>自分らと同じ特権階級的に遇されてよい、あたかも「上級国民」だったから、過去のイジメは無視されてきたのだとする記事さえあった。
たとえば、慶応のラグビー部の伝統的就職先の上位は、三菱商事やフジテレビだったりするのだが、そのなかでも附属出身者の就活が強いとされる。つまり、慶応の就活最強は、附属・体育会閥なのだ。
小山田圭吾はセツ・モードセミナーという美術学校に学んでいるが、最終学歴としては和光学園高校卒である。しかし、慶応附属出身者の多くがそうであるように、分野は違えど、親族や親戚に音楽芸能界や芸術分野に活躍する人たちに恵まれている。
金や地位という資産ではなく、音楽的な才能という文化資産を受け継いでいるという点が、彼ら附属出身者にある畏敬の念を抱かせたのではないかというのは、なかなか説得力がある視点だろう。
同じ慶応でも幼稚舎など附属から進学した者と高校や大学から進学した者との間には、ほとんど交流がないといわれる。幼稚舎から内部進学者なら、たとえ東大理3に軽々と現役で合格するような秀才でも、当たり前のように慶応医学部に進学するという。
そんな彼らから「仲間意識」を持たれる小山田なら、身体の動きがふつうでない、コミュニケーションがとりにくい同級生(障碍者)のイジメに加わるのも、たぶんそれは悪質なものであるはずだという予断を抱くのもまた、わかりやすいことだ。
そして、そういう予断と無縁ではない我々にとって、小山田の語るその同級生への屈折した「友情」に近い何らかの情理というのはわかりにくい。
「日本いじめ紀行」の小山田インタビューは、そのわかりにくさを保持しているのが取り柄といえる。
スラボイ・ジジェクが親イスラエルと親パレスチナ、反イスラエルと反ハマスの線引きは間違っているといっている。
あるいは元仏外相ドミニク・ドヴィルバンは「パレスチナ惨事」について、「西洋主義」などの数々の罠に囚われぬ、「対話の継続」という希望に熱弁を振るっている。
「小山田圭吾炎上事件」についても、そうした地獄を招き寄せる、我々の線引きやそれを正当化する数々の罠は通底しているように思える。
しかし、対話は続いているし、積み重なっている、日本においては、たとえそれが正統なジャーナリズムやメディア発ではないとしても。
やっぱり、魯迅がよく引用したポーランド詩人の言葉が思い浮かぶ。
ー絶望の虚妄なること希望に同じい
(止め)