昨日の続きです。
赤穂浪士の討ち入りは、元禄14年(1701年)3月14日の江戸城、松の廊下で始まりました。
松の廊下の図面
顔赤う(赤穂) させたがことの 起こりなり
赤穂藩主の浅野匠守長矩が、高家 吉良上野介に切りつけましたが、この刃傷事件がなぜ起こったのかをめぐって諸説があります。
巷間よく言われているのは、勅使接待に対して浅野が充分な進物をせず、指南役の吉良が意地悪をしたというものです。
浅野長矩像 本所松阪町の吉良邸跡
しかし、こんな歌もあります。
餌をかわぬが 鷹の羽(浅野家の家紋)の 落ち度なり
進物の安い(安井) がことの おこりなり
安井とは、浅野家の江戸家老安井彦右衛門のことです。
高家とは、江戸幕府としてどんな役職でどのような人がなっていたのでしょうか?
高家は、幕府の老中配下で名門、名家のことで、幕府の儀式や典礼を司った役職の一つです。
主に公家、足利一門の血筋を引く者で、日光や増上寺等の代参や朝廷の使者の接待や諸大名に対して公式の場での礼儀・作法を伝授するのも高家の役割でした。
この伝授に対して諸大名が金品の謝礼を受けることは、認められていました。
高家には、役職に就いている者を奥高家といい、役職に就いていないのは、表高家と言いました。 高家は26家あり、主な高家は、吉良家の他は、今川家、上杉家、織田家、京極家、六角家、戸田家、土岐家、由良家、中条家などがあります。
又、高家は、幕府の旗本でもあり、禄高でも万石以下で、諸大名(1万石以上)より低く、この伝授によって得る金品は、高家の大きな収入源でもあった訳です。