コタツ評論

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5年先、10年先を見据えて

2021-05-28 17:02:00 | 政治
松井大阪市長を校長先生が実名で批判した、と話題になった一文です。

大阪市立木川南小学校・久保校長の「提言」全文
https://www.asahi.com/articles/ASP5N6KWMP5NPTIL00R.html

オンライン授業の導入が教育現場を混乱させたという批判は一部で、NHK大河ドラマで渋沢栄一が平岡円四郎を通して徳川慶喜に出した建白書のように、ことは小学校にとどまらず、社会に広げて読み換えられる「憂国」の書です。

>子どもたちの5年先、10年先を見据えて、

小学校の先生は、それぞれの「子ども」の良不良や幸不幸の消息を知り、やがて、中学生や高校生、大学生になり、あるいは就職して社会人となる行く末を知っています。

現在から、「5年先、10年先」の「子ども」の姿や様子まで見ようとする、小学校の先生らしい教育現場の実感が込められた言葉です。「子ども」の将来・未来への懸念を我が事にする切迫した思いでしょう。

松井一郎市長 オンライン学習めぐり批判書面送付の校長に「社会人として外に出たことあるんかな」
https://news.yahoo.co.jp/articles/e17e8419469b59f5902461447fd1a5f8d18f60a2

>社会人として外に出たことはあるんかな
>疲弊してやりがいが見つけらないんやったら、違う仕事を見つけたらいい
>組織の一員として逸脱していることになる


以上が、松井市長の実感が込められた言葉でしょう。過去の慣例や現在にルールしか語っていませんが、「違う仕事を見つけたらいい」は「5年先、10年先」の校長を指した言葉でしょう。もっとも、いま59歳の校長先生はすでに定年を迎えているはずですが。

都立高入試、男女の合格ラインで最大243点差 8割で女子が高く
https://mainichi.jp/articles/20210526/k00/00m/040/003000c

男子なら合格したのに女子だから不合格になった都立高が8割を占めたわけです。これに東大入学者の約8割が男子に偏っていることを考え合わせるだけでも、どれほどの女子が学習機会や進路を狭められたか。日本の「男女平等」は中学までといえそうです。

男女共同参画社会とはいっても、自民党は「男女平等」という言葉を使いません。「男女平等」をいえば、「社会の混乱を生じる」と懸念したのかもしれません。

LGBT差別発言 自民保守派は確信犯? 党内からも「非常識」
https://mainichi.jp/articles/20210524/k00/00m/010/332000c

>差別は許されないと明記すれば、行き過ぎた運動や訴訟につながり、社会に混乱が生じるのではないか

そんな懸念の声が自民党議員から相次いだため、法案から「差別撤廃」の文言を削り、代わりに「理解増進」という言葉を当てたそうです。「男女平等」を「男女参画」に言い換えたのとよく似ています。

いずれも、ただの言い換えではなく、「5年先、10年先を見据えて」社会改革の動きに先手を打ったようです。

(止め)
  
スエーデン出身の世界的スーパースター、ABBAの名曲です。Gimme とは give me のこと。真夜中に一人で寂しい、恋人をくれと叫んでます。

Gimme! Gimme! Gimme! ABBA Live







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ゴールデン・レトリーバーか!

2021-05-07 00:16:00 | 政治
「ぼったくり男爵」異名を持つIOCのトーマス・バッハ会長は、あの偉大な音楽家バッハの一族だそうです。アメリカ人と話していて、バッハをバックというのでなんて教養がないのだろうと呆れていたら、英語圏ではバッハではなくバックと発音しているそうです。ちょっと考えてみれば、当たり前なのですが、日本では当たり前でないですね。

バッハ Bach: ゴルトベルク変奏曲 Goldberg Variations BWV988/グレン・グールド Glenn Gould 1955/レコード/高音質




以前、大阪なおみさんが全米オープンに優勝したときも問題になりました。肌色の違う有名人に、「人種差別メール」を送る日本人が少なからずいるようです。

バスケ八村塁・阿蓮兄弟に「人種差別DM」 本人公開で「これは悲しい」「いつになったら無くなるんだ」
https://www.j-cast.com/2021/05/05410867.html?p=all

