コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

今週の拾得物 社長吠える

2021-02-19 22:47:00 | 政治
ツイッターで話題になっているところをみると、下のような記事や論考がメディアに出たことはないのだろう。メディアの記者やスポーツジャーナリストではなく、素人の「社長」がじつは当たり前の視点や問題意識を持った論評を書かざるを得なかったところに、日本のジャーナリズムの深刻な劣化と頽廃が表れています。これを書いたことで「社長」の社業にいささかなりとも悪影響が出ないか心配します。

森氏辞任に考える 日本社会に残る無意味な風習
https://www.nikkei.com/article/DGXZQODH151PP0V10C21A2000000/

ロス五輪のユべロスの功績など、オリンピックを担当する記者なら誰でも書けるはずなのに、森会長と比較してはとても書けないわけです。掲載した日経ですら、こんな腰の引けた凡庸なタイトルをつけるくらいですから。

後に彼を取材した日本の記者にこう語っています。「小さなオフィスを借り、段ボール1箱のファイルと20人のボランティア、100ドルで開いた銀行口座。それがすべての始まりだった」

一般公募から組織委のトップに立ったユべロスと元首相の森喜朗では、そのアドバンテージに月とスッポンくらいの差があります。もちろん、前者にはるかに分があります。

「公的資金を一銭も使わない五輪を実現」した、ユべロスの「商業主義」とはどんなものだったか。その内実を知りもせず、ただ「商業主義」と貶められてきたことへ「社長」の憤りがうかがえます。

五輪組織委にかぎらず、「商業主義」にすら至らぬ、根回しと調整という「政治主義」で、あるいは「人類がコロナに打ち克った証として」と一足飛びの精神主義により、悪しき「国家主義」や「経済成長主義」が横行するのを国民は口を空けてボンヤリ見ているだけ。昭和から変わらぬ日本の姿にあらためて失望します。そりゃ、橋本聖子さんだって嫌だよ。

このくらい元気でかっこよい女性が日本にもっと出てきてほしいものです。

Candy Dulfer - Pick Up The Pieces (Part 1)


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森喜朗かく語りき

2021-02-08 08:01:00 | 政治
オリンピック組織委員会の森喜朗会長が「女性差別発言」をめぐり、辞任を迫られる勢いで批判されている。

「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」と要約された差別発言とは、以下のようなものだ。

「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」
「女性の優れているところですが、競争意識が強い。誰か手を挙げると『自分も言わないといけない』と思うんでしょうね」
「女性を増やす場合、発言の時間をある程度は規制しておかないと、なかなか終わらないので困る」
「組織委員会にも女性はいるが、みんなわきまえておられる」

女性が多い会議は、時間がかかる。女性は競争意識が強い。科学的な根拠があるのでも何らかの調査結果が出たわけでもない。森喜朗会長自身の見聞や周辺からの伝聞に過ぎない。

にもかかわらず、(女性の競争意識から議事進行のためというより、自己アピールのために発言の機会を求めるので、会議が長くなって迷惑だ)という含意が、JOC評議会の出席者たちから同感され、「笑い」を誘い場を和ませたのだろう。

彼らのホモソーシャルな組織の「紐帯」と、「女性理事」とはしょせん「なんちゃって」なのだ、という「蔑視」を確認できたからだ。

建築関連の職人たちの話を聞いていると、たとえば、「会社に言ったんだよ。なんちゃっては困る。プロを寄こしてくれって」とか、「あれはまあ、なんちゃって大工だから」「なんちゃって左官屋の手直しするくらいなら、派遣使って手元やらせたほうがまし」などという。

プロとしての技能に欠けるだけでなく、仕事への責任感が乏しい困り者を「なんちゃって」と呼んでいるらしく、後者により比重がかかっているようだ。

それをいう職人に、「差別だ」といえば、目を丸くするだろう。あくまでも仕事に対する評価だからだ。

一方、女性の場合、彼女の技能や責任感がどれほど高く強かろうと「なんちゃって」扱いされることが多い。これはまぎれもなく女性差別といえるのだが、差別する側はつねにそれを「評価jといい、けっして「差別」とは認めない。

