コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

ダークナイト(The Dark Knight)

2008-12-09 18:14:00 | レンタルDVD映画
陰惨極まる神経症的な傑作。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%88

傑作とはいいたくないのだが、すこぶるつきの出来であることは疑えない。が、子どもに観せていい映画ではない。ダーク・ファンタジーといった味わいすら乏しい。善と悪の戦いではないのはいうまでもない。

「911」と対テロ戦争(@ブッシュ)を背景として、絶対的な敵と非妥協の戦いに立たされたアメリカがバットマンに重ねられている。「911」で受けたアメリカの深い傷と対テロ戦争への疑義の間で揺れ動く、バットマンのメランコリックな黒い瞳。

市民社会をどう守るかという問題の立て方ではなく、市民社会にどう受け入れられるかという懊悩がテーマかもしれない。という図式さえ「ジョーカー」が繰り出す一撃一撃に動揺する。

『ブロークバックマウンテン』で悩ましい美青年を演じたヒース・レジャーが、何という変わり様。「俺はただの泥棒だった。お前が現れるまでは」「俺たちは化け物同士」。最強は最狂に至り最凶を招く。

「ジョーカー」が憑依したがごとき狂演。深淵をのぞき見る者はまた深淵から見返されている。若い観客の何割かにとっては、トラウマ映画になるだろう。

亀戸の古本屋で2冊

2008-12-09 00:18:23 | ブックオフ本
最近はブックオフを利用することが少なくなった。町の古本店よりかなり高いからだ。著者名のアイウエオ順で並べている町の店のほうが探しやすいこともある。

『アメリカの鱒釣り』(リチャード・ブローティガン 新潮文庫)

「アメリカの鱒釣り」を対象として語ったものではない。「アメリカの鱒釣り」が主格として語るのである。えらく変わった小説だ。続く。

『ロシア 闇と魂の国家』(亀山 郁夫 佐藤 優 文春新書)

ドストエフスキーの新訳が大ヒットしたロシア文学者と、ソ連ロシア駐在が長かった起訴休職事務官のロシアをめぐる対談。いま話題の二人をぶつけた企画とみられるが、二人の出会いは佐藤優の同志社大学生時代にさかのぼる旧知の仲。

同志社に非常勤講師として教えに来ていた亀山郁夫と11歳下の学生であった佐藤優は、ロシア文学の勉強会で知り合っている。にもかかわらず、東京外語大学長でもある亀山は、本書の前書きで、「尊敬する佐藤さん」とさらりと書いている。

ただちに次のことが推測できる。たぶん、佐藤優は、大学生のときもいまと変わらず一種異様な迫力があったのではないか。少なくとも幼稚とか浅薄といった「若者らしさ」は見られず、一個の大人として対せざるを得ない男だったのではないか。

また、次のこともただちに了解できる。亀山郁夫も佐藤優も、自らをロシアと日本にまたがる知識人と規定している。学者や専門家に納まらず、ロシア革命に至る過程でレーニンが批判し、レーニンが再定義した知識人、インテレクチャルではなくインテリゲンツィアである。

プーチンのロシア大統領再登板はないと二人で断言するなど、一般的な興味関心を惹くのは導入部のみ。後はドストエフスキーやロシア正教が縦横に論じられる。知識や情報を受け売りして人に披瀝したい向きには、本書は向かない。彼ら二人には有名らしいが、一般にはほとんど知られていないロシア人やチェコ人の知識人の名前が次々飛び出す。

本書を一言で紹介するなら、ロシアやキリスト教を勉強してきた二人の知識人による、知識人の本ということになるか。知識人への言及が多い。

「しかしわたしは、自民族をはげしく愛しながらも、つねに民族的な利益よりも人間性や学問の利益の方に一段と大きな敬意を表するものであります」(チェコ民族の父と呼ばれるパラツキーの書簡より)

「米原万里さんの根源的な真面目さの継承こそ、われら生き残っている知識人の責務です。日本の知識人の世界は、真面目さが欠如していて、閉塞状況にあります」(佐藤)

「知識人というものは本来、制度化されたアカデミズムの中で知的な訓練を受けて、「物語」をつくる機能が社会の役割として期待されてきたはずなのに、ポストモダンの知識人はその役割を放棄して、個人として知的に面白いことに戯れているのです」(佐藤)

ところで、米原万里の『オリガ・モリソヴナの反語法』とはそれほどの傑作なのか。読んでみたいけれど、亀戸や町屋の古本屋に下りてくるとは思えないな。

(敬称略)

超訳 資本論

2008-12-03 22:00:21 | 新刊本
『超訳 資本論』(的場 昭弘 祥伝社新書)

驚いた①
いや、超訳にではない。

「価値論や価値形態論といった難しい議論をすべてとりあえず捨象するならば、『資本論』は階級闘争の書です」(はしがき 4頁)