八村阿蓮氏がその事実を明かした目的は、「日本には人種差別がない」と思い込んでいる人々へ、「どうか考え直して」とアピールするためでしょう。

身近に黒人など肌の色の違う人々と接する機会が少なく、じっさいに差別を見聞することもほとんどないことから、「日本には人種差別がない」と思っている人は多そうです。

そして、たいていの人は「日本には(アメリカのような酷い)人種差別はない」と補っているものです。アメリカと日本との差異や程度を比較して、相対的に「ない」と判断しているのです。

いうまでもなく、日本にも黒人差別と同様、在日や同和、アイヌなどの人々を出自により差別した歴史を持ち、いまもその差別感情は根深く残っているといわれます。

そうした差別について、ある年代以上の人に尋ねれば、「日本には差別がない」と言い切る人はごく少ないでしょう。ただし、「差別がある」と積極的に言う人はもっと少ないはずです。

「ない」とも「ある」とも言明しない人々とは、「する」側であっても「される」側ではないので、差別するかしないかを選べるように、いつも問われてから答える受け身の姿勢でいられるのです。

アジア系女性、ハンマーで頭殴られる 歩行中に「マスク外せ」―NY市
https://www.jiji.com/jc/article?k=2021050500204&g=int

その動画
https://twitter.com/i/status/1390177002188156928


そんな多数派の日本人も、少数派アジア人として、等しくアメリカで「人種差別」の対象となり、日常的な暴言や暴力に晒されています。

それでも、多くの日本人にとっては遠いアメリカで起きていること、じっさいには差別されないので他人事なのが正直なところでしょう。そして、安堵してこう思うのです。

(日本には人種差別がなくてよかった)と。

たしかに黒人とみたら即座に発砲したり袋叩きにする警官や、アジア人を行きずりに襲う人など日本では見かけませんし、ニュースになったこともありません。

そんな苛烈な差別に比べれば、メールやSNSに「差別的発言」を書き込んだりするくらいは、「たいしたことではない」と思う人々が多いのは無理もないことです。

ネット上の差別者たちが告訴や訴追されたとき、まずびっくりするように、その多くに罪悪感などなく、気軽な気持ちで面白半分にやっていたという供述が目立ちます。

ネットを介して言葉で揶揄する、貶める、脅すことは、じっさいに面と向かって暴言を吐いたり、怒鳴りつけたり、暴力を振るったりすることとは、別ものだと思っているのです。

あるいは、差別だとしても、程度としては軽く低いものと判定しているのでしょう。差別にも段階があるというわけです。

しかし、このNY市で起きた「アジア系女性、ハンマーで頭殴られる」記事についたあるコメントを読むと、「暴力」からまだ先の段階があることがうかがえると同時に、差別の段階(論)そのものがとんでもない勘違いかもしれないと思いました。

no nameID: d51195

少し主題とはズレるが、私はある時仲良くなった米人に酒の席でアジア女性を伴侶にする理由を尋ねてみた事があるのだが、この回答が非常に衝撃的であった。消されると思うけど書く。

「穏やかな大型犬種と共に生活する感覚に近い」と割と真面目に回答された。

米国は離婚率が高い。
そして再婚相手には前妻とは違う性格のパートナーを求めるが、人に依っては犬と共に暮らす生活を選択する人も少なからずいて、その感覚に似ていると言うのだ。

よくよく尋ねると、もう顔とかじゃなく精神的に寄り添ってくれる生き物枠としてアジア人女性を認識している様であった。

アジア人女性=献身的であるイメージはどこからきたのか、とにかく聞いた時あまりにも価値観が違いすぎて絶句したのだが、それでも犬はなかろうと問うも典型的米国女性の悪 口に話題が移ったので結局有耶無耶に。
 
その後私はこの話題を出さなくなったので、彼のこの考えが一般的なのかどうかは判らないが、自身の倫理観、価値観とは決定的にかけ離れた人達がいるという事を改めて認識できた機会であった。

つまり、住む世界が全く違う。
猛獣のいる場所では闘うより逃げた方がいいと思う。

もちろん、「事実とすれば」という留保をつけなければなりませんが、差別する側の奥深さを垣間見たようで肌が泡立つ思いがしました。

コメントに登場する白人は、自他ともに「差別しない人」でしょう。ある意味で、究極の「差別しない人」かもしれません。

差別に関して、メールやSNSへの投稿ぐらい「たいしたことはない」とタカをくくる日本人も、「決定的にかけ離れた人たち」という筆者に同感するかもしれません。「大型犬」なんてあり得ないと。

