コタツ評論

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ノーベル賞4人

2008-10-09 15:46:12 | ノンジャンル
物理学で3人、化学で1人。うち2人は80歳代。70年代の研究が評価されたという。祝賀ムードに水を差すつもりはないが、では80年代90年代00年代の研究も同様に、後世に評価されるのだろうかと疑問。バブル期の80年代から、高校生の理科離れや工学部卒の畑違いの就職は顕著な傾向だった。自然に触れずに理科に眼を開かれることは稀なはず。工学部出身者が畑違いの金融機関や証券会社に就職の列をなしたはず。研究を志す学生の厚みは、かつてよりはるかに薄くなったと思われるからだ。

かつて、というのはいつか? 彼らが若き日に、湯川秀樹や朝永振一郎のノーベル賞受賞に刺激され、研究者を志したのは戦後まもなくのことである。「日本人受賞」というが、彼らは戦前の生まれか、戦前世代の薫陶を受けた人たちなのだ。「勉学に励む」と「功利に走る」ことが真逆であるか、まったく別次元のことだと考えられていた、少なくともそう考えようとしていた時代の話なのである。

現代では、「勉学に励む」ことがすなわち「功利に走る」ことを意味しているから、勉学を忌避することが青少年にとって通俗への抵抗のひとつであり、あながちそうした考えを否定できない事例にも事欠かない。たとえば、「日本は単一民族」「成田空港の農民はゴネ得」「日教組をぶっ壊せ」などの「失言」で辞任した中山成彬前国交大臣。鹿児島ラサール高から東大法学部へ進み、大蔵省入省までには相当勉学に励んだだろうに、この程度なのである。

勉学に励んでも中山成前大臣がせいぜいならば、ノーベル賞を受賞した名古屋大出身の物理学者2人と同じく還暦をとうに過ぎても、教員組合が諸悪の根元であるかのような世界観と教育からの精神的外傷性しか残らないような「功利に走るための勉学」をとりあえず拒否するのは、むしろ理に適っているとさえ思えてしまう。受賞者の一人が、「(ノーベル賞を受賞は)学問とは無関係な社会現象」と困惑顔でいったのと比べると、同じ日本人といっても、そのエートスはまるで違う。

もちろん俺たちは、どちらかといえば中山成彬前国交大臣に近い「この程度」の日本人である。「勉学に励む」ことを「功利に走る」手段と考え、成田の農民のように異議申し立てはせず、組合活動は白眼視し、日本の同質性を信じて、中流の功利を求めたが得られず、いま「格差社会」に怯え傷ついている。「ノーベル賞という社会現象」は、そんな傷ついた俺たちと俺たちの社会に気づかせてくれる効用はある。