「ニッポンがリードしている」「ニッポンがリード」「ニッポン、金メダルを獲得しました!」「ニッポン、金メダルうう!」
つい先ほど、スピードスケート団体パシュートの女子チームが決勝でオランダチームを破り、下馬評通り優勝した。中継したNHKアナウンサーは例のごとく叫んでから、続けた。
「これで日本が獲得したメダル数は11個、長野オリンピックの10個を越えました!」
ノーベル賞とオリンピックは似ている。受賞者やメダリストが日本人なのか、獲得個数はいくつなのか。メディアの関心はそれ以外にないかのようだ。
科学技術にどれほど貢献したのか、どれほど優れた身体パフォーマンスを示したか、という興味関心より、ノーベル賞やオリンピックだから、「凄い」「スゴイ」。
ちょっと気取って、「感動を勇気をもらいました」。いや、あなたやあなたたちのことではない。メディアの話だ。
例えば、毎年のノーベル賞騒ぎの陰で、日本の学術研究がどれほど劣悪な環境下にあり、ために年々その世界的評価を下落させているかなど、メディアが報じなければ、私たちには知るよしもない。
オリンピックの憲法にあたるオリンピック憲章は、第1章オリンピック・ムーブメント」の<6.オリンピック競技大会>において、以下のように規定している。
「1.オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない。」
第1章6-1だけでなく、通して読むのはちょっと嫌になるほど長文のオリンピック憲章のどこを開いても、「国家間の競争」を越えた、「人類や人間の尊厳と価値」を高めるためのスポーツの祭典であることが謳われている。
NHKのTV中継を視ていると、ほとんど分刻みにオリンピック憲章違反の「国家間の競争」を煽っているとしか思えなくなる。せめて、「日本」連呼の2/3くらいを「日本人」に言い換えるほどの配慮はないものか。
「日本」と「日本人」は国民感情としてはほとんど同義じゃないか、という指摘はあるだろう。「日本人として誇りに思う」というおなじみの感想はそれをよく示している。ナショナリズムの高揚に資するというメディアの目的はたいてい達成されるわけだ。
「日本の期待に見事に応えた、女子パシュートチームのインタビューがはじまります」
NHKのアナウンサーはまだ興奮が冷めやらないようだ。たしかに国としての日本は、いくつメダル数を獲れるかを期待したかもしれない。
だが、彼や彼女らをじっさいに支援してきたのは、それぞれの日本人たちだった。陰日向なく物心両面で選手生活を支えてきた、市井の人々にこの記事は取材している。日本と日本人は重ならない、重なる場合だけではないのだ。
http://www.hochi.co.jp/sports/winter/20180216-OHT1T50032.html
「日本人として誇り」と「僕らの誇り」の違いがわかるだろうか。日本と日本人はメダルという成果を期待するにもっぱらだが、そのプレッシャーと諸事万端については、選手とその周囲の人びとが負担することを期待されているわけだ。
「日本のためにメダルをとりたい」と決意を示し、結果が出た後に、「これまで応援してくれた日本の皆さんに」記者会見で礼を述べるとき、選手たちにとっても日本と日本人はひとつになっているだろう。ただし、その脳裏には、それぞれの人々の顔がはっきり浮かんでいるはずだ。
金銀のメダルを分けあった小平奈緒と李相花(イ・サンファ)の「友情物語」を持ち出すまでもなく、私たちはただ隣人である。オリンピック憲章など読まずとも、選手たちは隣人の応援を受けて個人として競技することがわかっている。わかっていないのは、メディアをなぞる感想しか持たない私たちなのかもしれない。
(敬称略)