明治5年、絵を描きたい一心で故郷の笠間(茨城県)を飛び出した山下りん。
下級武士の娘として生まれ、結婚しか女の道はないとされていた時代に、絵師になりたいと周囲の反対を振り切って上京する。
工部美術学校で学び、西洋画を更に極めたいと思った彼女は駿河台のロシヤ正教の教会を訪れ、大司教ニコライと出会う。
ニコライの尽力で、日本人初の美術留学生としてロシヤに渡ることになる。
明治初期に日本人女性がロシヤに渡り、苦労して成功した話かと思ったら、そんな単純な話ではありませんでした。
まずロシヤに渡る船の中で、驚愕の試練が待ち受けていた。
同行したロシヤ人宣教師たちは船室で寝起きし食堂で食事をするが、彼女は船底で世界中の荒くれ下男たちと雑魚寝、食事はなんと乗客の残飯を与えられる。
”けれど下士とはいえ、私も武家の生まれだ。そしてあの主教様の肝煎でロシヤに修行に行く身だ”
と思ったりんは
「わたくしは乞食ではありませぬ。なにゆえ、かほどの侮辱を受けねばならないのです」と抗議しますが
「お前、金がない。切手、最下等」
とロシヤ人宣教師に切り捨てられるのです。
こうした環境でりんは一月半かかって、ロシヤの港、オデッサに着いたのでした。
しかしこれはまだ序の口であって、サンクトペテルブルクのノヴォデヴィチ女子修道院ではもっと過酷な試練が待ち受けていた。
その詳細はネタバレになるので省略しますが、その頃りんが陥った状態、食欲がなくなり夜眠れず、朝起きられず、下痢と嘔吐を繰り返し、そしてやる気が出ないというもの。
ロシヤの医師には病気ではないと言われるのですが、これは今でいう鬱病に違いないでしょう。
あのやる気満々だったりんを鬱病にさせるほどの、りんの意思に反した境遇がロシヤに待ち受けていたのでした。
そして5年の留学予定を2年で切り上げて、帰国したのでした。
(ニコライ聖堂)
イコンとはキリストやマリアを描いた聖像画であり、山下りんは日本初のイコン画家となったのです。
りんが敬愛したニコライ大司教、彼が生涯をかけて建設した神田駿河台の東京大聖堂。
その元であるサンクトペテルブルクのニコライ聖堂、そしてノヴォデヴィチ女子修道院に、2017年に行きました。
この美しい、堂々とした建物の写真を見ると、ここに150年も前に訪れ、孤軍奮闘した日本女性がいたのだと感慨深いものがあります。
「死なば死ね。生きなば、生きよ」
りんの言葉です。
「白光」
ロシヤでは平面的な(りんに言わせると稚拙な)イコンばかり描かせられて、
それでりんは病気になってしまったのです。
人生の後半を平穏無事に過ごしたと、まあ言えるのですが
自分がロシヤまで行った画家であることを隠して
農婦として生きたようです。
昔、外から見ただけで、中には入ったことないのですよ。
ロシア、私もコロナの前、そして侵略戦争を始める前に行っておいてよかったです。
サービスは酷いもので嫌な思いもしましたが
景色は綺麗だし、食べ物は美味しいし、面白い旅でした。
りんの作品を見せていただき、ありがとうございました。
ルネッサンス時代の宗教画を想像していたので
想像していた絵とは少し異なりますが、温かみのある絵ですね。
家族からは全く認められず、家出したそうですが、
このとこにも驚きました。
べんさまへのコメントバックで、人生の後半を平穏無事に
過ごせたことを知りホッとしました。
そんなロシアで苦労されたとは知りませんでした。
写真からロシア旅行を思い出しますが、今ではプーチンが
いまいましいです。サハリン2に関しても。
それに抗って、こんな風に生きた女性もいたのかと驚きました。
彼女は子どもの頃から絵を描くことが好きで、絵師になりたい一心だったのですが
家族からは全く認められず、家出するのですよ。
しかもあの時代、交通手段もお金もなく、笠間から江戸まで風呂敷き包みかかえて野宿しながら歩いて行こうとするのです。
それだけでも凄いでしょう?
りんの作品を私も見たくてネットで検索しました。
例えばこれです。
https://pbs.twimg.com/media/EeokIeYUwAAzfAI?format=jpg&name=4096x4096
途中でやめられなくて、一気読みでした。
>芸術なのか技術なのか伝統なのか?
りんは芸術を学びたくて留学したのに
ロシヤで指導されたのは、伝統のイコンを描く技術だったのですよね。
彼女はそれに抗って、エルミタージュ美術館に通ったり、
美術の大学校への入学を希望したが、どれも叶わなかった。
彼女が病に倒れたのもむべなるかなと思います。
しかし帰国してから人生の後半、天命のように聖画製作に取り組むようになったのは
宗教の力と、彼女の成長を表しているように私は思いました。
ぺんさんも散々悩まれたのですね。
自分の好きなことを貫徹すること、
そしてそれを仕事にするということは本当に難しいのでしょうね。
本や映画や旅行の感想などブログに記しておくと
備忘録となって助かるのです。
そうしないとあっという間に忘れてしまいますから。
その上コメントなど頂けるのは、ありがたいことです。
また後でゆっくり伺いますね。
50歳以降、時代小説は浅田次郎、藤沢周平など、ほんの数人の作品しか
読んでいないことに気が付きました。
朝井まかてさんは直木賞を受賞されているので、名前だけは知っていましたが、
作品までは覚えていませんでした。
良妻賢母として家庭を守るのが当たり前の時代、自己を貫いたりんは
素晴らしい女性だと思いました。
神田駿河台の東京大聖堂は見学したことがありますが、建物を見ただけで
中には入りませんでした。もしりんの作品があるのなら見てみたいです。
この本を読むまではこのような女性がいた事を知りませんでした。
比べ物にはならないけど、若い時の悩みと重なりました。
芸術なのか技術なのか伝統なのか?
お金がない私が必死で自分で貯めて飛び込んだ学校が、まったく自分が思っていたのと違っていたので。
そこは技術を学ぶ学校だと気づくのは、入ってすぐでした。
途中で辞めそうになりながらなんとか卒業はしましたが、そこで自分の才能のなさに気が付いて挫折です。
この山下りんという女性が、たどり着いたのはどんな境地だったのかと思います。
浮世絵なども工房で作っていて、木版などで彫る人や摺る人がいて作品になったりと技術が伴います。
線引きが難しいなと思います。
父が大工だったのですが、本当は自分で図面を書いて設計もしたかったようですし、実際出来たようようだったのですが仕事が忙しすぎて結局資格を取れずで。
父は中学を出てすぐに大工の棟梁の家に弟子入りし、最後まで日本家屋専門でした。
そうそう、学校で学んで良かったのは、線を引くのはうまくなりました。
それまですごく下手だったし、何度も学校で下手と言われたんですが・・・。
これなら父の希望の道を進むことも視野に入れられたのかなと思います。
今ならデジタルが主ですし、こちらは得意です。
ただ、若くて何も知らなくて未熟でした。
造形・創造・芸術との境はなんだろうと思います。
それにこの本では宗教も絡んできて。
同じ学校でとても優秀だった友人はちゃんとデザイン事務所に入りましたが、電車で会ったときに
「クジラが帽子をかぶっている絵を描かないといけないのかわからない」と言ってました。
ご紹介、ありがとうございました。
いろいろ情報交換できる、ブログでのコメント交流、いいものですね。
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