんのあと多くのギャグ漫画家が登場しましたがどのように見ていますか?

い: 直線的な進化論は評判がわるいですが、ギャグにおいては『その時の今』が常によりすぐれていると思います。いがらしみきおさん、業田良家さん、しりあがり寿さん、とり・みきさんなどなどなどはより洗練されていて、私のお笑いはすでに古くさく感じています。あまり数を読んでいないのにスマンのですが、新人作家のおもしろい作品には新奇なだけではない進化を感じます。

女イ: そういえば言いまわしも古くさいですね。

い: うるせぇよ。

(中略)

女イ: 新しいスタイルというと『萌えまんが』についてはいかがですか。オチがないではないかという意見もあります。

い: トートロジーって言うのか同義語反復も評判がよくありませんが、萌え漫画作品が仮につまらんとしたらそれはオチがないからつまらんのではなく『つまらんからつまらん』のです。手段を選んではならない4コマの制作においては、オチのあるなしすら意味をもちません。なかにはセリフのないいわゆる『絵オチ』を4コマの理想とぬかす大バカ者がいます。絵オチだからおもしろいのではなく、最善の構成を求めた結果としてそれがたまたま絵オチである場合があるにすぎないくらいあったりめーだろーがバカヤロォビュンビュン

(中略)

女イ: 現役の4コマまんが家の中で意識している、あるいは注目しているひとはいますか?

い: 朝日新聞の連載を始める際、全集をもらってはじめて『サザエさん』を読んだのですが、国民漫画ができるだけ多くの人に愛されねばならない代償でしょう。4コマ作品としては平凡、作家としては凡庸というのが正直な感想でした。

(中略)

女イ: デビュー以来のファンには朝日新聞への連載にガッカリしたとの声もありましたが。

い: 堕落とか毒がどうのと耳にしましたが理解できませんでした。作品は読者のものですが『いしひいさひち』は私のものです。作者の変遷を否定する読者を客とは思っていませんですす。

女イ: 強気なわりに口ごもっていますが。

い: 言いすぎましたすんません。

(中略)

女イ: 映画はよく観ますか?

い: よく観る方だと思います。

女イ: お好きな監督、俳優、作品をおねがいします。

い: 監督は『運命の訪問者』あたりの黒沢清監督です。えげつなかったです。俳優は洋画の脇役さんたちです。『シンプル・プラン』の情けない兄ちゃんのビリー・ボブ・ソーントンが04年版の『アラモ』のデイビー・クロケットでもなんか情けなかったのでウケました。『ペリカン文書』『プラダを着た悪魔』のスタンリー・トゥッチはキマっていました。『ジェイソン・ボーン』シリーズはまぬけなCIA局員のジュリア・スタイルズが良かったので観ていました。

「プラダを着た悪魔」のスタンリー・トゥッチ。みごとな禿げ頭で画面をさらいます。



女イ: それでベスト作品は?

い: いくら史上に残る名画でもモノクロというだけで観る気がしないのはなぜなんでしょうか。お笑いのところでも申し上げましたが、古いものから順に劣化して常に新作がよりおもしろいと思います。評論家だか文化人のみなさんは永遠に色あせないとかこれを超える映画はないとか正気でおっしゃってるんでしょうかね。思い入れの押しつけはやめてもらいたいもんです。

女イ: さっきから聞いていると漫画といい映画といいただの新しもん好きってだけじゃありませんかセンセ。

い: わるいかよ。

女イ: で、ベスト作品は?

い: 40年前の『仁義なき戦い』シリーズ全5作です。どうもすみませんでした。

女イ: ちゃんとあやまって下さい。

い: スンマセン、スンマセン、スンマセン。いやぁ~映画ってホントいいもんですね。

In Times Square, It's Terry Jones vs. the Beatles

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恋に疲れた女ばかりじゃない、京都わ

2012-08-20 00:00:00 | 新刊本
そうそう、この本を紹介するのを忘れていました。リンク先の感想にほとんど同感ですが、「Lady Samurai」という着眼は、「戦略的セルフオリエンタリズム」を越えていると思います。