「だから日本に人種差別はないって」と早合点するまえに、日本の「差別しない人」は、いったいどんな人なのか、いま一度考え直してみる必要があるでしょう。

メールやSNSへの投稿ぐらい「たいしたことはない」とタカをくくる人たちも、言外に(怒鳴ったり、暴力を振るったり、殺したりするよりずっとマシ)と言っているに等しいわけで、地続きの差別であることはわかっているはずです。そのうえで、差別といっても差異や程度はあるはずと安堵しているのです。

言葉の暴力から身体へ加える暴力の強度がエスカレートするといった段階(論)です。すると、アジア女性との結婚を「大型犬と暮らすに似ている」というコメントの白人はどの段階にもいない、「差別しない人」になります。そこに暴力はないからです。

日本人とは異なり、アメリカの白人はかつての奴隷制度によって黒人差別が残ってきたことから、黒人という少数派に対する自分たち多数派の白人の問題であることをよく知っているはずです。したがって、差別にも差異や程度があるという個人の問題に逃げ込むことができません。

一方、日本の「たいしたことはない」という人は、差別心から差別行為まで、個人や周囲の問題にとどめ、日本人や日本国民の多数派、集団の問題とはとらえないようです。個人から集団へ次数を上げて考えることをしません。

コメントの白人は、アジア女性を伴侶にすることによって、自分の差別心を否定しつつ自分たちの差別を棚上げして、集団から個人へ次数を下げることで心の安寧を得ていると思えます。そう意識したかどうかはべつにして。

つまり、両者は似通った個人的な立場を選び、それぞれ安堵と安寧を得ているとします。おかげで多数派の差別を直視せずに済む代わりに、かえって自らの差別心を温存し肥大化させていることに、眼を閉ざしているように思えます。

「たししたことはない」や「穏やかな大型犬」という個人の異様さとは、そこから生じているのではないでしょうか。

「差別される人」にならないかぎり、「差別しない人」のことは「差別しない人」自身が考え続けるしかありません。どこかから、「いつまでもやってろ」という罵声が聴こえますが。

(止め)


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スーパーやコンビニで国民投票ができる!

2021-05-03 21:03:00 | 政治
「スーパーやコンビニなどに投票所を設けることを柱とする、国民投票法改正案の採決が連休明けに予定されています」

憲法記念日の5月3日、朝7時のNHKニュースで女性アナウンサーがいいました。スーパーやコンビニの店頭で簡単に投票できる、そんな利便性が改正案の「柱」だそうです。アナウンサーのコメントの元記事はこちらです。逐一、検討してみましょう。

憲法施行74年 国民投票法改正案 連休明けに採決行われるか焦点
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210503/k10013010461000.html

>憲法記念日の3日、日本国憲法は、施行から74年を迎えました。国会では、憲法改正の国民投票で商業施設に投票所を設けることなどを柱とした国民投票法改正案の採決が大型連休明けに行われるかどうかが焦点となっています。

2行目の「商業施設」がスーパーやコンビニですね。連休明けに採決が行われるか、行われないかが焦点だそうです。しかし、すぐ後を読むと、自公維に加え野党第一党の立民まで採決に参加するとあります。自公維に立民の議席数を合わせると衆院の91%になるので、採決は行われるに決まっています。焦点になどなりません。

>衆議院の憲法審査会では、3年前の6月に自民・公明両党と日本維新の会などが提出した国民投票法の改正案の審議が行われています。

>改正案は、憲法改正の是非を問う国民投票で商業施設に「共通投票所」を設けることなどが柱で、取り扱いをめぐって、自民党と立憲民主党は、去年12月に今の国会で「何らかの結論」を得ることで合意しています。


今回の改正案はすでに3年前に提出されている古証文の棚卸であることがわかります。3年前も「改正案の柱」は「スーパーやコンビニの店頭で簡単に投票できるようにする」で、内容は変っていないようです。そして、昨年12月にすでに自民党と立憲民主党は国会採決に合意しているようです。

>自民党は、会期末を来月中旬に控え、今の国会で改正案を成立させるために、大型連休明け6日に採決したいとしています。

>立憲民主党は、先週、国民投票の広告規制などについて「施行後3年をめどに法制上の措置を講じる」ことが改正案の付則に盛り込まれれば採決に応じる方針を決めました。


改正案の手直しではなく、「広告規制」について施行後3年のうちに法制上の措置を講じるという文言を改正案の付則に加えてくれと立民は求めています。採決され、可決されることが前提になっているわけです。

