『超訳 資本論』(的場 昭弘 祥伝社新書)
驚いた①
いや、超訳にではない。
「価値論や価値形態論といった難しい議論をすべてとりあえず捨象するならば、『資本論』は階級闘争の書です」(はしがき 4頁)
振ってあるルビに愕然した。
「とりあえずしゃしょうするならば」?
捨象は<ちゅうしょう>と読むのではないのか?
俺はずっと<ちゅうしょう>と読み、<ネグレクト>と同義に使っていた。
「ちゅうしょうといってもちゅうしょうてきのちゅうしょうではなく、捨て去るほうのネグるほうのちゅうしょうね」と解説した覚えすらある。無知に教えるかのように。
アリアリランスリスリランアラリガナンネエエー(密陽アリランより)。
驚いた②
マルクスは『資本論』執筆当時、経済学の素人であった。
いや、素人視されていた、というが正しいか。
本書は『資本論』及びマルクスを、革命家による階級闘争の書と位置づける。なるほど、何が書いてあるかより、誰が何の目的で書いたのか、それがまず重要なのだ。忘れがちなことだ。経済理論としては問題があるとか、資本制の分析においては優れているとか、的はずれに過ぎない。とすれば、この的はずれを盛んにやってきた人々が、いわゆるマルクス経済学者たちだったわけだ。革命が近づけば、マルクスの擁護者と名乗りを上げ、革命が遠のいても、マルクス経済学の研究者として安泰である。二股かけているわけだ。学者と知識人は重なる場合が少なくないが、重ならない例も少なくないわけだ。というより、学者と知識人の顔を使い分けるわけだ。ほかの学問分野では見かけない立場だ。大学で学生に文学を教える文学者でありながら、小説も書くというのに近いかもしれない。どちらにも逃げ込める狡い鵺なわけだ。「白鳥の歌」は歌えないわけだ。
驚いた①
いや、超訳にではない。
「価値論や価値形態論といった難しい議論をすべてとりあえず捨象するならば、『資本論』は階級闘争の書です」(はしがき 4頁)
振ってあるルビに愕然した。
「とりあえずしゃしょうするならば」?
捨象は<ちゅうしょう>と読むのではないのか?
俺はずっと<ちゅうしょう>と読み、<ネグレクト>と同義に使っていた。
「ちゅうしょうといってもちゅうしょうてきのちゅうしょうではなく、捨て去るほうのネグるほうのちゅうしょうね」と解説した覚えすらある。無知に教えるかのように。
アリアリランスリスリランアラリガナンネエエー(密陽アリランより)。
驚いた②
マルクスは『資本論』執筆当時、経済学の素人であった。
いや、素人視されていた、というが正しいか。
本書は『資本論』及びマルクスを、革命家による階級闘争の書と位置づける。なるほど、何が書いてあるかより、誰が何の目的で書いたのか、それがまず重要なのだ。忘れがちなことだ。経済理論としては問題があるとか、資本制の分析においては優れているとか、的はずれに過ぎない。とすれば、この的はずれを盛んにやってきた人々が、いわゆるマルクス経済学者たちだったわけだ。革命が近づけば、マルクスの擁護者と名乗りを上げ、革命が遠のいても、マルクス経済学の研究者として安泰である。二股かけているわけだ。学者と知識人は重なる場合が少なくないが、重ならない例も少なくないわけだ。というより、学者と知識人の顔を使い分けるわけだ。ほかの学問分野では見かけない立場だ。大学で学生に文学を教える文学者でありながら、小説も書くというのに近いかもしれない。どちらにも逃げ込める狡い鵺なわけだ。「白鳥の歌」は歌えないわけだ。