『ハーバード白熱日本史教室』(北川 智子 新潮社)
http://book.asahi.com/reviews/column/2012081200004.html?ref=book



本書でも「Lady Samurai」の代表とされている太閤秀吉の妻ねね、後の北政所(ほくせいしょではなく、きたのまんどころと読みます、そこの若い衆)に宛てた織田信長のユーモラスながら情理を尽くした手紙を読んだことがあります。「あの禿ネズミ(秀吉のこと)の女好きは困ったものだが、病気と考えて内助の功を尽くしてくれい」という内容で知られていますが、その前段として、ねねが足繁く信長周囲に愚痴や憤懣を漏らしていくので信長の知るところとなり、一筆啓上となったようです。つまり、ねねにはあの信長を引っ張り出す政治力があったわけです。すでに、若きねねの頃から。

それが北政所となれば、いまや大名の福島正則や石田光成も、小姓の頃から知っている子どものようなもの。手紙で注意したり、呼びつけたり、あるいは彼らから相談を受けていてもおかしくありません。敵も味方も昔なじみ顔なじみ、ちょっと立ち寄りました、茶など一服所望といって、打ち解けた話ができるのは、女房以外に適任はいません。また、戦国時代の武将とは、今日でいえば、暴力団の親分衆のようなものと誰かが書いていた記憶があります。すると、山口組三代目姐が思い浮かびます。姐さんの前では、山口組の若頭も親分衆も、呼び捨てか、ちゃん付けです。

武士道が形而上学的になるのは江戸時代から。鎌倉時代の地侍や織豊時代の武将たちは、ずっと地場の生産や交易に近かったはずですから、一族郎党の家計を束ねる女房はパートナー、それも優れたパートナーではなくては勤まらなかったかもしれません。「Lady Samurai」の視点を導入すると、硬直した武士道日本史が風通しのよいフラットな感じになります。NHKの大河時代劇では、やたら、妻や側室、娘などがしゃしゃり出てきて、「戦(いくさ)はきらいじゃ」「男は勝手なもの」「私は好きなように生きたい」などと、戦後民主主義的な駄弁を弄するのにうんざりしていましたが、あるいはもしかしたら、「Lady Samurai」の兆候のひとつなのかもしれません。

戦国武将の妻や側室たちは、もともと政略結婚の道具だったのですから、はじめから政治的な存在と考えれば、そのなかには秀吉の妻ねねのように、じゅうぶん政治家といえるほど成長を遂げた女もいたはず。そういうくっきりした視点の「大河時代劇」なら、ホームドラマの焼き直しにならず、歴史好きの男も楽しめるでしょう。いきなり、正統な日本史に「Lady Samurai」は無理でしょうから、手はじめには映画や演劇、TVドラマ、その原作となる小説にそんな題材がほしいものです。


北政所と彼女が祀られている京都東山の高台寺参道

さて、ほんとうに「Lady Samurai」が武士の陰に活躍していたなら、その資質とは何で、どんなことだったでしょうか。現代に「Lady Samurai」を見出すとすれば、たとえば、本書の著者北川 智子さんのような女性だったのかもしれません。男がする刻苦勉励とは違って、もっとまっすぐ伸びやかに努力し続ける資質を持つ女性が「Lady Samurai」だった気がします。いわゆるエリート女性ではないけれど、めげず臆せず、試行錯誤を重ねて、ハーバード大学1の不人気講座日本史を、随一の人気講座にするまでの話です。さらっと書いていますが、理学から歴史学へ転向など相当な努力の末のことです。いろいろな才能がありますが、努力を続けられる、努力が苦にならない、そういう才能もあるのだなとあらためて感心しました。

何匹目か知らないけれど、こういう泥鰌なら歓迎です。サンデル先生の本より、断然お勧め。
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ゲッツ板谷の大患

2012-07-04 01:25:00 | 新刊本


西原理恵子を「現代の林芙美子」と誰かがいっていたが、さしずめゲッツ板谷なら、「現代の夏目漱石」かもしれない。奇をてらいつもりはない。どちらかを上げ下げして、得意がりたいわけでもない。

