先に読んだ「武士の娘」は中々面白かったのですけれど
杉本鉞子の自伝的小説というそれは、殆どエッセイに近い形のものでした。
具体的なことはあまり書いてなかったので、こちらの本を読んでみました。
内田義雄著、杉本鉞子の初の評伝。
父は長岡藩の筆頭家老で、藩の役職を追われた没落士族・稲垣平助であり、
維新後はいわゆる武士の商法で零落する様が、この本には詳しく書いてあります。
その長男・央は慶應義塾に入学するも酒に溺れてすぐに退学、その後軍隊を経て
人生再起を誓って渡米するが、騙されて一文無しに。
その時助けてくれたのが、後に鉞子の夫となる杉本松雄。
松雄は京都の魚問屋の息子で早くに父を亡くし、苦労の末20歳で渡米、
サンフランシスコで下働きから始め、自分の店を持つまでになったのだそうです。
明治5年生まれの鉞子は14歳の時、家の取り決めによってその松雄と婚約することに。
上京して海岸女学校(後の青山学院)で2年、東洋英和女学校で4年間、
アメリカ人の女性宣教師たちから、英語を含めてみっちり学ぶ。
郷里長岡で厳格な武士の教育を受けた鉞子は、東京のミッションスクールで
解放的な女性の生き方を知ったようで、ここで洗礼も受けています。
ところがその後、浅草の小学校で5年間、教師として働いているのです。
これは「武士の娘」には全く出て来なかったので驚きました。
どうもこれは「全額給付生」として卒業後の奉仕活動で返済するためであったらしい。
その後アメリカに渡ってからのことは「武士の娘」に書いてあった通り。
ところが10年ほどして松雄の店は破産、そのため鉞子が二人の娘と日本に帰っているうちに
松雄は急性盲腸炎で48歳の若さで急死してしまうのです。
その辺のことも「武士の娘」にはサラリとしか触れられていませんでした。
鉞子が「アメリカの母上」と呼んでいたウイルソン夫人は著書に登場しますが
その姪のフローレンスのことはまったく出て来ません。
彼女はフローレンスと深い友情を結び、お互いに支え合い、生涯の友となります。
「武士の娘」の著述、発刊に当たってもフローレンスの力添えがなくてはあり得なかったようですが
フローレンス自身が、自分の名前は出してくれるなと願ったそうなのです。
「武士の娘」は自伝的小説と言いながら
乳母から聞いた日本の昔話や、郷里の四季や祭りごとの様子、アメリカで受けた真心や友情、
そんなことを綴る抒情的な言葉で溢れています。
つらかったこと、苦労したことは殊更に描きたくない、
それも武士の娘としての矜持だったのかもしれませんね。
1950年(昭和25年)東京にいた78歳の鉞子が亡くなる3ヶ月ほど前に、
イギリスから「武士の娘」の再販の知らせが届いたのだそうです。
病床の彼女は日本娘と桜の花のカバーに包まれた美しいその本を手に取って
「私の本が再版されて広く世界の若い方に読まれるのは嬉しいことです。今の日本の若い方にも是非読んで頂きたい、世界で最も封建的と言われる日本のサムライの娘の物語にも、民主主義の人々の心を打つ何ものかがあるのです」
と語ったということです。
鉞子 世界を魅了した「武士の娘」の生涯
新渡戸稲造の「武士道」もまだ読んでいないのですが、
「武士の娘」には興味津々です。
津田梅子を始め、明治に生きた女性は凛として素敵ですね。
よかったらご笑覧下さい。
https://blog.goo.ne.jp/franny0330/e/cdf364d6bc64d70195603727c19486ef
あの時代、女性にとっては今よりどんなにか大変だったでしょうにね。