「イスラム国」がヨルダン人パイロットを焼き殺す動画を観た。そう、見た、視たではなく、観たのだ。ここから先は、18歳未満の青少年と、18歳以上ではあっても精神的に未成熟な人は読むべきではない。
もちろん、残虐な映像であった。ただし、胸がむかついた、吐き気を催した、野蛮きわまるという感想を述べることはできない。もし、そう感想をする人がいたとしたら、その人はじっさいには動画をみていないとしか思えない。あるいは、常套句を常識ととりちがえているのだろう。
まず、動画映像として、カメラ、照明、カット割り、編集、そして演出のすべての面において、きわめて高い技術が駆使されて完成度が高い。欧米のTV制作会社でじゅうぶんな経験を積んだプロフェッショナルが携わったことは間違いない。
あまりに流麗なカメラワークに驚き、欧米の一流のCM作家を雇って撮らせたフェイクではないのかと思った。いまもフェイクであってほしい、と願っている。そして、とまどわざるを得ないのは、この動画からまぎれもなく広汎な映画的な教養と繊細な美意識を感受できることだ。
やはり、言うべきことをなんとか言わずにすますことはできないかと逡巡している。なんでも言えばよいのか、語ればいいのかと内心の声は止めようとしている。しかし、観てしまった。観る以前にはもう戻れない。
グロテスクな首斬り動画はこれまで何度もみてきている。私を狼狽させ、恐怖させ、逡巡させているのは、この焼殺動画がほとんどグロテスクではなかったことなのだ。胸がむかつき、吐き気を催し、野蛮きわまる、とはまったく異なる情動を私に及ぼした。
事実として私に起きたことを語れば、美しく厳かな殺人の映画を観た、というほかにない。供犠という言葉が思い浮かんだ。ヨルダン人パイロットへではなく、死に対する憧憬と敬意がうかがえる映像だった。
まんまと「イスラム国」のプロパガンダに乗せられた脆弱な精神と罵られたいと思う。この動画をみた上でのことだが。
一人の若者を生きたまま焼き殺す悪より、その一部始終を美しく厳かなまでに撮影してみせる技術と知性に、底しれぬ人間悪を見出すべきなのかもしれない。しかし、しかし、という谺が聴こえてくるのだ。
もちろん、残虐な映像であった。ただし、胸がむかついた、吐き気を催した、野蛮きわまるという感想を述べることはできない。もし、そう感想をする人がいたとしたら、その人はじっさいには動画をみていないとしか思えない。あるいは、常套句を常識ととりちがえているのだろう。
まず、動画映像として、カメラ、照明、カット割り、編集、そして演出のすべての面において、きわめて高い技術が駆使されて完成度が高い。欧米のTV制作会社でじゅうぶんな経験を積んだプロフェッショナルが携わったことは間違いない。
あまりに流麗なカメラワークに驚き、欧米の一流のCM作家を雇って撮らせたフェイクではないのかと思った。いまもフェイクであってほしい、と願っている。そして、とまどわざるを得ないのは、この動画からまぎれもなく広汎な映画的な教養と繊細な美意識を感受できることだ。
やはり、言うべきことをなんとか言わずにすますことはできないかと逡巡している。なんでも言えばよいのか、語ればいいのかと内心の声は止めようとしている。しかし、観てしまった。観る以前にはもう戻れない。
グロテスクな首斬り動画はこれまで何度もみてきている。私を狼狽させ、恐怖させ、逡巡させているのは、この焼殺動画がほとんどグロテスクではなかったことなのだ。胸がむかつき、吐き気を催し、野蛮きわまる、とはまったく異なる情動を私に及ぼした。
事実として私に起きたことを語れば、美しく厳かな殺人の映画を観た、というほかにない。供犠という言葉が思い浮かんだ。ヨルダン人パイロットへではなく、死に対する憧憬と敬意がうかがえる映像だった。
まんまと「イスラム国」のプロパガンダに乗せられた脆弱な精神と罵られたいと思う。この動画をみた上でのことだが。
一人の若者を生きたまま焼き殺す悪より、その一部始終を美しく厳かなまでに撮影してみせる技術と知性に、底しれぬ人間悪を見出すべきなのかもしれない。しかし、しかし、という谺が聴こえてくるのだ。