林芙美子と西原理恵子は、なんとなくわかるはず。どちらも「放浪記」「まあじゃんほうろうき」を書いているし、「女どてら」でも着込んでいる風である。夏目漱石とゲッツ板谷は、なんとなくわかるといえば嘘だろう。私もついさっきまでわからなかった。いったいどこが同じかといえば、どちらも生まれ育った地元で家族と暮らし、多くの友人や弟子がしょっちゅう家に出入りしている。ここです。

妄想シャーマンタンク』(2012年 角川書店)

漱石の「吾輩は猫である」を読めば、家族や友人、弟子に囲まれ、たいていは愉快そうに、ときに憮然としている漱石の顔が思い浮かぶ。ゲッツ板谷も友人が多いのは、そのエッセイからよくわかるが、そのうちの年下の連中は、友だちというより、漱石の昔なら弟子や弟分ではないかと思う。彼らに囲まれて、たいていは愉快そうに、ときに憮然としているゲッツ板谷の顔が、やはり思い浮かぶ(そうそう、どちらも鼻下に髭を蓄えている)。

もちろん、漱石の友人や門下には、正岡子規や寺田寅彦、和辻哲郎など、明治最高のインテリが居並ぶのに対し、ゲッツ板谷の友人や「子分」には、大学卒すら少なさそうだ。ぜんぜん違うようでいて、実はそうでもない。漱石の小説には、それまで日本にはいなかった、疎外感を抱き内面を持て余す「高等遊民」がよく登場するが、ゲッツ板谷を囲んでいる仲間たちをそれにならえば、「下層遊民」といえる。

明治の文学青年などは、遊びにうつつを抜かしているとみられたが、ゲッツ板谷の友人たちも、ゲッツ板谷自身がそうだが、ベースボールカードやフィギア、熱帯魚など、いろいろなサブカル遊びにうつつを抜かしている。遊びを通じて親しくなった彼らの仕事は、アルバイトから店舗経営まで、幅広い意味で自営業といえるが、遊んでいるのか働いているのか、よくわからない人物が多い。公務員や上場企業会社員など、中流意識の持ち主はいない。

牛込の漱石山房と立川の板谷家に、なぜ多くの人々が集まったか、集まるのかを考えてみると、そこだけが彼らの避難所だったのではないか。明治の文学青年にとって、世間の風が冷たかったのは、漱石の作品を読めば容易にわかる。ゲッツ板谷のエッセイに登場する友人たちもまた、世間の風には乗れない、どこか少し、あるいは大きく、箍(たが)が外れた桶のような人ばかりが登場する。

彼らに呆れ笑い感心してエッセイを書くゲッツ板谷と、漱石を中心とする文学サークルの若者たちとの交流の仕方に、そう大きな違いはないように思う。いずれも、いわば族長的に慕われ、家父長的に接しているために、そこに上下関係を見出しがちだが、漱石にとっても、弟子や門下というより、ゲッツ板谷と同じく、はるか年下であっても、ひとしく文学の志を同じくする「友人」と思っていたのではないか。

漱石が生きた明治なら、少しでも名のある人物の家に、友人知人が頻繁に出入りし、弟子や居候を置くのは、ごく一般的なことだった。そうしない方が偏屈とされほど、相互扶助が必要とされる貧しい時代だった。親とすら同居しない核家族の現代では、ゲッツ板谷のように周囲に人を集めるライフスタイルはきわめて珍しい。漱石のような小説を書きたい人は、現代にもたくさんいるだろう。しかし、漱石のように生活をしている人は、また、それが現代においてできるという人は、きわめて稀なはずだ。

漱石が家族と暮らし、多くの弟子たちの面倒を見たように、ゲッツ板谷も自身の公式サイトを開放し、家族や友人たちに書く場を与えてきた。キャームの「人生相談」コーナーの回答の困ったぶりに困った篇は、この本にも収録されている。事情はわからないが、その公式サイトも、どういうわけかファンサイトも、現在は閉鎖されている。兄弟同然の親友キャームや「子分」に近い元担当編集者ハックとも、疎遠になった時期があったそうだ。