>このため、与野党の調整が行われる見通しで、連休明けに採決が行われるかどうかが焦点となっています。

またも、まったく焦点ではないのに、焦点と書いています。

繰り返しますが、連休明け6日の採決に立民が加われば、自公維立で衆院議席の91%、参院議席の80%が賛成して可決となります。たとえ立民が反対に回ったとしても、自公維だけで衆院68%、参院60%を占めていてじゅうぶん可決できます。「その他」にも改憲派が少なくありません。立民は影響力も及ぼせるだけの投票数を持っていないのです。

衆議院定数  465    

自由民主党 278
立憲民主党 110
公明党    29
日本共産党  12
日本維新の会 10
その他    27

参議院定数 245

自由民主党 110
立憲民主党  42
公明党    28
日本維新の会 16
日本共産党  13
その他    34


>一方、参議院の憲法審査会でも先月、およそ3年2か月ぶりに自由討議が行われました。
>国会での憲法論議は、改憲を掲げた安倍政権から菅政権にかわって以降、活発になりつつありますが、

「一方」が曲者です。するっとつけ足りのように憲法改正に話が変わっています。一方や他方は「別もの」に話題転換する言い回しです。憲法改正以外に国民投票が行われることはなく、国民投票法と国民投票、憲法改正はひとまとまりのセットなのです。

また、「3年2か月ぶり」に討議されたのに、どこが「菅政権にかわって以降、活発になりつつあります」なのでしょうか。

>秋までに行われる衆議院選挙に向けた各党の思惑も絡んで、今後どこまで深まるかは不透明な情勢です。

俳句なら季語が何であっても「根岸の里の侘び住まい」で、川柳なら出だしは何であれ「それにつけても金のほしさよ」とつければ何となく収まるように、「思惑が絡んで不透明」は便利な結語です。いつでもどこでも、選挙に向けた各党の思惑は絡み、先行きは不透明に決まっているのですから、無意味といえます。

ただし、今回は「意味深」と受けとって、「うがって読む」こともできます。

コロナ感染が収束するか、ワクチン接種が急速に国民に普及しない限り、このままではオリンピック開催はきわめて難しいのは、誰しも思うところでしょう。

オリンピックが中止、もしくは延期となった場合、「コロナ敗戦」の目に見える結果の一つとして、菅内閣が責任を問われるのは必至ですから、内閣総辞職や首相交代も当然あり得ます。

巨額のオリンピック準備費用が無駄になるわけですから、自民党政権にとって大打撃となり、今秋の衆院選挙には勝てないかもしれないという危機感が高まるのは無理もありません。

そこで、東京五輪に代わる政権にアドバンテージがあるイベントとして、憲法改正の国民投票が浮上してきたと自民党が考えて不思議はありません。

国民投票法改正案の採決をテコに、憲法改正のスケジュールを既成事実化し、「コロナに打ち克った証」をオリンピックから憲法改正にスライドして、セットにするわけです。

憲法改正の「柱」はいうまでもなく、コロナ下の「緊急事態」であり、尖閣・台湾をめぐる中国との「緊急事態」です。その「緊急事態」の「柱」は、「私権の制限」です。

繰り返しますが、自公維の「与党連立」だけでもじゅうぶん国会の2/3を越えて憲法改正を国民に発議できます。これに立民が加わるか、あるいは立民のなかの国民民主党からの移籍組の過半を占める改憲派が加わるだけでも、実質的に大政翼賛です。国民投票が影響されないわけがありません。

すでに、「国民感情」としては改憲に抵抗感などなく、護憲と拮抗どころか、むしろ改憲支持が上回っているようです。

コロナ対応へ改憲「必要」57% 共同通信世論調査
https://news.yahoo.co.jp/articles/7ec1d495b848a971128aff7c5fc0dedf1a2c92ee

憲法改正 「賛成」48%、「反対」31% 毎日新聞世論調査
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6392300

憲法改正を発議する国会で圧倒的多数を占め、改正の可否を下す国民感情が改憲に傾いている。政府自民党にとっては、二度とはない絶好の機会といえます。

しかし、やはり、NHKのいうとおり、憲法改正にとっては、「秋までに行われる衆議院選挙に向けた各党の思惑も絡んで、今後どこまで深まるかは不透明な情勢」が続くはずです。