振ってあるルビに愕然した。
「とりあえずしゃしょうするならば」?
捨象は<ちゅうしょう>と読むのではないのか?
俺はずっと<ちゅうしょう>と読み、<ネグレクト>と同義に使っていた。
「ちゅうしょうといってもちゅうしょうてきのちゅうしょうではなく、捨て去るほうのネグるほうのちゅうしょうね」と解説した覚えすらある。無知に教えるかのように。
アリアリランスリスリランアラリガナンネエエー(密陽アリランより)。

驚いた②

マルクスは『資本論』執筆当時、経済学の素人であった。
いや、素人視されていた、というが正しいか。
本書は『資本論』及びマルクスを、革命家による階級闘争の書と位置づける。なるほど、何が書いてあるかより、誰が何の目的で書いたのか、それがまず重要なのだ。忘れがちなことだ。経済理論としては問題があるとか、資本制の分析においては優れているとか、的はずれに過ぎない。とすれば、この的はずれを盛んにやってきた人々が、いわゆるマルクス経済学者たちだったわけだ。革命が近づけば、マルクスの擁護者と名乗りを上げ、革命が遠のいても、マルクス経済学の研究者として安泰である。二股かけているわけだ。学者と知識人は重なる場合が少なくないが、重ならない例も少なくないわけだ。というより、学者と知識人の顔を使い分けるわけだ。ほかの学問分野では見かけない立場だ。大学で学生に文学を教える文学者でありながら、小説も書くというのに近いかもしれない。どちらにも逃げ込める狡い鵺なわけだ。「白鳥の歌」は歌えないわけだ。

善き人のためのソナタ

2008-12-03 13:48:23 | レンタルDVD映画
ケーブルTVの放映を観た。

善き人のためのソナタ
(Das Leben der Anderen、英題:The Lives of Others)
http://www.albatros-film.com/movie/yokihito/

「ヒトラーの贋札」以上の傑作。お子さま向けばかりのハリウッド映画では、もはや作れなくなった大人のための完璧な娯楽作品。

アクションシーンは無し。銃撃シーンはもちろん銃器すら撮されない。美しい建築物や自然風景のロケは無し。大がかりなセットや群衆シーンも無し。ベルリンの古いアパートメントの居室と東独の秘密警察シュタージの取調室が主要場面。若く美しい男女は出てこず、ベッドシーンやラブシーンもほとんど無し。中年男4人と中年女一人が出ずっぱり。喜怒哀楽が直接描かれることはほとんどない。長いセリフも無し。マンガ記号でいえば、「……」が多い。音楽は、BGMではないオリジナル音楽は、「善き人のためのソナタ」というピアノ曲がただ1回短く弾かれるだけ。

にもかかわらず、暴力と対話を重要なモチーフとした、リアルでサスペンスフルな人間ドラマが間断なく展開する。140分という長尺をまったく感じさせない。もったいつけた思わせぶりな終わりかたもしない。どの国の誰が観ても、映画館を出るときには、最後のストップモーションで陰気なシュタージの元大尉がそうしたように、ほんのかすかな満足の笑みをその瞳に浮かべているだろう。「プレゼントですか?」「いや、私のための本だ」。空洞のようだった黒い瞳が輝くハッピーエンド。

演劇や音楽や文章や言葉が、人間を「善き人」に変える。いや、人間は変えられる、改造できる、とするのが全体主義国家だから、それに抵抗する無名無告の「善き人」を演劇や音楽や文章や言葉が見出すというべきか。「善き人」からみれば、呼ばれてしまう。シュタージの厳格なヴィースラー大尉は、ドライマンの戯曲とそのヒロインを演じたクリスタの演技を観たときから、それと気づかずに呼び出され、後戻りできない「善き人」の道を歩みだす。

シュタージの優秀な猟犬として、ドライマンの演劇に反国家主義の臭いを嗅ぎつけたつもりだったのだが、偶然カフェに入ってきた監視対象の女優クリスタに、「あなたのファンです。舞台のあなたは輝いていた。あなたは偉大な芸術家です」と賛辞を述べる自分を止められない。必要もないのに一人でカフェに入り酒を注文する、極秘作戦中に当の監視対象に話しかける、それまでの謹厳実直な生活態度と隠密行動を大きく踏みはずして、葛藤に揺れるこのカフェの場面が秀逸だ。

ヴィースラー大尉を演じたウルリッヒ・ミューエの好演はもちろんだが、その上司のアントン役のウルリッヒ・トゥクル、さらにその上司のヘンプフ大臣の悪役ぶりが素晴らしい。どのように体制が変わっても体制側に席を占めて生き残っていく、きわめて有能な卑劣漢を過不足なく見せてくれて、この映画が暴き突きつけた国家と人間の悪の提携が続いていることを納得させる。娯楽映画とか映画芸術といった区分を無意味にする圧倒的な力を持った奇跡的な映画だ。