漱石に有名な「修善寺の大患」があったが、ゲッツ板谷も脳出血という大病を経て、何か心境の変化が訪れたらしい。ゲッツ板谷20代の1年半のひきこもり中、天井の木目を眺めては、脳内で文章を書いていた頃を語る一篇は、いつもの「お笑い」を抑え、なかなかに暗く味わい深い。

「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」だけを書いていた「現代の漱石」も48歳。そろそろ、「こころ」や「草枕」を書きたくなってきた。書かざるを得なくなってきた。そういうことなのかなと思ったりもする。あるいは、「坊ちゃん」がその後「街鉄の技手になった」ように、ゲッツ板谷もトラックの運転手にでもなるかもしれない。

しかし、ゲッツ板谷にスカなし、スカシもなし。本作も高いレベルで、蛇足を承知でいいますが、「文学」しています。

ゲッツ板谷の波風日記
http://getsitaya.blog24.fc2.com/

(敬称略)
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33万人の木嶋佳苗

2012-04-17 00:29:00 | 新刊本


渋谷駅中(エキナカ)の本屋店頭に平台が出されて、村上春樹の文庫版『1Q84』と並び、「33万部のベストセラー!」とPOPが立ち、おまけに書き下ろしの新作短編とセット販売だと、ビニール包装本が売られていた。

『殺人鬼フジコの衝動』(真梨幸子 徳間文庫)

裏表紙の紹介は、こんな風でした。

あなたはフジコという名の少女を
覚えていますか?
あの一家惨殺事件には、続きがありました・・・。


 一家惨殺事件のただひとりの生き残りとして新たな人生を歩み始めた11歳の少女。だが、彼女の人生はいつしか狂い始めた。「人生は、薔薇色のお菓子のよう」。呟きながらまたひとり彼女は殺す。何がいたいけな少女を伝説の殺人鬼にしてしまったのか?
 最後の1ページがもたらす衝撃に話題騒然、口コミで33万部を越える大ベストセラーとなった戦慄のミステリーが、書き下ろし新作短編と2冊セットで登場! この短編に、次作のヒントが隠されています!


ノーベル文学賞の呼び声高い、村上春樹『1Q84』の紹介文と並べたくなる格調の低さ。「歩み始めた」のすぐ後に、「狂い始めた」が続く粗雑ぶり。「いたいけな少女」という陳腐。「もたらす」がもたらすもたつき。編集者が書く紹介文と小説は別物とは知りながらも、「よせ、よせ」と袖を引く心の声が聞こえます!

それなのに、なぜか買ってしまった。何がイケイケの大男を虜(とりこ)にしてしまったのか? 「歩み始めた」と「狂い始めた」の「始めた」に狂気の欠片を感じとったのです! 読みました。「はじめた」と開かず、「始めた」と閉じて、「歩み」と「狂い」を同列にした意図がわかりました。

なるほど、11歳から<歩くように確実に狂っていく>女の物語です。ただし、「いたいけな少女」が「殺人鬼フジコ」に成長したという話ではありません。怪物にであろうと、成長物語にはそれなりの高揚感がともないます。成長物語の変奏である転落物語でも、『嫌われ松子の一生』のように、あるカタルシスが味わえるものです。

そんな高低差はなく、最初から最後まで、ただただ卑小で愚劣なフジコです。まるで生まれながらに、そうであるかのように。そして、「最後の1ページがもたらす衝撃」とは、どのような意味でも、フジコの成長物語や転落物語ではないという完璧な否定でした。それがどんでん返しとなり、読者はもういちど心の中で、最初から読み直すことになります。

読みはじめてすぐ、フジコに木嶋佳苗被告は略す)を重ねました。事件後から100日裁判と先日の死刑求刑まで、この間、洪水のようにメディアに溢れた「醜悪陋劣」な木嶋佳苗像を「殺人鬼フジコ」のモデルにしたのではないかと思えたほどです。

もちろん、執筆時期とは重なりませんから、モデルではあり得ないのですが、けっして美人ではないがブスというほどでもなく、偏差値は低そうだが地頭はわるくなく、「セレブ」といった浅薄な上昇指向など、二人(?)はよく似ています。何より共通するのは、『殺人鬼フジコの衝動』が「33万部を越える大ベストセラー」の人気を誇るように、女性間では木嶋佳苗の人気は高いのです。