当然、森喜朗会長に反省の二字はない。かえって批判に油を注ぐことになった「謝罪会見」時の言動や、会見後にTV出演した際の「撤回したほうが早い」といった発言をみても、そう断じてかまわないはずだ。

今夏の東京オリンピック開催の支障になるのを懸念しただけで、森喜朗会長は女性差別問題などにほとんど関心もないのではないか。彼にとって、政治的な現実とは、女性差別を撤廃するということより、撤廃をめぐって対立する諸派諸人を調整することだからだ。

女性差別だけでなく、差別を生み出す組織の構造 それを正す民主主義の不断の努力など、非制度的な良心や倫理に関わる人々の営為についても、関心外なのではないか。

むしろ、それこそ自民党政治家としての分別と振舞いであり、心構えと自負さえ覚えているのかもしれない。その淵源に思い至らないわけではない。

戦後30年(1975年)の10月、昭和天皇、皇后はアメリカを初訪問し、10月31日、これまた初の公式記者会見に臨み、以下のような質疑応答があった。

─天皇陛下はホワイトハウスで「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がありましたが、このことは戦争に対しての責任を感じておられるという意味に解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任についてどのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします。

「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答え出来かねます」


戦争責任そのものを「公理」とは認めず、「文学方面」の「言葉のアヤ」と捨象して、論点ずらしが行われている。ならば、「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」という「文学方面」の「言葉の綾」を駆使した発言と矛盾するのだが、そこにあまり意味はないだろう。日米友好の一層に進展を願った、まさに「言葉の綾」であるからだ。

ここで天皇陛下自身が語っているのは、公理については語らないということだろうが、戦争責任については、昭和21年の小林秀雄の言葉も有名だ。

僕は馬鹿だから反省なんぞしない、悧巧な奴は勝手にたんと反省すればいゝだろう。

敗戦の翌年の私人の発言と戦後30年の公人の最たる天皇の発言、そして森喜朗会長の発言には通底するものがある。それはホモソーシャルという外来語では捕捉できない、公理とそれを語る言葉への蔑視に表れる、同型の「反動性」に思える。

そうした反動性は、今回の森喜朗会長の性差別発言を批判する報道の側にも通底するといえよう。「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」と同時に、森喜朗会長は「私たちはコロナがどういう形であろうと必ずやる」という発言もしている。

新型コロナの感染拡大がおさまらず医療崩壊が起きても、国民の生命や安全がどのような危険に晒されようとも、この夏の東京オリンピックを開催すると言明したのだ。

こちらのほうが、「女性が多い会議は長くなる」より、はるかに重大な問題発言のはずだが、報道の批判の矛先は「女性差別発言」一色だ。

森喜朗会長の進退のみならず、東京オリンピック開催の是非を追及できる決定的な発言を取り上げもせず、「オリンピック憲章が謳う多様性を否定」だの「海外からも批判が相次ぐ」「女性も発言を止めないで」など、「女性差別」についてさえ、まるで他人事の「逆風」報道でお茶を濁しているのはなぜか。

ひとつにはいうまでもなく、新聞TVなど大手メディアが東京オリンピック協賛企業であり、そのビジネスチャンスを当てにしているからである。

もうひとつは、沈静化にはほど遠い新型コロナの感染拡大、欧米に比べて遅れるワクチン接種など、先行きへの不安から東京オリンピック「不要論」に傾く国民感情のガス抜きが考えられる。

あるいは、森喜朗会長の進退まで問う批判報道から菅内閣の「政局化」を狙ったという見方もできるが、およそは東京オリンピック開催に向けた「忖度報道」ではないかと思える。

いずれにしろ、森喜朗会長の「女性差別発言」批判報道はメディアにとって名目にとどまる。

「戦争責任」についてさえ、「文学方面」の「言葉のアヤ」であり、東京オリンピック開催の国益を前にしては、「国民の生命や安全」がどれほど脅かされようと「支障」にならないのなら、「女性差別発言」などは、枝葉末節の片々たる字句の問題に過ぎないはずだ。

They Say Japanese Women from the 80’s Know This Song TikTok Compilation (Stay With Me-Miki Matsubara


