ある掲示板で、「自分はいかなる局面において「当事者」であるか」という問いを目にした。94年のルワンダ虐殺の際の実話に基づく映画「ホテル・ルワンダ」を観て考えてみると、俺は殺されるツチ族ではもちろん、殺すフツ族でもあり得る。つまり、いかなる局面においても「当事者」であり得るが、必死の機転で1200人余の避難民を救うポール・ルセサバギナではあり得ないだろうなと思った。
ただ、この問いを発した人は、「当事者」と括弧でくくっている。たった100日間に100万人が殺された事実をもってして、映画は圧倒的な殺し殺される当事者を映し出す。しかし、その場にはジャーナリストやカメラマン、国連の平和維持軍、国際赤十字の職員、布教のために教会を開いた神父などもいた。ホテルには欧米からのビジネスマンや観光客(ルワンダはゴリラで有名)も滞在していた。彼らは殺し殺される当事者からは外れていたが、虐殺の目撃者として明らかに当事者だ。また、ポールはホテルの従業員たちに命じて、それぞれの世界の友人知人に電話をかけて救出を求める電話作戦を指揮する。この電話を受けてルワンダの人々の窮地を知った人たちも当事者だろう。また、この映画は当然、興行的な成功を見込めないために、世界各国で上映運動が組織されたそうだが、上映に携わった彼らは当事者だろうか。
そして、映画館に足を運んだり、こうしてDVDを観る私たちはどうだろうか。当事者ではない、だろう。ただし、どのような当事者にもなり得る「当事者」ではあるかもしれない。殺し殺される者だけが当事者ではない。虐殺がいまここではじまっているとき、殺しを止めるか、殺しから逃げるしかない。この映画を観ているあなたたち観客も、止めるか逃げるかに携わる当事者にはなれるんだよ、映画はそう語りかけているようだ。「ホテルカルフォルニア」が実在しないように、「ホテル・ルワンダ」という名のホテルはない。しかし、「ホテルレバノン」は確実にありそうだし、もしかすると、「ホテルアメリカ」や「ホテルジャパン」があってもおかしくない。ここでは、ホテルは端に商業的な宿泊施設以上の多義的な意味を持つ。
ルワンダの四つ星ホテルであるミル・コリンのフツ族の支配人ポールは、ホテルに逃げ込んできた避難民を最後まで客として遇し、従業員にも勤務を続けることを求める。なかには、ツチ族の避難民をフツ族の凶暴な民兵に売ろうとする従業員もいるが、ポールはそいつを排除しない。銃やナタで武装して押し入ってくる政府軍や民兵に、ポールはベテランホテルマンらしい満面の笑顔と見栄をくすぐる話術、秘密めかした情報、そして賄賂を武器に立ち向かう。客と従業員を守るために。命が大事なら、同じ武器を使って、自分と家族だけはさっさと逃げ延びられたかもしれないのに、ポールはあくまでもホテルを守ろうとする。同時に自分の命に代えても守りたい妻にポールはこう言い含める。「もし、民兵がホテルに入ってきたら、子どもたちを連れて屋上に逃げろ」「そして、飛び降りろ。ナタで殺されるよりましだ」と。ポールが守るホテルとはなんだろう。ポールはなぜホテルマンとしての仕事を全うしようとするのだろう。また、ユーモラスな場面もある。四つ星ホテルはいまや難民収容所と化しているのに、一応、各部屋をノックして請求書を配っていくのだ。
殺し殺されるという事実に私たちはどうしても圧倒されてしまう。それだけがすべてに思えてしまう。しかし、殺し殺されようとしている人間も、腹が減れば食事をするし、夜になればベッドで眠り、排泄もし、笑顔も見せる。それら人の営みのすべてをホテルは提供する。ポールにとってはそれが仕事でもある。殺し殺されは、人の極限かもしれないが、その間にも人は生きている、生きようとしている現実がある。この映画は、まさにその現実、換言すれば当時者性に解を見出そうとしているようだ。殺されたくなければ、殺そうとする相手を殺せばいい。アメリカ映画の多くは手を変え品を変え、私たちにそう説く。戦争や虐殺の眼前にして、はたしてこれは現実的だろうか? 戦争を仕掛けそうな、あるいは虐殺をしそうな相手をあらかじめ殺してしまうというなら、より現実的といえる。だが、それならツチ族を根絶やしにしようとしたフツ族と同じ考え方ではないか。私たちはあらかじめ、その現実を選び、当事者となり得るだろうか? この映画に登場する多くの当事者とは、何らかの選択や自覚に基づくものではない。少なくともそんなことはあり得ない、とこの映画を観ればわかる。虐殺の淵にいた1200人余の難民を救ったのは、国連の平和維持軍でも、世界規模のジャーナリズムでも、NGOでもなく、ポールが体現するホテルなのだ。
