Zooey's Diary

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「ヴェネツィア 私のシンデレラ物語」

2020年02月16日 | 

歳の離れたイタリアの大富豪と結婚した日本女性、位にしか知らなかったチェスキーナ洋子氏。
どんな人生を送ったのかという好奇心で読んでみました。

1932年、著者は熊本の政治活動をする永江家の長女として生まれる。
白い洋館でお手伝いさんもいるという裕福な家だったが、父親は事業に失敗し、夫婦仲も悪く、結構大変な子供時代を送ったらしい。
母親が家出したり、父親が亡くなったり、叔母に引き取られたりと、思春期の3年間に三度苗字を変え、住まいも学校も変えたというのですから。
それでも彼女は音楽が好きで、ピアノを心の支えにして生きていたといいます。



芸大ハープ科に入学して上京、東京交響楽団のハープ奏者としても活動する。
その頃、芸大の学生と学生結婚、しかしこれはすぐに破綻。
1960年イタリア政府給費留学生として、ベネツィア音楽院に留学。
ここで彼女は言葉やお金に苦労しながらも、水を得た魚のように生き返る。
”ふり返ってみると、私はこれまで、自分はどこか変わっている人間ではないか、世間の常識から外れたはみ出し人間なのではないか、と、ずーっと引け目に感じていた。
ところがどうだろう、この国の人たちの、この明るさ、この率直さ!これまでの自分がバカみたいに思えた。もう、ここでは遠慮はいらないんだ、自分は自分のままでいいんだ、そう気がつくと、私は身も心もすっかり軽くなっていた。”

そんな頃に、彼女はバールで26歳上のレンツォ・チェスキーナに見初められるのです。
二人は楽しく付き合い始めるが、結婚したのは出逢ってから15年後。
その間には別れたり、彼女が他の男性と結婚しようとしたり、まあ色々あったらしい。
そもそも最初の頃は恋人として熱い時を過ごしたが、その後はずっと、父娘のような関係になってしまったというのです。
1977年に結婚したのは、70歳になったレンツォが自分の歳を実感したこと、そして彼女に全財産を残したいと考えたからだろうと、彼女は述懐しています。

その5年後、1982年にレンツォは心不全で死去。
そこから300億円の遺産を巡る、長く厳しい闘いが始まるのです。
彼女に全財産を残すというレンツォの遺書が、彼女の偽造だと遺族が起訴。
民事、刑事で訴えられ、イタリア中を騒がせたという裁判は10年の長きに渡り、最終的に彼女が勝訴を勝ち取ったのは、1993年であったと。
晴れて遺産を相続した彼女は、音楽家のパトロンとして世界的に活躍し、2015年に死去。



この本の表紙の写真は、ベネツィアのチェスキーナ家なのだそうです。
高齢になってからの彼女の顔しか知らなかったのですが、本の中には若い頃の写真も。
頑固一徹で自説を曲げないという「肥後もっこす」の、逞しい一代記でした。


「ヴェネツィア 私のシンデレラ物語」 

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