コタツ評論

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私は腰高く自転車のペダルを踏みつけた

2002-09-23 23:18:00 | ダイアローグ
団地前の植え込みから
叱りつけるように私を呼び止めた声の主は
細い首を伸ばし明かぬ眼をめぐらせて
私の手指が近づく気配を察知した
マッチ軸ほどの四肢なのに
すでに半透明の爪が伸び
私の手からもがき逃げようとする
拝顔の栄に浴した後吹き出すのを噛みこらえ
Tシャツの裾にくるむ
命名の筆頭候補は孫悟空

家へ駆け戻り
哺乳瓶からミルクを与えると
無毛の腹がみるみる膨らんだ
寝床に敷いた古いマフラーの波に
躓き溺れるほど弱々しくとも
私を探し求めるこの新しい重荷

その溜息は明らかに私の不実をなじっていて
肘上のたぷたぷした円周をなぞる
私の中指に感応したからではなかった
ノースリーブの肩口からはみ出した
ブラジャーの紐を弄びながら
「なぜそんなに私の顔色を窺うの?」という質問
期待された答えではないことに
言う前から気がついていた

みすぼらしい野良猫の仔と見くびられぬよう
ゴディバの空箱に入れてきた軽躁は裏切られ
獣医の診断は無惨なものだった
肛門上の傷口には蛆が産みつけられ
肛門括約筋を深く侵食していた
赤黒い穿孔から数十匹の蛆が
ピンセットによってつまみ出された
「お飼いになられますか?」と獣医
期待された答えではないことには
言う前から気がついていた
手術にも抗生物質にも耐えられぬ
このちっぽけな命が
たとえ運よく助かったとしても
垂れ流しの一生だと最前に彼は保証したのだから

伏せた睫にかかるしょっぱい滴を舐め取り
女の耳朶から首筋に口づけた
シンメトリックな笑顔はやがて片歪み
まっすぐ正面から私を見つめる瞳は
いつか所在なげに迷うようになるだろう
血肉はやがて冷える
遅かれ早かれ

肛門が血に汚れていたのは知っていた
眼も見えぬまま植え込みを這いずり回り
傷つけたのだろうが少し出血が多すぎた
盆休みにも診てくれる獣医をようやく見つけ
自転車の籠へ孫悟空を入れ
私は腰高く自転車のペダルを踏みつけた
お前はそのうち眼をいっぱいに見開くだろう
あの見事に咲き誇る百日紅の鮮紅色や
青空を分かつ飛行機雲を仰ぎ見て
孫悟空よ
お前の瞳は
そのとき何色に光っているだろう

(9/3/23)