これは野蛮なアフリカの土人の話では、けっしてない。ラジオが虐殺を煽動したことなど、メディアとの関係も私たちにとってごく身近なものだ。私たちは括弧付きのホテルに住む括弧付きの当事者である。
ただ、この問いを発した人は、「当事者」と括弧でくくっている。たった100日間に100万人が殺された事実をもってして、映画は圧倒的な殺し殺される当事者を映し出す。しかし、その場にはジャーナリストやカメラマン、国連の平和維持軍、国際赤十字の職員、布教のために教会を開いた神父などもいた。ホテルには欧米からのビジネスマンや観光客(ルワンダはゴリラで有名)も滞在していた。彼らは殺し殺される当事者からは外れていたが、虐殺の目撃者として明らかに当事者だ。また、ポールはホテルの従業員たちに命じて、それぞれの世界の友人知人に電話をかけて救出を求める電話作戦を指揮する。この電話を受けてルワンダの人々の窮地を知った人たちも当事者だろう。また、この映画は当然、興行的な成功を見込めないために、世界各国で上映運動が組織されたそうだが、上映に携わった彼らは当事者だろうか。
そして、映画館に足を運んだり、こうしてDVDを観る私たちはどうだろうか。当事者ではない、だろう。ただし、どのような当事者にもなり得る「当事者」ではあるかもしれない。殺し殺される者だけが当事者ではない。虐殺がいまここではじまっているとき、殺しを止めるか、殺しから逃げるしかない。この映画を観ているあなたたち観客も、止めるか逃げるかに携わる当事者にはなれるんだよ、映画はそう語りかけているようだ。「ホテルカルフォルニア」が実在しないように、「ホテル・ルワンダ」という名のホテルはない。しかし、「ホテルレバノン」は確実にありそうだし、もしかすると、「ホテルアメリカ」や「ホテルジャパン」があってもおかしくない。ここでは、ホテルは端に商業的な宿泊施設以上の多義的な意味を持つ。
ルワンダの四つ星ホテルであるミル・コリンのフツ族の支配人ポールは、ホテルに逃げ込んできた避難民を最後まで客として遇し、従業員にも勤務を続けることを求める。なかには、ツチ族の避難民をフツ族の凶暴な民兵に売ろうとする従業員もいるが、ポールはそいつを排除しない。銃やナタで武装して押し入ってくる政府軍や民兵に、ポールはベテランホテルマンらしい満面の笑顔と見栄をくすぐる話術、秘密めかした情報、そして賄賂を武器に立ち向かう。客と従業員を守るために。命が大事なら、同じ武器を使って、自分と家族だけはさっさと逃げ延びられたかもしれないのに、ポールはあくまでもホテルを守ろうとする。同時に自分の命に代えても守りたい妻にポールはこう言い含める。「もし、民兵がホテルに入ってきたら、子どもたちを連れて屋上に逃げろ」「そして、飛び降りろ。ナタで殺されるよりましだ」と。ポールが守るホテルとはなんだろう。ポールはなぜホテルマンとしての仕事を全うしようとするのだろう。また、ユーモラスな場面もある。四つ星ホテルはいまや難民収容所と化しているのに、一応、各部屋をノックして請求書を配っていくのだ。
殺し殺されるという事実に私たちはどうしても圧倒されてしまう。それだけがすべてに思えてしまう。しかし、殺し殺されようとしている人間も、腹が減れば食事をするし、夜になればベッドで眠り、排泄もし、笑顔も見せる。それら人の営みのすべてをホテルは提供する。ポールにとってはそれが仕事でもある。殺し殺されは、人の極限かもしれないが、その間にも人は生きている、生きようとしている現実がある。この映画は、まさにその現実、換言すれば当時者性に解を見出そうとしているようだ。殺されたくなければ、殺そうとする相手を殺せばいい。アメリカ映画の多くは手を変え品を変え、私たちにそう説く。戦争や虐殺の眼前にして、はたしてこれは現実的だろうか? 戦争を仕掛けそうな、あるいは虐殺をしそうな相手をあらかじめ殺してしまうというなら、より現実的といえる。だが、それならツチ族を根絶やしにしようとしたフツ族と同じ考え方ではないか。私たちはあらかじめ、その現実を選び、当事者となり得るだろうか? この映画に登場する多くの当事者とは、何らかの選択や自覚に基づくものではない。少なくともそんなことはあり得ない、とこの映画を観ればわかる。虐殺の淵にいた1200人余の難民を救ったのは、国連の平和維持軍でも、世界規模のジャーナリズムでも、NGOでもなく、ポールが体現するホテルなのだ。
これは野蛮なアフリカの土人の話では、けっしてない。ラジオが虐殺を煽動したことなど、メディアとの関係も私たちにとってごく身近なものだ。私たちは括弧付きのホテルに住む括弧付きの当事者である。