憲法改正は、オリンピックがそうであったように、あくまでも自民党の政権維持のために、求心力を高める道具に過ぎないからです。

自民党は改憲の正統性を訴えるとき、「自主憲法制定は結党以来の綱領」といいますが、憲法施行74年、一度も本気で改憲に取り組んだことはなく、むしろ避けるように解釈改憲を繰り返してきたのが、ほかならぬ自民党なのです。

本気で改憲に取り組まないのは、なぜでしょうか。国民投票どころか、その前の国会による改正発議以前に、高いハードルがあるからです。国際社会という名のアメリカの承諾が必要です。

憲法改正を秋の衆院選挙の追い風にしようとする政府自民党、その追い風に乗ろうとするが、逆風になればそれにも乗ろうとする立憲民主党、いずれも憲法改正にも反対にも本気ではなく、選挙しか眼中にないという点では同列といえます。

換言すれば、日本と日本人の「緊急事態」に本気で取り組む気はなく、自らの選挙以外についてはタカをくくっているのです。NHK記事の結語中、憲法改正の「(論議)深まる」はまったくの空言空語なのです。

内容に即して、冒頭のNHK記事の見出しは差し替える必要があります。以下の3案を考えてみました。

改題A 憲法改正のための国民投票法改正案 連休明けに採決行われる予定

改題B オリンピック中止にともない憲法改正が焦点へ

改題C 安倍元首相再々登板か オリンピック開催と憲法改正をめざす


(止め)
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心機一転

2021-04-09 13:42:00 | 政治
福島第一原発の事故対応と同じ轍を踏む新型コロナ対応という論考です。

この国のマスメディアは、いま何が実際に起きているのか、どこに問題があるか、何をすればよいのか、あるいはしてはならないのか、という報道が必要とされるときには、ほとんど報道しません。

たとえば、デジタル法の問題点は法案が可決通過した後に「報道」されます。発表記事と速報性を優先するからですが、新型コロナ対応でも、毎日の新規感染者数の発表報道ばかり。

感染者数や検査数の推移と一連のコロナ対策がどう関係しているのか、医療体制のひっ迫とはどんな状況で、どのように対処しているのか、何もかもがほとんどわかりません。

福島第一原発の事故のような大きな事故では、すべてが過ぎ去った数年も経ってから、確定した事実や研究成果を踏まえて、ようやく検証報道や解説記事が出されて、当時起きた事実や伏せられた報告、改竄されたデータなどをはじめて知ります。

ツイッターをはじめとするSNSの普及により、「いま現在」の「検証」や「解説」をする情報はかくだんに増えました。しかし、その土台となっているメディア報道の取捨選択をはじめ、断片的な情報を繋ぐ理路の妥当性を判断するのは容易ではありません。

たいていの人には、そんなリテラシーを身につける暇も余力もないはずで、よくわからないままか、かえって混乱してしまうでしょう。

下のエッセイは、確定した事実と報告に基づく福島第一原発の事故対応を「前例」として、「いま現在」の新型コロナ対応と相似を見い出し、その「病根」を指摘するものです。

いわば、合わせ鏡」に映して姿を見るわけです。

10年前の「反復」がもたらした日本のコロナ危機
「中止だ中止」と言えない主権者と無責任の体系

https://toyokeizai.net/articles/-/420664

2011年(平成23年)3月11日(金) 14時46分、東北地方を中心にM9の巨大地震が起きました。1時間後、高さ15mの大津波に襲われた福島第一原子力発電所は全電源を失います。

停電によって水を各所に供給するポンプが動かず、原子炉を冷却するための水が蒸発してしまえば、炉心溶融(メルトダウン)が起きます。

多くの危険きわまる事象のうち最も危険であったのは、4号機の核燃料プールの件だった。そこには1331体の使用済み核燃料が納められ、うち548体はつい4カ月前に原子炉内から引き抜かれたばかりの、高温の崩壊熱を放つものだった。そのプールに注水できなくなった。注水できなければ当然、プールのなかの水は核燃料の崩壊熱によって蒸発し、燃料がむき出しになる。

3月13日昼過ぎの時点で原子炉に注入する淡水がなくなり、吉田昌郎福島第一原発所長は、海水を注入するほかないと報告した。その直後の東電本社と現場とのテレビ会議の模様が後に報道されるが、そこで東電幹部から発せられた言葉は耳を疑わせるものだった。