竹内マリアの「プラスティックラブ」をはじめとする80年代のシティポップスが海外で人気を呼び、なかでも松原みきの「真夜中のドア stay with me」は世界47か国でヒットチャートベスト10入りという「大ヒット」だそうです。TikTok にはリバイバルヒットしたこの曲を娘から聴かされ、思い出していっしょに歌い出す50代~のママたちの姿がたくさん上げられているようです。

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台湾から学ぶこと

2021-01-20 22:23:00 | 政治
もっともコロナ対策に成果を上げている国はどこかといえば、中国と台湾です。ロックダウン以上の戒厳令を敷いて感染を抑え込んだ中国とは対照的に、国民の理解と協力を得る努力を徹底した台湾の今です。

台湾IT相語る”世界とコロナ”【報道特集】
https://www.youtube.com/watch?v=_ykhGO_B3xw

典拠は挙げませんが、ついこの間まで国会で議員が殴り合っていた、泥棒や詐欺師を群衆が街角で私刑していたのが台湾の民主主義です。

番組では「ひまわり運動」という学生運動の盛り上がりが大きな転機となったとしていますが、その後の香港の「併合」が台湾の民主主義の成熟に拍車をかけたのではないでしょうか。ロックダウンをせずに感染を抑え込み、経済もプラス成長を維持しています。

中国の全体主義とは異なる統治を示すことによって、台湾が中国とは違う国であることを遍く知らしめました。中国とアメリカの二極世界に、市民的自由を担保しながら感染爆発を避けられるというモデルケースをを提供して、世界的な民主主義の後退平にひとつの楔を打ち込んだといえます。
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リスペクト派とパラサイト

2020-12-19 00:39:00 | 政治
言葉の綾掲示板でSさんから「リスペクト派って何?」と質問を頂戴した。その回答になる格好のテキストがあったので、ご紹介がてらいくつか思いついたところを述べてみる。

ときどき読んでいる小田嶋隆の日経コラムからだが、たぶんもう無料で読める時間を過ぎたはずなので、長い引用となった。

私個人は、今回のDHC会長の発言が明らかにしたのは、一個人の差別意識である以上に、21世紀のわが国の社会を支配している拝金主義だったのではなかろうかと思っている。

いったいに21世紀の日本人は、セレブに対して寛大すぎる。

もう少し丁寧な言い方をすれば、カネと知名度を持っている一部の成功者に対して、あらかじめ敗北感を抱いている日本人が多数派を占めていることが、一部のキャラの立った手前勝手な成金たちの、粗野で野放図な活躍を思い切り後押しする結果を招いているということだ。


個人的には、20歳の女性に「テキーラチャレンジ(15分の間に750mlのテキーラのボトルを飲み干したら10万円を支払うというギャンブル)を持ちかけて死に至らしめた若手起業家の話や、強制性交などの容疑で6回逮捕され、6回不起訴処分になっている元ミスター慶応のエピソードに対しても、同じ印象を抱いている。

その印象とは、一言で言えば、「カネとコネを持っている人間は、ある程度何をやっても大丈夫だし、彼らは好きなことをやってのける権利を持っている」という感じの、パンピーの抱く「あきらめ」の結果だったりする。

DHCの吉田嘉明会長は、DHCテレビというテレビ番組制作会社を持っていて、そこで「ニュース女子」「虎ノ門ニュース」といういずれも、差別的な内容を含んだ番組を制作している。

こういうこと(一企業の経営者がメディアに対して過剰かつ不当な支配力を発揮していること)に対しての批判は、ほとんどメディアには出てこない。


というのも、商業メディアは、DHC発の広告宣伝費に依存しているからだ。

よく似た現象は、保守的な思想を持つことで知られる
美容整形クリニックの院長や、同じく自民党保守派との結びつきの深さを伝えられているホテルグループのオーナーの周辺でも起こっている。

いずれの場合でも、「それなりのカネを出している以上、いろいろと口を出す権利はあるよね」「なにしろ自分のカネでやっていることなんだから、われわれがどうこう言えることではないのかな」てな調子で、21世紀の不景気育ちの人間は、「自腹を切る個人」を責めない。というよりも、「モノを言う金持ち」に対しては、はじめから白旗をあげる構えで対処している。