「女はなぜ木嶋佳苗に惹かれるのか」というタイトルの週刊誌記事があったと記憶しますし、私の周囲の女性たちも、けっして男たちのように、木嶋佳苗を罵ったり侮蔑したりはしないのです。女性たちはむしろ、被害者の男性たちこそ侮蔑的に評し、「交際する男性から経済的援助を受けるのは当たり前」など、独自の「価値観」を語って堂々と自己弁護する木嶋佳苗を醜悪とは思っていないようです。

6人ほどの周辺リサーチに過ぎませんが、木嶋佳苗に対する女性たちの好意的な視線は、そのまま「フジコ」のベストセラーに重なる気がするのです。となれば、この小説の怖ろしさとは、「フジコ」という造型だけでなく、「フジコ」に感情移入してページをめくる女性読者が33万人もいるという事実です。もちろん、木嶋佳苗と「フジコ」は、まるで違います。

「フジコ」には強烈な被害者意識があり、それが犯行の引き金になりますが、木嶋佳苗にはほとんど被害者意識は見当たりません。死刑を求刑された事件に関与したかどうかは別にして、他人を巻き込んでいく加害者としての強さがあることは、言葉巧みに「結婚詐欺」をはたらき、独身中高年男たちから大金を盗んでいたことからも明らかです。

「フジコ」のような劣等感の虜である弱者ではなく、木嶋佳苗は強烈な優越感を持つ強者に見えます。「フジコ」はもう自殺しか残されていない、これ以下がないような境遇から、なんとか人並みの場所に這い上がろうと必死です。一方、木嶋佳苗は「セレブ」に憧れるような、人並みの生活では満足できない上昇指向があります。その無根拠な自信と大胆な行動力に、女性たちは憧れているのではないかとすら思えます。

男にとっては、「フジコ」と木嶋佳苗のいずれにも、少しの理解や共感はできません。ところが、少なくとも、33万人の女性は、「殺人鬼フジコ」の「犯罪」に理解を示し、木嶋佳苗の「価値観」に共感できるのではないか。怖ろしさとは、その男と女の隔絶の怖ろしさです。

どのくらい隔絶しているかといえば、フジコと木嶋佳苗のいずれにも、その内面に男は存在しないかのようです。フジコが強く意識するのは、母親や友だち、会社の先輩など、女性ばかり。男はほんのチョイ役です。木嶋佳苗にとっても、男は道具に過ぎないかのようです。

もちろん、「フジコ」は小説上の非実在人物であり、木嶋佳苗は殺人まで犯したかもしれない実在の結婚詐欺犯です。ひとくくりにできるわけはないのですが、そのシルエットがぴったりと重なり合うところもあります。つまり、「フジコ」も木嶋佳苗も、生涯、女である、女であり続けるということです。

11歳の少女なのに、おばさんのように世渡りを考え、30歳半ばを過ぎたおばさんになりながら、夢のような結婚に憧れる。少女にも娘にも妻にも、たとえ出産しても母親にもならずなれず、時間は流れず、おばあさんになっても、一生女を続ける。そういう怖ろしい生き物です。

理解も共感もできないが、一気に読めます。暗くて救いがないが、一気に読めます。文学の深遠も文芸の香気もないが、一気に読めます。この小説を読んだ後に、村上春樹の『1Q84』は、一気に読めないかもしれません。

(敬称略)
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ないない尽くしあるいは揺れるまなざし

2011-09-27 03:19:00 | 新刊本



鈴木清順作品上映会に日活がフィルム貸し出しを拒否し、解雇問題にまで発展したことから、日活抗議デモの先頭を歩く、若き日の蓮實重彦(手前左)http://homepage3.nifty.com/okatae/nenpu.htm

さて、誰も待っていないと思うけれど、お待たせしました『反=日本語論』(蓮實 重彦 ちくま学芸文庫)のつづき。長いですが、引用がほとんどなので、読みやすいはずです。

