JG・バラードの『コカイン・ナイト』をちびちび惜しみ惜しみ読むために、併読できそうななるべく脳天気なミステリを探して、本屋の棚からジム・トンプスン『俺の中の殺し屋』(扶桑社文庫 800円)を手に取った。知らない作家だったが、パラパラとしてみたら読み易そうと、それから一気通貫! スティーブン・キングの解説読むまで、この犯罪小説が50余年も前に書かれたものとはまったく思いもしなかった。ましてや、「『モビーディック』」や『ハックルベリィ・フィンの冒険』や『日はまた昇る』と並ぶアメリカ文学の傑作」(S・キング)とも。だが、なるほど、主人公の保安官助手ルウ・フォードが揶揄する、「ずいぶん本は読んだけれど、ここが見せ場というところに来ると作者は必ず頭に血が上ってしまうようだ。句読点がおろそかになってきて、やみくもに言葉を羅列して、瞬く星が深い夢のない海に沈んでいくなどという戯言を並べ出す。そして、主人公が女と寝ているのか土台石と寝ているのかも、はっきりしなくなる。どうやらその手の駄文がとても奥深い内容のものとみなされているらしい-見たところ、書評家の多くがそれを真に受けているみたいだ。だが、俺に言わせれば、作者はひどい怠け者で自分の仕事をまともにこなしていない。おれは、ほかのことはどうあれ、怠け者ではない。だから、すべてを話すことにする」といった気取った虚仮脅かしは前出の3作にはない。それどころか、たぶん、『俺の中の殺し屋』はダーティワードだらけなのだろう。40~50年代に大量生産された書き飛ばし読み捨てのペーパーバックの1冊としてこの作品が生まれ、ジム・トンプスンが死後再評価されたことなど、キングの解説が詳しい。本屋に戻ってジム・トンプスンの在庫を調べて貰ったら、『内なる殺人者』というのが90年代に出ているから、これが新訳で最近刊行されたようだ。セクシャルな対象として女性を描くのが苦手(?)なのか、自作では恋愛を描くのを避けているように思えるキングが、解説ではまったく触れなかった主人公のルウ・フォードを愛する女二人について。
ここから先はあらすじに触れるので未読の人は読まないように。
娼婦ジョイス・レイクランドと名家の許嫁エイミー・スタントンの二人ともルウの手によって悲惨な運命を辿るのだが、死ぬまでルウを愛し、なんと死んだ(傍点強調)後も愛し続けるのだ。よよと縋りつく女では2人ともない。ジョイスとの宿命的な出逢いの強烈さ。初対面でルウとジョイスは殴り合うのだ。自らの運命を悟っているかのようなエイミーの最後の悲痛な手紙。ひどい駄文でありながら、詩的なまでに昇華された愛情の吐露。愛するとは女だけに許された特権のようにさえ思える。望まぬのに人殺しの道を歩き続けるルウの言動の不条理には神性すら漂い、最後の1行までルウは供笑し続ける。奇跡のような小説だ。ジュンク堂あたりで既刊を探さねば。
ここから先はあらすじに触れるので未読の人は読まないように。
娼婦ジョイス・レイクランドと名家の許嫁エイミー・スタントンの二人ともルウの手によって悲惨な運命を辿るのだが、死ぬまでルウを愛し、なんと死んだ(傍点強調)後も愛し続けるのだ。よよと縋りつく女では2人ともない。ジョイスとの宿命的な出逢いの強烈さ。初対面でルウとジョイスは殴り合うのだ。自らの運命を悟っているかのようなエイミーの最後の悲痛な手紙。ひどい駄文でありながら、詩的なまでに昇華された愛情の吐露。愛するとは女だけに許された特権のようにさえ思える。望まぬのに人殺しの道を歩き続けるルウの言動の不条理には神性すら漂い、最後の1行までルウは供笑し続ける。奇跡のような小説だ。ジュンク堂あたりで既刊を探さねば。