儲かっていることを過剰に言い立てるオンラインサロン主宰者や、賛同者が何万人もいることを強調してやまない情報商材販売者が、もののみごとに「信者」を獲得している経緯も、似ていると言えば似ている。

IT企業の社長や、ネット創業者や、自称天才編集者や、ものを言うベストセラー作家も含めて、大言壮語をする自信満々の金持ちに誘引される人々が、どうしてなのか大量に再生産され続けている。

あるいは、2020年代の若者は、不遜な発言を繰り返しつつそれでもカネの力で周囲をねじふせている彼らを、どこかで英雄視しているのかもしれない。

でもまあ、1970年代まるごとを「セックス・ドラッグ・ロックンロール」てな調子の不埒で浅薄なアジテーションに共感する若者として過ごした私には、彼らを叱り飛ばす資格はないのだろう。

まあ、好きにしてくれ。 DHCの会長に対しては、彼はもう若者ではないので、
 「いいかげんにしなさい」
と言っておく。


米アカデミー作品賞を受賞した韓国映画「パラサイト 半地下の家族」は、トイレの排水が逆流するような半地下に住む底辺家族が、富裕なIT実業家一家の豪邸に寄生して生きのびようと奮闘するブラックコメディだった。(あっ、ここから盛大にネタバレを含むのでご容赦)、一転、ホラー映画になっていくのは、その豪邸の地下室に隠れ住んでいた<地下人>が現れてからだ

下水の臭いがする半地下の劣悪なアパートに住む全員失業者の家族が、高台の高級住宅地に有名建築家が建てたモダンな豪邸に入り込んで好き勝手していたら、北朝鮮からのミサイル攻撃に備えて造られた秘密の地下シェルターに、すでに先住「パラサイト」である<地下人>に出くわす。

このあたり、地球人への逆襲を虎視眈々とうかがう地底人!のさらに地底深くに最低人がいた!!といういしいひさいちの傑作4コママンガを思い出して笑った。

日本より先行してグローバル経済下にある韓国では、一人当たりのGDPがついに日本を追い抜く(2018年)ほどの「経済先進国」になった反面、金と権力が一体化した過酷な格差社会が浮上していることがこの映画の背景になっている。そうした階層の落差と断裂を描くのに、この映画は住居をモチーフとしている。

「半地下の家族」はIT実業家セレブ家族に寄生して食いつなぐことができて、当初は「ありがたいことだ」と感謝する。いわば、金持ちのおこぼれにあずかったわけだが、その身分はセレブ家族それぞれに仕える使用人であり、給与生活者である。

対して、<地下人>のおこぼれは比喩どころか、ほんとうにセレブの食い残しや余り物を盗み食べて生きている。「半地下の家族」はセレブ家族を騙しながらも、敬愛の情を抱くようになっていくが、先住「パラサイト」の<地下人>はもっと強烈にセレブ一家を「リスペクト」している。

ビジネス誌に掲載されたIT実業家当主の写真を壁に貼り、朝に晩に「リスペクトおおお!」と叫んでから、「いつもおいしい食べ物をありがとう」と感謝しながら拝む。まるで金正恩一族の写真に拝跪する北朝鮮人民のように。

私が「リスペクト派」としたのは、この「地下人」から思いついたことだ。韓国では、金持ちや権力者などのセレブや高学歴エリートを信仰の対象のごとく「リスペクト」する人々がじっさいに出現していて、映画は彼らから「地下人」の着想を得たのだろう。

金や権力を信奉しながら得られない代わりに、その金や権力を体現しているセレブやエリートを「リスペクト」するのは当然であり、セレブの豪奢な暮らしぶりやエリートや権力者の傲慢を非難するマスコミやリベラルには、「信者」として反発を覚えるというわけだ。

さて、宿主とパラサイトは共存できるが、パラサイト同士は共生できない。「半地下」の家族に対して「地下人」のが逆襲がはじまり、ここから映画は地獄絵になっていくのだが・・。

ゲームに参加したSさんが気づいた「なんとなく韓国中国嫌いなおっさん」たちは、たぶん、小田嶋コラムが列挙したDHC会長をはじめとする「貧寒な脳内」のセレブたちの所業に、それほど反感や反発を覚えないし、むしろその「本音」主義を好感してマスコミやリベラルからの批難に冷笑的になるだろう。