蓮實が西欧民主主義の「現場」と「瞬間」を経験した、「小事件」のおよその顛末はこうだ。パリの駅で列車の切符を買う長い行列ができていた。そこへ一人の老婆が行列に並ばず窓口に立った。蓮實でさえ一時間以上並んでいるのだから、ほかの乗客は二時間以上も、自分の番が来るのを待っている様子だった。しかるに、窓口の予約係がこの老婆の切符の受付をはじめたものだから、行列していた多勢の客たちは騒ぎはじめた。眼前で老婆に横入りされた観光客らしいアメリカ人老紳士が、「不当だ! 私だって老人で旅で疲れている。これは不当な扱いだ!」と予約係を非難したのがきっかけだった。すると、アメリカ人老紳士の行列だけでなく、ほかの行列の乗客たちも同調して声を上げ、すべての窓口を閉ざすほどの騒動になってしまった。怒って騒ぐ乗客たちの前に、やがて窓口から、老婆に対していた予約係が出てきた。いかにも小役人風の予約係だったが、詰め寄り抗議する乗客たちをにらみつけ、老婆の差し出した書面と窓口業務の手引き書らしいものをかざすと、「なにが不当なものですか! このご婦人には、この通り優先的な権利があるのです」と怒りを露わに抗弁した。騒いでいた乗客たちは不承不承引き下がり、窓口が再開されると、何事もなかったように乗客たちはまた並び、乗車券を入手するまでさらに一時間以上も待たされることになった。

近代的個人が確立している西欧にあっては、個人は、その権利と義務の意識によって多数決原理を支え、民主主義なるものを理想形態として持っているのだとその返答は口にする。それは、第二次大戦以前の日本で一部の知識人によって口にされ、戦後にあっては、ほとんどすべての人間が、多数決原理なるものを肯定するにせよ否定するにせよ、そのようなものとして西欧を思い描いてきた。

はい、ここから、重やんの「ないない尽くしと出かけよかい~♪」です。

だが、この返答は返答になってはいない。嘘ではないにしても、ありもしない抽象だと思う。だいいち、西欧には、権利と義務の意識に目覚めた近代的個人ばかりがうろうろしているわけではいささかもない。窓口での優先順位で一位を獲得した寡黙な老婆は、実際、近代的個人などよりはむしろ強情な家畜かなんぞに遥かに似ている。また、意志決定の多数決原理が民主的と呼ばれるとするなら、たった一人で多数を敵にまわして優先権を決定した予約係の態度ほど、民主的なるものから遠いものはあるまい。事実、民主国家日本にあってはそんなことは絶対に許されないだろう。そもそも、一部の抽象的な哲学者にそそのかされてかなりの人が信じている近代的個人など、どこにもいはしないのだ、また、一部の抽象的な政治学者にそそのかされてかなりの人が信じている意志決定としての多数決原理なども、どこにもありはしない。民主主義とは、一人でも多くの人間の欲望を充足せしめる装置であったためしはないし、また、それを原理として生まれたものでもない。より多数の人間が幸福だと信ずることが重要なのであれば、二宮尊徳の像でもじっと眺めていた方がはるかにてっとりばやいだろう。ここ一世紀ばかりの西欧が政治的に採用した民主主義と呼ばれる制度は、断じて多数決による意志決定を基盤としてはいない

数えてみると、「ない」は10箇所もある。一見、これらの「ない」は、在るか無いかの場合の「無い」が多いといえる。自分は「ない」と思う考える、という否定の「ない」は少ない。だが、そんなものは無い、と断じる以上の否定もないわけで、だからこそ、胸のすく効果を上げているといえる。さて、ここから先が、「在る」である。