「いきなり海水っていうのはそのまま材料が腐っちゃったりしてもったいないので、なるべくねばって真水を待つという選択肢もあるというふうに理解していいでしょうか」

この幹部が懸念したのは、海水を注入された原子炉が使用不能になることだった。吉田所長は「理解してはいけなくて、(中略)今から真水というのはないんです。時間が遅れます、また」と即座に返しているが、この会話は狂人と正常人のやり取りに聞こえる。メルトダウンはもう間近に迫っていた。

当時の菅直人政権は、最悪のシナリオとして、首都圏を含む東日本全体の壊滅を想定したというが、それは何ら大袈裟なものではなかった。この事態は、東日本壊滅というよりも、日本壊滅と考えたほうが適切であろう。また、日本にとどまらず、世界全体の自然環境に対する影響の観点からすれば、文明の終焉すらもたらしかねない事態だった。

東電幹部の言葉からは、そのような認識と切迫感が一切感じられない。「原子炉が使えなくなると我が社に何百億円も損が出る」という懸念があるだけだ。要するに、この人物は、「日本が終了してしまうこと」と「東京電力という会社が何百億円か損失を出すこと」とを天秤に掛けてどちらが重大であるのかを判断できなかった。
都合により順序を入れ替えています

と、たいていはここで「批判」の筆を止めます。

となると、「間違っていたかもしれないが、会社を守りたいという気持ちは理解できる」という「情状酌量」の余地も生まれます。あるいは、「会議の場でいろいろな可能性を検討するために、尋ねるくらいは当然じゃないか」という擁護論も出てきます。「日本壊滅の瀬戸際だったなんて、後にわかったことでそのときは「想定外」だったのだから、多少とんちんかんな質問や指示などがあっても、結果論で責めるのはどうか」といった開き直りまであり得ます。

物事を自分に引きつけて「相対化」して、それを「客観中立的」な立場と思いがちな、読み手の心機を包含するもので、メディアの「追及」はたいていここまでです。しかし、この筆者はさらに続けます。

否、東電の損失すら考えていなかったもしれない。大失態を起こしてしまった原子力部門に属する自分の出世の困難を思っていたのかもしれない。かかる人物を形容するにあたり、「狂人」以外に適切な言葉を私は知らない。

吉田所長と東電幹部のTV会議のやりとりは、このブログでも触れたことがあります。

おい、吉田
https://moon.ap.teacup.com/chijin/1066.html

この筆者のように、こうした発言をした東電幹部を「狂人」とまで私は思いません。自己保身に汲々とすることは、自分に引きつけるなら誰しも思うことであり、その逆に手柄を立てて少しでも上の位階に上がりたいという「向上心」や「野心」と裏表の心機とも考えられます。

もし狂っているとすれば、そうした自己保身に汲々とする自己ですら、じつは稀薄ではないかと思えるところです。自己保身というなら、自らを含む原子力部門から会社までの無事安寧を願い、そのため「だけ」には懸命になるものと考えられます。

が、その心機もまた、建前に過ぎず、直接的には、そしていちばん心を砕いているのは、その場にいる上位者、その背後に控えるさらなる上位者の機嫌を損ねたくないというテーマではないでしょうか。本音ではなく命題です。

たとえば、自己保身だけと批難したとしても、理屈としてはわかっても得心できないといった風に、彼は首を捻るでしょう。彼自身にとってこのテーマは意識せずに遂行できるまで内部化しているからです。

眼前の上位者に眉を顰めさせず渋い顔をさせず、機嫌のよいニコニコ顔でいてもらう、そのために俺がどれほど苦労をしてきたか、その苦労の甲斐あってこそ、ここまで出世できたという認識に、彼は持ち金のすべてを賭けるでしょう。

失敗したり窮地に追い込まれて、自己保身に汲々とするなら、成功したり追い風に乗ったなら、社内では肩で風を切って仕事に邁進し、業績を上げる企画や改革を進めるのですが、そうした個人として当然の動機すら、上位者の機嫌のなかに埋没しているのです。

自己保身に汲々とするのは自己利益のためですが、上位者のご機嫌取りに汲々とするのは、ある意味自己犠牲をともなう辛い「仕事」です。会社の存亡など、理屈としてはわかっていても、じつは眼中にはありません。