もうひとつ、最近の事例を加えれば、草津町議会のリコール成立を加えれば、セクハラ疑惑の町長やその肩を持った町議会議長たちの「多数決」を重視するだろうことも容易に想像できる。

やはり、「リスペクト派」のおっさんたちだと思う。

「リスペクト派」に対して、Sさんからは併せて「もう1種類はどんな集団ですか?」というご下問もあった。「リスペクト派」の反対を思い考えればよいのだが、 小田嶋氏の論旨に沿って一言でいえば、「不寛容派」ということになる。

差別や横車を押す人に「不寛容な人」だ。「リスペクト派」はマスコミやリベラルの知識や情報に「逆張り」して、結果的に「差別」や「ヘイト」する人々が多い。言い返しただけだと思っているから罪悪感などない。

いっぽう、「不寛容派」は「差別」や「ヘイト」をする人を容認できない、許せない人たちである。「リスペクト派」は金持ちや権力者に事大主義なのだが、「不寛容派」は一身に罪と罰を背負うような苦しい事大主義があるといえる。

つまり、「リスペクト派」のような知識や情報の上のことではなく(それもデマとフェイク、あるいは架空で構成された知識や情報だが)、「不寛容派」は、人として、生き方の問題としてとらえる。「リスペクト派」との対極はそれだと思う。

たとえば、昔、斎藤龍鳳という映画評論家がいた。『なにが粋かよ』という遺稿集があるが、そのタイトル通り、「なにが粋かよ」と意気がる自家撞着の人であり、中年になってから新左翼のML派に入ったり、上掲の小田嶋コラムの「わが70年代」をもじれば、「セックス・ドラッグ・レフト」に自家中毒した人だった。

もちろん呑んだくれ、誰彼かまわず喧嘩をふっかけ、破滅型といえば聞こえはよいが、「真に鼻つまみだった」(と後出の竹中労は書いている)。そのくせ暮らしの望みは、下町の長屋に着流しで端然と住まい、銭湯の後に居酒屋で一杯やって帰るなどと書いている。

最後は、かつて自分も書いていた週刊誌の製本を請け負う、製本工場の臨時工として孤独死した。享年43。 

「1971年3月26日、斎藤龍鳳は死んだ。東京都中野区大和町2丁目46、六畳の一間のアパートで、電気毛布にくるまり、鼻と口から血を流していたという。看取る者はなく、一人で死んだ。『コーラが飲みたい』と枕元に書き置き。布団のしたに出刃包丁、つけっぱなしのガスストーブが真っ赤になっていた。発見した管理人が警察に通報し、変死者として解剖に付された」(『無頼の点鬼簿』竹中労)。

斎藤龍鳳はジャーナリズムや批評や左翼の一隅に身を置きながら、「知識や情報の上のこと」には目もくれず、戦中戦後派としての自らの記憶と感情と行動のみに従った。そういう生き方に共感を寄せる人々もいた。斎藤龍鳳ほど激越ではないが、多少なりとも自家撞着や自家中毒と伴走している自覚がそれぞれにあったためだと思う。

「なんとなく韓国中国嫌いなおっさん」たちの言説は、あくまでもどこまでも「知識や情報の上のこと」に過ぎず、おのれの生き方とは別に、すなわちオンラインの「ニッポン、チャチャチャ」(古いネ)なる架空の記憶に扇情されているのとは対称的といえる。

なにが粋かよ気がつくときはみんな手遅れ吹きさらし”😎

きっとSさんが期待した回答や展開からはほど遠くなったはずだ。最後まで読んでくれたとしたら、申し訳なかった。

(止め)

どちらも有名な曲のメロディと歌詞をオマージュしています。

Lana Del Rey - Doin’ Time (Official Video)


Ariana Grande - 7 rings (Official Video)



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アメリカは蜃気楼、日本は森喜朗だから

2020-11-11 02:55:00 | 政治
アメリカ大統領選をめぐって、「アメリカの政治に詳しい元外務省の」「アメリカ政治がご専門の○○大学の」「ワシントン特派員経験もあるジャーナリストの」「ニューヨーク支局の」、いろんな人が解説をしてきた。