それは、何よりもまず代表の制度と理解さるべきものである。実際、代弁者を欠いた民主主義というものなど誰も想像することはできまい。諸々の声が、ただおのれ自身の声として響きわたる空間には、民主主義は存在しない。声が、いま一つの声にその響きを委託することで初めて機能する制度が民主主義なのだ。事実、老婆の沈黙の声を代弁することになった中年の予約係は、たった一人でありながら多数の声を押し殺し、そのことで民主的な思考を各自に徹底させていたではないか。その男の内部に、近代的個人なるものの意識が権利と義務の自覚を伴って確立されていたか否かを問うことは、さして重要なことがらではない。見落してはならぬのは、老婆の権利を代弁しつつ擁護したとき、自分がより大がかりな代表の機能の中に捕捉されていることを彼が間違いなく自覚していたという点である。つまり、フランス国鉄の予約係として、規則を代表することによって、自分にふさわしい場所で潜在的な「法」を顕在化させていたのである。誰もが彼の弁論を正当なものと聞きとることが可能であったのは、その個人的な声の背後に、不可視の社会的な制度を察知しえたからにほかならぬ。その意味で、彼は近代的個人が享受したと人がいう自由の体現者ではいささかもなく、徹底して不自由な存在としてその不自由を各人に分配してまわったのだ。かかる不自由の分配こそが、老婆を権利の所有者に選定する影の力となっていることはいうまでもない。つまり、老婆は選別され、アメリカの老紳士に加担したすべての人間は排除されたということだ。この排除と選別とをいたるところ、あらゆる瞬間に機能させうる代表の階層的秩序こそが民主主義なのであって、多数決原理なるものはそのとるにたらない脇役にすぎない。

多数決原理は民主主義の脇役にすぎない、だけが印象に残るのは、それが日本における民主主義の誤解を指示しているからだ。あるいは、多数決原理などをありがたがる日本本そのものが西欧世界からすれば、とるにたらない脇役にすぎない、といっているからだ。しかし、蓮實はそういうことをいいたいわけではない。

だからわれわれは、民主主義なるものを、多くの人の不自由の源泉として憎悪する正当な権利を持っていると思う。だが、それを語ることが当面の問題ではない。また、シルバーシートなるものの発想が、最も民主主義とは遠いものである点を力説したいわけでもない。そうではなく、無人のバスの車内でたがいに譲りあって坐りましょうのスローガンに接した唯一の乗客に逸ってきた記憶の情景が、西欧の言語理論の今日的な相貌と民主主義なるものとの恐るべく類似した関係にあることをふと想起させたまでのことなのだ。排除と選別のメカニスムを始動せしめる代表の階層的秩序。そしてその内部で、現実に一つの排除と選別とが実践されるその場所、その瞬間に、

西欧の民主主義と言語理論の恐るべき類似については、「ふと想起」したくらいなので、ここから先、言語論が展開されるわけではなく、簡単に触れられるに過ぎない。俺がおもしろいと思ったのは、あちらこちらに棹さしながらすすんでいく、舟のような蓮實の「意識の流れ」である。思考という川に意識の小舟が流れていく様子を、岸に立ち眺めているような、ちょっとスリリングな気持ちが起きる。

はじまりは、夫婦ひさしぶりの映画鑑賞だった。小難しい映画ではない。メーテルリンク原作ジョージ・キューカー監督「青い鳥」だ。その映画に、夫はむやみに感激し、妻は冷淡な反応をみせた。観終わって二人は口論になり、そんなときは、帰宅の経路を別々にすることが、夫婦の暗黙の習わしになっていた。妻は電車に乗り、夫はバスを利用した。

家のある町に向かうバスに揺られる「唯一の乗客」となった夫は、シルバーシート(1970年代ですから。いまは優先席と表記されています)に気づき、さきほど観た映画「(幸福の)青い鳥」を反芻するだけでなく、パリの駅で起きた民主主義をめぐる「小事件」を想起する。やがて、バスが家のある町に着けば、妻が必ず立ち寄るカフェに先回りして夫が待つのが、やはり二人の習わしになっている。

そのカフェで何をどう話そうか、和解の対話について夫は考えている。それが、蓮實の「その内部で、現実に一つの排除と選別とが実践されるその場所、その瞬間」なのである。民主主義や言語にとって、「排除と選別」という内容が本質的にどうかかわるのかということより、「排除と選別」が実践され、機能する、その場所とその瞬間に、蓮實の「揺れるまなざし」こそ、この本が提示するものだろうと思った。つまり、民主議論は関係ないというむちゃくちゃな目に遭わされているのだのだ。