このエッセイでは、無責任体系、反知性主義、新自由主義など、いろいろな主義や構造が批判的にとりあげられていますが、それらはじつは原因や要因ではなく、こうした「ご機嫌第一主義」の結果に過ぎないのではないでしょうか。

「狂人」の淵源を先の敗戦に筆者は求めていますが、私なら敗戦後の占領期を思い浮かべます。会議室で占領者であるアメリカ人に相対して、日本の官僚や政治家たちは、いったい何に腐心したことでしょう。とにかく、相手の機嫌を損ねないこと、ニコニコ顔で世辞の一つももらえたら、有頂天になったことでしょう。


板橋文夫 Fumio Itabashi Trio - Cry Me A River



(止め)


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情けないスポーツマン

2021-04-02 06:50:00 | 政治
オリンピックに殺される。開閉会式の差別的演出と非情なスポーツマンたち
https://news.yahoo.co.jp/articles/209f84b2bbbb7e7f40c3229a5263c1761bdc811c?page=2

>スポーツマンは本当に非情です。オリンピック招致をめぐる贈収賄疑惑が公になっても、スポーツ関係者から問題を追及する声は出てきません。新国立競技場の建設現場で若い現場監督が過労死していても、スポーツ関係者は弔辞の一つも出しません。オリ・パラリンピックを支える余裕はないと医療関係者が悲鳴を上げていても、スポーツ関係者は我関せずです。およそ血の通った人間であれば、もう大会はやめようと言うべきところですが、数多いるスポーツマンたちはまったく沈黙しているのです。そういう反社会的な態度をとりながら、「ワンチーム! ワンチーム!」と呼びかけてくる。こんな非情な人たちに関わっていたら、命がいくつあっても足りません。オリ・パラリンピックに巻き込まれないように、一刻も早く東京から退避するべきだと思います。

かつてはスポーツマン、いまではアスリートとかいうけど、観客は運動会に出る子どもをみるように、「よくがんばったね、えらいね」、あるいは「よくがんばったのに、残念だったね」と観ているだけ。

選手の努力の積み重ねや競技の妙や醍醐味などに関心はない。いわんや彼や彼女の成果を「人類の達成」とする視野などないから、選手をいたずらに英雄視することもない代わりに、敬意を抱くこともない。

それどころか、「運動バカ」「筋肉脳」くらい一段低く思っているから、政治的発言など論外で、オリンピック開催に言上げするなども僭越ととらえ反感を抱くというのが、実際のところではないか。

「大変でしょうが、ぼくたちも頑張りますから、なんとかオリンピックを開催してほしい、と個人的には祈るような気持ちです」というのが正答であって、「運動会を楽しみにして、一生懸命練習してきた子どもたちがかわいそうじゃないか」という「素朴」な気持ちがその前提とされている。

広告屋の宣伝文句から広まった「勇気を感動をありがとう」も、「子育てしていると、学ぶことも多いし、ぎゃくに励まされて、頑張ろうという気になりますよ」というよくある子どもをだしにした「私自慢」とさして変わりはない。

スポーツ界にどんな不祥事が起きようと、つねに「選手に罪はない」とされるのは、つまりは「子どもに罪はない」と選ぶところがないわけだ。選手を子ども扱いするスポーツ界の指導者やスポーツ団体の幹部もまた、選手上がりの大人子どもだから、躾や指導に名を借りた暴力、パワハラ、セクハラが絶えることがない。

もちろん、最大の問題は「バカ親」たちである国民にあるのだが、「子どもに罪はない」のなら、結局、親にも罪はないことになるので、八方丸く収まるのである。「責任を痛感している」という発語ほど、無責任を言明する言葉もほかにないだろう。James F.氏がいうように、ほんとうに日本語はその内実を失って久しい。

上記の記事中、「非情なスポーツマンたち」が羊頭狗肉なほど分量が少なく後味がよくないので、実も蓋もない素材に戻してみたが、いうまでもなく、ラグビーの平尾剛氏のような例外はある。スポーツ団体の幹部が、「多様なご意見を伺う」ときにもけっして呼ばれることはないのだが。

【一発撮り‼︎】鈴木紗理奈です。バチバチ気合入れてうっせぇわ歌ってみました[ado]


大ヒットしているそうです。「うん、あの歌ね、あれはコラージュっていうかあ」と解説オジして「うっせぇわ」と返される、「声かけ事案」があちらこちらで発生しているでしょう。
(止め)
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