町山智弘氏のアメリカリポートのような例外もあるが、たいていが「浮世三分五厘」の駄弁に思えたうえに、「トランプ支持者」に対する言及がほとんどないことに苛立ってきた。

繰り返し、ニュース画面に登場する、州別に色分けされたアメリカ平面図において、つねに赤色(トランプ支持)が青色(バイデン支持)を圧倒している「赤いイリュージョン〈蜃気楼〉」を眺めさせられるたびに、その視野を占める赤に肌が泡立つような思いがよぎった。



以下を読んで、自分が何に怖気をふるったのか、その正体がわかった気がした。

日本人としてバイデン勝利を悲しむ
https://anond.hatelabo.jp/20201108231135

平明にして簡潔なタイトルに唸った。私なら、「赤い蜃気楼について」とか気取ってしまうだろう。

アメリカに親戚も友人もいないがバイデンの勝利がもの悲しい。

ということは、アメリカ留学や赴任経験がないのに、「トランプ支持層」について、これほどの短文にしてこれだけ説得力ある論評をものしたわけだ。

ジョー・バイデンの勝利演説を聞いてますますその思いを強くした。

「分断ではなく統合を」。

これはトランプ支持者たちが最も聞きたくなかったスローガンだろう。 

だって現に分断はあるわけだから。

トランプが現れる前からそれはあって、トランプはそれを認めてくれたにすぎない。

トランプはそういう戦略であってもその種の問題についての欺瞞は言わず、目を背けなかった。

「俺達と奴等との戦いなんだ」と。

それはオバマやヒラリーやバイデンのどのスローガンよりもトランプ支持者となるような層の現実に向き合った言葉だ。

そうして、「俺達」の代表は敗れ去ってしまった。 

アメリカという国のありとあらゆるインテリや金持ちやエスタブリッシュメントがバイデンについた。

彼等はトランプを支持するような粗野で垢ぬけず育ちが悪く学歴の低い田舎者をまとめて卑しむ。

卑しむし、見捨てる。

彼等はこれから石油産業は閉鎖するし低賃金の仕事にはますます移民を入れるしありとあらゆる外国産の物品を輸入するし

それで貧窮する田舎の低学歴なんか勝手にホームレスになって視界の外で消えて行ってくれるのが当然だと思っている。

トランプ支持者になるような層の生息域は「合理的」にまるごとグローバリストに売り渡してしまう。

これらはどんな立派な演説でも覆い隠せない純然たる事実だ。

(中略)

バイデンとその支持者になるような層が「分断ではなく統合を」という時に、

その統合の中にトランプ支持者になるような層や、私の故郷に生きるような層は含まれない。

そのことはどんな低学歴であっても鋭敏に嗅ぎつけている。

「分断ではなく統合を」はつまり、「お前等のことは見えない振りをしながら消えていくように追い詰める」という宣言に他ならない


トランプが「希望」であるようなトランプ支持層の「絶望」に身を寄せているところが、凡百の論評の及ばないところだ。

トランプではなく、トランプ支持層をほとんど支持している。「ヘドが出るような頭もセンスも悪い低学歴のカッペ(コメント欄)」たちを仲間とし、友人とみている。

すると、「日本人として」は、「アベガー」と「反アベガー」を連想するかもしれないが、安倍はとうてい「大衆政治家(ポピュリスト)」としてトランプに及ばず、支持層の「絶望」と「過激さ」において比較にならない。

ある意味では、バイデンの勝利ではなく、トランプの敗北にこそ、アメリカのデモクラシーの底力を見ている。バイデンの勝利=トランプの敗北という等式ではなく、バイデンの勝利VSトランプの敗北という対立の構図に、分断され続ける民衆の相貌をみようとしている。

私もまた、ほんのときたま現れる「蜃気楼」のような、「見えない振りをされて、切り捨てられる」「赤い」民衆の一人でありながら、「青空」を求める自家撞着を可視化された「怖気」に震えたのかもしれない。

「分断」から「統合」へ思考停止する怯懦を鋭く指摘された気がする。


アメリカ国旗や南軍旗には、すでに赤と青の分断と統合が表されているのだな。

それでは、「トランプ支持層」にも絶大な人気がある「ボス」の名唱です。

The River bruce springsteen



(止め)


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