Zooey's Diary

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「ナルニア国物語 カスピアン王子の角笛」 

2008年06月05日 | 映画
”ペペンシー兄妹の治めた黄金時代から1300年の歳月が流れたナルニア国。
かつて全能なる王アスランに祝福され、生きとし生けるもの全てが
幸福に包まれていた魔法の国は、戦闘民族テルマール人に征服され、
もはや存在しない。人間たちに迫害され生き残ったナルニアの民は森に逃れ、この暗黒の世界に再び光をもたらす者の出現を待ち続けていた。”(goo映画より)

私がこの映画を観た時、敬虔なクリスチャンであるアメリカ人の友人も一緒でした。
原作者のC.S.ルイスがクリスチャンであり、この作品がキリスト教をベースに書き上げられたものであることは周知の事実だと思うのですが、映画の中の、私が気がつかなかった隠された意味などを教えて貰い、なるほど…と思うところ多々ありました。

逆に言えば、そりゃこの映画をクリスチャンが観たら喜ぶだろうなあ、などと不信心の私は思ってしまった訳ですが。
ぺぺンシー家の4人の姉妹は、権力争いに巻き込まれたカスピアン王子を助けて、平和を愛するナルニア人と共に、戦闘的なテルマール人と闘うのですが、その力の違いといったら、丸腰の自衛隊と、核爆弾を持ったアメリカ軍くらいの違いがあるのです。
どう見たって勝ち目はない。
それでも、知恵と勇気を振り絞って彼らは必死に戦うのですが、頼みの綱の、全能の王アスランは中々現れてくれない。
味方が次々と殺され、彼らの砦も落とされ、もう愈々駄目か…という時になって、ようやく末っ子ルーシーと共に現れるのです。

全能の王アスランというのは、見事なたてがみを持ったライオンなのですが、彼らにとっては当然キリストであるらしい。
どうしてもっと早く現れなかったの?と友人に聞くと、その時を待っていたのだ、と。
ナルニア人もカスピアン王子もぺパンジー姉妹もまだアスラン(神)を信じ切れてなかった、だから負け戦さに苦しまなければならなかった。
でも、末っ子のルーシーにだけは最初からアスラン(神)が見えていた。
だから、ルーシーにはその姿を現したのだ、と。

ラストの”テルマール人の本来の土地”へ行くシーンは、モーゼの”出エジプト”を表わしているのだそうです。
ネズミの隊長リーピチープが「私が11人を連れて行こう」と言うところの11人は、キリストの12人の弟子のユダ以外を表わしているのだと。

この映画のレビューに少しばかり目を通してみましたが
”面白かった、戦闘シーンに興奮した、
CGの素晴らしさ、舞台となったNZの自然の美しさに感動した、
2時間半退屈しなかった”という感想が多く見られました。
アメリカではこの原作本は、小学校や教会の日曜学校で、手引書のように使われることもあるらしい。
勿論神を信じないアメリカ人も沢山いるのでしょうが、それでもこの作品を見る目は、日本人とは随分違うのだろうなあと思わずにはいられません。

それにしても、牧歌的であった前作に比べて随分大掛かりな戦闘シーンが増え、まるで「ロード・オブ・ザ・リング」のようになってきました。
ソバカスを砂のように撒き散らした愛嬌のある顔のぺベンシー家の姉妹も、残虐な戦闘に加わっているのです。
私が愛した児童文学とは随分変わってきてしまいました。
面白いには面白いのですが。
残念な気がします…

☆3.5

「ナルニア国物語 カスピアン王子の角笛」 
コメント (2)
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