したがって、パリの駅の予約係は法治を体現していただの、西欧からみれば日本は周縁なのは当たり前だの、といった突っ込みは、先に紹介したクイズのごとき先走った回答になるわけで、「ないない尽くし」も「在る」をめざしたものではないことがわかる。

しかし、そうなると、いったい何がいいたいのかよくわからないが、「揺れるまなざし」の「揺れ」だけは感じられるという、きわめて非西欧的な文芸ということにもなる。西欧の視点から、所見や所論を明快に述べているようにみえて、実はそうでもなく、私小説的ですら在る。蓮實は本書の刊行に気が進まなかったそうだが、文芸的に過ぎると思ったからだろう。読みはじめてと、読みすすめてと、読み終わっての感想が、やはり「揺れる」のもこの本のおもしろさのひとつか。

伊丹十三が女優の岸恵子に、蓮實重彦を紹介した弁(『映画狂人、語る。』蓮實重彦 河出書房新社 232頁)

伊丹 エートね、岸さん、蓮寒さんはですね、ンー、日本で初めての映画理論家、でもあり、また日本で初めて、映画を語るための言葉というものを見つけてくれた人でもあるわけなんです。つまりね、いままで、人は映画を見ると、その映画の運んでくるメッセージなり、イデオロギーなり、思想なりについて語っていたわけです。あるいは、その映画に託して作者が措こうとした人情の機微であるとか、人生観といったものについて語っていた。あたかも、映画というものが、思想や人生観を運ぶ、単なる容れ物ででもあるかの如くね。つまりね、他愛ない表面の裏側には、なにか深遠なる作者の意図というものが隠されていて、その隠された意図を読みとることこそが、正しい映画の見方である、という見方に、われわれ縛りつけられてたわけですよ。ところが、そこへ蓮賓さんが現れて、われわれを内容主義の呪縛から解放してくださった。そして、以来、われわれは映画の表面について語る言葉を持つようになったわけですね。現にスクリーンに映っているところのもの。スクリーンの上で事件として起こつているところのもの、それについて語ることができるようになったわけです。

黒沢清と周防正行対談「われらライバルどうし」(「キネマ旬報」第1110号)

黒沢 蓮實さんが「この映画を見てきて下さい。スピルバーグの『未知との遭遇』を、次週までに」と言うんです。次の週行きますと生徒たち一人一人に「何が見えましたか」って当てていくんですよ。で、授業の要領をわかっていない人はですね、「円盤の特撮が凄かった」なんて言うわけですね。するといきなり蓮實が「特撮というのはどこに映ってたんですか」「でもあの特撮はやっぱり凄かったですよ」「特撮か特撮でないかはどうしてわかるんですか。本当の円盤かもしれないじゃないですか」とか言って、突っ込んでいくわけですよ。「でもパンフレットに特撮って書いてありましたから」「それはパンフレットに書いてあったんでしょ。映画には映ってないはずですよね」とかですね。こういう授業なわけですよ。で、僕なんか大体要領がわかってくるとですね、「この映画、何が見えましたか」「ドアが十五回見えました」「はい、そうでしたね」とかね。ほとんどこういう問答が続くわけですよ。禅問答のような。そういうのはやっぱり強烈でしたね。映画というものをそのような角度で捉えられうるのだというね。単に面白い、つまらない、作者はこれを言いたかったのだと、そういう言い方も勿論できるんですけど、何が映っていたかっていう見方もまたできるんだなっていう。あまりにも当たり前であり、あまりにも誰も言わなかったものですから驚きましたね。

俺は蓮實重彦をほとんど読んだことがなかった。ところが、この『反=日本語論』の紹介のしかたが、気がつけば、ほとんど蓮實重彦の方法論を踏襲しているのにちょっと驚く。それは直接的には、『反=日本語論』を読んだ効果だから当たり前のようだが、それ以上に、それ以前から蓮實の方法論に、知らず知らず影響されてきたためでもあろう。まさしく、

あなたが観なくても映画は上映され、あなたが読まなくても本は出版され、あなたが聴かなくても音楽は演奏され 、ダイアローグは続いている

のである(自分で書いて、自分で感心してりゃ世話ないが)。

(敬称略)


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